7芸術論 芸術と美

2020年7月1日
二 芸術と美

芸術とは何か

人間の心には知情意の三つの機能があるが、それぞれの機能に対応した活動によって、文化活動の様々の分野が形成される。知的な活動によって、哲学・科学などの分野が形成され、意的な活動によって道徳・倫理などの実践的分野が形成され、情的な活動によって芸術分野が立てられる。したがって芸術とは、「美を創造し鑑賞する情的な活動」であるといえる。

それでは芸術の目的は何であろうか。神が人間と宇宙を創造された目的は、対象を愛することによって喜びを得るためであった。同様に、芸術家の対象である作品を創作あるいは鑑賞するのも喜びを得るためである。したがって芸術とは、「美の創作と鑑賞による喜びの創造活動」ということができる。

イギリスの美術評論家、ハーバート・リード(H. Read, 1893-1968)は、「すべての芸術家は……人を喜ばせたいという意欲をもっているのである。したがって芸術とは心楽しい形式をつくる試みである」といっている。これは、統一思想の芸術の定義とよく似た芸術観である。

芸術と喜び

すでに述べたように、芸術とは美の創造すなわち喜びの創造である。それでは喜びとはいかなるものであろうか。

『原理講論』に「無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感じるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである」(六五頁)と書かれているように、対象の性相と形状が、主体の性相と形状と互いに似ているとき、喜びが生じるのである。

存在論と認識論において述べるように、人間は宇宙を総合した実体相であるから、人体の中には宇宙のすべての性相と形状が潜在的にある。それゆえ、例えば花の場合、その花の色、形、やわらかさなどの原型がわれわれに備わっているのであり、その原型と現実の花が授受作用を通じて一致する体験がまさに認識であって、その一致から喜びの感情が生まれるのである。したがって対象の美を感知しようとすれば、まずその原型が心の中に浮かんでこなければならない。

それでは原型はいかにして浮かんでくるだろうか。第一に必要なのは、心霊の清さである。心霊が清ければ原型は自ら直観的に浮かんでくる。次は、教養である。美の様々な形態を体験的に理論的に学ぶことによって、認識に際して、潜在意識の中にあった原型がたやすく刺激され表面化されやすいのである。

性相の相似性

主体と対象が性相的に似るということは、思想、構想、個性、趣味、教養、心情などの一部分または全部が主体および対象間で互いに似ることを意味する。その中で、特に重要なものは思想である。対象の中に自分と同じような思想を発見するとき、美しく見える。したがって思想を豊富に、深くもっているならば、それだけ喜びの範囲が広がり、深い感動を受けるようになる。

そのように性相の相似性とは、対象(作品)の中にある作者の心情、思想などの性相的な側面と主体(鑑賞者)の心情、思想などの性相的な側面が互いに似ていることを意味するのである。

形状の相似性

次は、形状の相似性である。対象の形状に属するものは事物の形態、色、音、匂い、香りなど五官で感じる要素である。それらが主体である、われわれの中にある原型と一致するとき、美しさが感じられ、喜びの感情がわいてくる。

認識論において述べるように、外的世界は人間の心を拡大させ、展開したものであるから、外界のすべての要素は原型的に人間に備えられている。すなわち事物(万物、作品)の形態、色、音、匂いなどの形状的要素は、原型的に、縮小された形態として、われわれの中にすでに備わっているのであり、それがすなわち形状の相似性である。その似ている要素が、認識において互いに一致しながら情を刺激するとき、喜びが得られるのである。

相補性

さらに喜びの内容である相似性には、相補性という一面もある。つまり、主体は対象の中に自分に不足している特性を見て喜ぶのである。例えば、男性は女性の中に、自分に不足しているやわらかさや美しさを見て喜ぶのである。

それは第一に、人間は単独では全一者にはなりえず、神の陽性を属性としてもつ男性と、神の陰性を属性としてもつ女性として分立され、両者が合性一体化することによって、神の二性性相の中和の姿に完全に似るように造られたからである。

ところで、この相補性を一種の相似性として見るのは、人間は誰でも、心の潜在意識の中に自己に不足している部分が満たされることを願う映像をもっているので、現実的にその映像どおりの対象に対するとき、不足した部分が実際に満たされ(相補性)、喜びを感じるようになるからである。そのとき、その対象は鑑賞者の心の中にあった映像と同じであるために、その点において相補性は相似性の性格をもつようになるのである。

そして第二に、神は人間が神の一つ一つの個別相を分けもって、自己に不足した面を互いに他人を通じて発見し、互いに授受することによって喜ぶように創造されたからである。美のこうした側面も相補性といい、広義の意味で相似性に含まれる概念である。それは本来、人間が神において一つであったものが二つ(陽と陰)あるいは多数の個別性に分立、展開されたものであって、彼らが合一してより完全なものとなるからである。

机と椅子のように、互いに相補って、二つのものが一つの完全なものになる場合も多い。より完全なものになるということは、それだけ創造目的がより多く実現することを意味し、そこに満足と喜びが生じるのである。ただし、そのような相補性が成立するためには、その根底により深い次元における相似性がなくてはならない。共通目的や相似性のような共通性のない、単純な差異からは、美や喜びは生じえないのである。

美とは何か

『原理講論』によれば、愛とは「主体が対象に授ける情的な力」(七二頁)であり、美とは「対象が主体に与える情的な力」(七二頁)である。対象が鉱物や植物の場合、対象からくるのは物質的な力であるが、主体(人間)はそれを情的な刺激として受け止めることができる。ところがたとえ対象が主体に刺激(力)を与えたとしても、主体がそれを情的に受け止めない場合がある。その場合、そのような刺激は情的な刺激とはなりえない。問題は、主体が対象からくる要素を情的なものとして受け取るかどうかという点にある。対象からくる要素を主体が情的に受け取れば、その刺激は情的な刺激となるのである。したがって美とは「対象が主体に与える情的な力であると同時に情的な刺激」であるということができる。美は真や善とともに価値の一つである。したがって、別の表現でいえば、美とは「情的刺激として感じられるところの対象価値」である。

先に主体が対象に与える情的な力を愛とし、対象が主体に与える情的な刺激を美としたが、実際には、人間同士では、主体と対象が共に愛と美を与え合い、受け合うのである。すなわち対象も主体を愛するのであり、また主体も対象に美を与えるのである。なぜかといえば「主体と対象とが合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包される」(『原理講論』七二頁)からである。主体から対象に、あるいは対象から主体に、情的な力が送られるとき、送る側ではそれを愛として送り、受ける側では情的な刺激すなわち美として受け止めるのである。

以上、統一思想の立場から美を定義したが、従来の哲学者たちによる美の定義は次のようなものであった。プラトンは、対象の中に存在する「美そのもの」すなわち美のイデアを美の本質と見て、「美とは聴覚と視覚とを通じて与えられる快感である」といった。カントは美を「対象の主観的合目的性」あるいは「対象の合目的性の形式」であると説明した。これは自然の対象には作られた目的はないとしても、人間が主観的に、そこに目的があるように考えて、それによって快感が得られれば、人間にその快感をもたらすものが美であるという意味である。

美の決定

美はいかにして決定されるのであろうか。『原理講論』には次のように書かれている。

ある個性体の創造本然の価値は、それ自体の内に絶対的なものとして内在するものではなく、その個性体が、神の創造理想を中心として、ある対象として存在する目的と、それに対する人間主体の創造本然の価値追求欲が相対的関係を結ぶことによって決定される。……例を挙げれば、花の美はいかにして決定されるのだろうか。それは、神がその花を創造された目的と、その花の美を求める、人間の美に対する創造本然の追求欲が合致するとき、言い換えれば、神の創造目的に立脚した人間の美に対する追求欲が、その花からくる情的な刺激によって満たされ、人間が完全な喜びを感ずるとき、その創造本然の美が決定される(七○—七一頁)。

美は客観的にあるものではなくて、価値追求欲をもった主体が対象と授受作用するときに決定される。すなわち対象からくる情的な刺激を、主体が情的に、主観的に、判断することによって、美は決定されるのである。

美の要素

美は客観的に「ある」ものではなく、「感じられる」ものである。対象の中にある要素が主体に情的な刺激を与えて、それが美として感じられるのである。それでは主体を情的に刺激する要因になったもの、すなわち美の要素は何であろうか。それは対象の創造目的と物理的諸要素の調和である。すなわち絵画における線、形、色彩、空間、音楽における音の高低、長短などの物理的諸要素が、創造目的を中心としてよく調和しているとき、目的を中心とした調和が主体に情的な刺激を与えるならば、主体はそれを主観的に判断し、美として感じるのである。そして主体によって判断された美が現実的美である。

調和には、空間的調和と時間的調和がある。空間的調和とは、空間的な配置における調和であり、時間的調和とは、時間的流れを通じて生じる調和である。空間的調和をもつ芸術には、絵画、建築、彫刻、工芸などがある。また時間的調和をもつ芸術としては、文芸、音楽などがある。これらをそれぞれ空間芸術、時間芸術という。その外にも、演劇、舞踊などの芸術があるが、これらの芸術は時間的調和と空間的調和を共に表すので、時空間的芸術または総合芸術ともいう。いずれにせよ、調和が美の感情を起こす要因である。

アリストテレスは『形而上学』において、美とは、秩序と均衡と被限定性(限定された大きさをもつこと)の中にあるといった。またリードは「芸術作品には重力の中心にたとえられるような、想像上のある照合点があって、この点をめぐって線、面、量 塊が完全な均衡をもって安定するように分配されている。すべてこうした方式の構成上の目的は調和ということであり、調和はすなわち我々の美感の満足である」といった。両者共に、美の要素が調和にあるという立場において一致している。