本性論

第三章 本性論

本性論は人間の本来の姿、すなわち堕落していない本性的人間を扱う哲学部門である。
原相論と存在論において述べたように、人類は長い歴史の期間を通じて、人生と宇宙の
根本問題を解決するために苦悶してきた。特に今日、共産主義の消滅後の新たな混乱
の中で、南北問題、人種紛争、宗教紛争、領土紛争、不正腐敗の拡散、伝統的価値観
の崩壊による各種犯罪の蔓延など、数えきれない数多くの問題が、対立と 藤、闘争と
戦争に結びつきながら、世界は混乱の渦の中に陥っているのである。このような問題は
結局、「存在の問題」と「関係の問題」に大別されるのであるが、それはいかにして解決さ
れるのであろうか。

一方、人類歴史の中には、現実の人間の姿に満足しないで、漠然とではあるが、人間
の本来的な姿があるだろうという考えから、彼らなりの解答を見いだそうとした人たちが
いた。彼らはまさしく宗教家であり、哲学者たちであった。彼らは「人間とは何か」という問
題に直面しながら、いかにすれば本来の人間の姿を回復することができるか、その道を
追究してきたのである。

紀元前五世紀ごろ、インドのカビラ城に生まれた釈 は、修道、苦行の生活を通じて道
を悟った。すなわち、人間は本来、仏性をもっているにもかかわらず、無明によって煩悩
に縛られ苦痛に陥るようになったということを悟った。そして人間は修道生活を通じて本
性を回復しなければならないと説いた。

イエスも三十余年の生涯において、人生問題を深く探求した結果、人間は罪人であるこ
と、そして神の子であるイエスを信ずることによって、再び生まれなければならないと説い
た。そしてユダヤの人々に向かって「天国は近づいた。悔い改めよ」と叫んだのである。
彼はパレスチナの各地を巡りながら、教えを広めるために全力を尽したが、実権を握って
いた当時の政治や宗教の壁を越えることができず、結局、十字架の刑に処せられてしま
った。

ソクラテスは当時のポリス社会の末期的な混乱相を直視し、真の知を愛することが人
間の真の生き方であると説き、「汝自身を知れ」と叫んだ。プラトンは善のイデアを認識す
ることが最高の生活であるといった。そして、アリストテレスは人間を人間たらしめている
のは理性であるが、人間の徳はポリスにおける共同生活において実現されると考え、人
間は社会的動物(ポリス的動物)であるといった。ギリシアの哲学者の人間観は、おしな
べて人間の本質は理性であり、理性を十分に働かせれば、人間は理想の姿になるという
ものであった。

中世時代において、キリスト教が西欧社会の人間の精神を支配した。キリスト教の人間
観は、人間は罪人であり、イエスを信ずることによって救われるというものであった。その
ような立場から見るとき、人間の理性は人間の救いと平和な生活の実現に役立たないと
見なされることもあった。ところが近代に至ると、再び人間の理性を重視する思潮が現れ
た。デカルトは、人間は理性的存在であって、理性でもってのみ正しい知識を得ることが
できるといい、「われ思う、ゆえにわれあり」(Cogito, ergo sum )という有名な命題を残し
た。そしてカントは、人間は実践理性の命ずる道徳的義務の声に従う人格的存在である
といい、人間は誘惑や欲望に負けないで理性に従って生きるべきであると説いた。

ヘーゲルも人間を理性的存在であると見た。ヘーゲルによれば、歴史とは理性が世界
の中で自らを実現する過程であり、歴史の発展とともに、理性の本質である自由が実現
されるのである。そのようなヘーゲルの説によれば、近代国家(理性国家)の成立ととも
に、人間と世界は合理的な姿になるはずであった。ところが現実において、実際の人間
は人間らしさを喪失したままであり、世界は非合理的なままであった。

このようなヘーゲルの極端な理性主義に反対したのがキルケゴールであった。キルケ
ゴールは、世界の発展とともに人間は合理的な存在になるというヘーゲルの主張に反対
し、人間は現実社会において、真の人間性を失った平均的人間にすぎないと主張した。
したがって、大衆から離れて、単独者として、主体的に人生を切り開くとき、初めて真の人
間性が回復されるのである。そのように現実の人間を本性を失った人間としてとらえ、主
体的に人間性を取り戻そうとする考え方が、それ以後、実存主義思想として展開された。

それに関しては、のちに再び述べることにする。

また、ヘーゲルの理性主義に反対して、人間を感性的人間としてとらえたのがフォイエ
ルバッハであった。フォイエルバッハによると、人間は類的本質である理性、意志、心情
(愛)をもつ類的存在であるが、人間はその類的本質を自分から分離して、対象化し、そ
れを神として崇めるようになった。そのようにして人間は人間性を喪失するようになったと
見たのであった。したがって、人間が本性(類的本質)を取り戻す道は対象化した神を否
定すること、すなわち宗教を否定することによってのみ可能であると主張した。

そしてヘーゲルの自由の実現の思想から出発して、人間の真なる解放を主張したのが
マルクスであった。マルクス当時の初期資本主義社会において、労働者の生活は悲惨で
あった。彼らは長時間の労働を余儀なくされ、しかも最低の生活を維持するのも難しい程
度の賃金しかもらえなかった。労働者の間では病気と犯罪が蔓延しており、彼らは人間
性を奪われていた。一方、資本家は裕福な生活をしていたが、労働者を無慈悲に搾取し、
抑圧しており、彼らも本来の人間性を失っているとマルクスは考えた。人間解放に立ち上
がったマルクスは、初め、人間による人間性の回復というフォイエルバッハの人間主義か
ら出発したが、やがて人間は類的存在であるのみならず、生産活動をする社会的、物質
的、歴史的存在であり、人間の本質は労働の自由であると考えるようになった。しかるに
資本主義社会において、労働者は労働生産物をすべて資本家に奪われており、労働そ
のものが自分の意志ではなく資本家の意のままになっている。そこに労働者の人間性の
喪失があるとマルクスは考えたのである。

労働者を解放するためには、労働者を搾取する資本主義社会を打倒しなくてはならな
い。そうすることによって資本家もまた人間性を回復するとマルクスは考えたのである。
そして彼は、唯物論の立場から、人間の意識を規定しているのは社会の土台である生産
関係であると主張し、資本主義の経済体制を暴力的に変革しなくてはならないと結論し
たのであった。ところが、マルクスの理論に従って革命を起こして成立した共産主義国家
は、自由の抑圧と人間性の蹂躙の甚だしい独裁社会となって、人間はますます本来の
姿を喪失してしまった。これはマルクスが人間疎外の原因の把握において、そして人間
疎外を解決する方法において、大きな間違いを犯したことを意味しているのである。
ところで、人間の疎外は過去の共産主義社会だけの問題ではない。資本主義社会にお
いても、個人主義と物質中心主義が蔓延し、自分で考えたことはどんなことでもやっても
よいという利己的な考え方が広まり、ますます人間性は失われているのである。

人間学がすべての学問と思想の根本であると考えたマックス・シェーラー( Max Scheler,
1874-1928)は、『哲学的世界観』の中の「人間と歴史」において、人間を思考する知性人
(homo sapiens)、道具を制作し使用する工作人( homo faber)、そして宗教人( homo
religiosus)の三つの類型に分類した。そのほかに人間を経済人(homo economicus )、
自由人(homo liberalis)、国家人(homo nationalis)などと見る立場もあった。しかし、それ
らはいずれも人間の姿をとらえていなかったのである。

このように、人間とは何であり、人生とは何であるかという問題は、人類歴史が始まって
以来、数多くの宗教家や哲学者たちによって、その解決が試みられたが、すべてが失敗
に終わったのである。そして人生を正しく生きようとしたが人生の真の意味が分からず、
虚無な人生を悲観して自殺した人も数多くいるのである。韓国の尹心悳、日本の藤村操
などがその代表的な例である。

このような歴史的に未解決の人間の問題を根本的に解決しようとして、その生涯をか
けて歩んでこられた方がいらっしゃる。その方がまさに文鮮明先生である。そして文先
生は、統一原理において明らかにされたように、人間は、たとえ本来の姿を失って惨めな
存在になっているとしても、本来、みな神の子であると宣言されたのである。

人間は神に似せて造られたが、人間始祖の堕落によって、神とは関係のない存在とな
ってしまった。しかし神のみ言に従って生きて、神の愛を受けるようになれば、本来の姿
を取り戻すことができるのである。本章では、人間の堕落の問題や人間性の回復の方法
について論ずるのではなくて(それに関しては『原理講論』の「堕落論」と「復帰原理」を参
照のこと)、ただ本来の人間の姿はいかなるものかを論ずることにする。人間の本来の姿
は神相に似た神相的存在であり、神性に似た神性的存在である。そして原相の格位性
に似た格位的存在である。次に、これらに関して詳しく論ずることにする。

一神相的存在

原相が性相と形状、陽性と陰性の普遍相、および個別相をもっているように、そのよう
な原相に似た本然の人間も、例外なく性相と形状、陽性と陰性の普遍相、および個別相
をもっている。このような存在を神相的存在という。まず人間が神の性相と形状に似たと
いう点について見ることにする。

(一) 性相と形状の統一体

人間が神の性相と形状に似るということは、人間が心と体の二重体、すなわち性相と形
状の統一体であることを意味する。
人間の性相と形状には四つの類型がある。まず第一に、人間は宇宙を総合した実体相
である。すなわち人間は性相と形状において、それぞれ動物、植物、鉱物の性相と形状
の要素をみなもっている。第二に、人間は霊人体と肉身の二重的存在である。第三に、
人間は心と体が統一を成している心身統一体である。そして第四に、人間は生心と肉心
の二重心の統一体として、二重心的存在である。

ここで人間が本来の姿を失ったという観点から見るとき、第四の生心と肉心の二重心
的存在という点が特に重要である。したがって本項で扱う「性相と形状の統一体」は、まさ
に「生心と肉心の統一体」と同じ意味になる。ここで生心と肉心が両者共に心であるにも
かかわらず、生心と肉心の関係を性相と形状の関係としたのは、生心は霊人体(性相)
の心であり、肉心は肉身(形状)の心であって、生心と肉心の関係は霊人体と肉身の関
係と同じであるからである。次に、生心と肉心の機能について説明する。

生心の機能は真善美と愛の生活、すなわち価値生活を追求する。ここで愛は、生命の
源泉であると同時に真善美の基盤である。したがって、愛を中心とした真善美の生活が
価値の生活である。人間の価値生活には自分自身が価値を追求して喜ぶという面もあ
るが、価値を実現して他人を喜ばせるというのがより本質的な面である。したがって価値
生活とは「ために生きる」愛の生活、すなわち家庭のため、民族のため、国家のため、人
類のために生きる愛の生活なのである。そして究極的には神のために生きるということで
ある。一方、衣食住と性の生活、つまり物質的な生活を追求するのが肉心の機能である。
物質生活は個人を中心とした生活である。

生心と肉心は本来、主体と対象の関係にある。霊人体が主体であり、肉身が対象であ
るからである。したがって肉心が生心に従うのが本来の姿である。生心と肉心が合性一
体化したものが人間の心であるが、生心が主体、肉心が対象の関係にあるときの人間
の心を本心という。肉心が生心に従うということは、価値を追求して実現する生活を第一
義的に、物質を追求する生活を第二義的にするということである。言い換えれば、価値生
活が目的であり、衣食住の生活はその目的を実現するための手段である。そればかりで
なく、肉心が生心に従い、その機能をよく果たせば、霊人体と肉身は互いに共鳴する。こ
の状態が人格を完成した状態、すなわち本然の人間の姿である。

ところが人間は堕落したために、生心と肉心の本来の関係を維持することができなくな
ってしまった。対象であるべき肉心が主体の立場に立ち、主体であるべき生心が対象の
立場に立ってしまったのである。そのために衣食住の生活が目的となってしまい、価値生
活は衣食住のための手段となり、二次的なものとなってしまった。すなわち、人を愛する
ことや真善美の行為が、富を得るとか地位を得るなどの目的のためになされるようになっ
たのである。今日、日常的な人間生活において、価値生活が全くないのではないが、多く
の場合、価値生活を自己中心的な物質生活のための手段としているのである。それは
肉心が主体、生心が対象になったからである。

このように生心と肉心の本来の関係が逆転してしまったのが人間の実態である。した
がって人間の本来の姿を回復するためには、この逆転した関係を元に戻さなくてはなら
ない。それが人間が修道生活をしなければならない必然的理由である。そのため今日ま
で、すべての宗教において、まず自己との闘いに勝利せよと教えたのである。

例えば孔子は「己れに克て礼に復る」(克己復礼)といい、イエスは「自分の十字架を負
って私に従ってきなさい」とか、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一
つ一つの言で生きる」と語られたのであった。そして自己との闘いに勝つために人々は断
食、徹夜祈祷などの修道生活を行わなくてはならなかったのである。

そのように肉心を生心に屈伏させながら、真善美の生活を優先し、衣食住の生活をあ
とにして生きていくのが生心と肉心の統一である。しかし人間は堕落したために、肉心が
生心を抑え自己中心的な衣食住の生活を行うようになったのである。そしてそこから人
間のすべての苦痛と不幸が生じたのである。

本心は生心と肉心が授受作用をして合性一体化したものである。それが神の性相内の
内的四位基台に似た状態である。それゆえ本心の先次的な機能は、生心による愛の生
活であり、真善美の価値を追求する生活である。したがって人間はまさに愛的人間
(homo amans)なのである。価値の生活とは、真実の生活であり、倫理的・道徳的生活で
あり、芸術的生活である。そして本心の後次的な機能は肉心による衣食住の生活、すな
わち物質的生活を追求することである。

(二) 陽性と陰性の調和体

陽性と陰性は性相と形状の属性であるが、本性論でいう陽性と陰性とは陽性実体、陰
性実体としての夫婦のことをいう。
夫婦はいかに生きるべきか、家庭はいかにあるべきかという問題は、古今東西を問わ
ず重要な問題であった。動物も、植物も、鉱物も、みな陽陰の結合によって存在し繁殖し
ている。万物がそうであるから、人間における陽陰の結合すなわち夫婦の結合も、単純
な男女の肉体的な結合であると見やすい。だがそれは夫婦を生物学的な観点から見る
立場である。そのような立場に立てば、今日の先進諸国のように、男女が簡単に結婚し
ては簡単に離婚するというようになり、結婚の神聖性や永遠性は失われやすいのである。
しかしそれは本来の夫婦の姿ではない。

男と女はなぜ存在するのか、結婚は何のためにするのかという問題に対して、今まで
真の解答がなかった。そのため一生、独身生活を貫くという人も少なくなかったのである。
この問題に対して、統一思想は明瞭な答えを与えている。

第一に、本然の夫婦はそれぞれ神の陽性と陰性の二性性相中の一性を代表する存在
である。したがって夫婦の結合は、陽性・陰性をもつ神の顕現を意味するのである。夫婦
が神を中心として横的に愛し合うとき、神の縦的な愛がそこに臨在するようになり、ここに
愛の相乗作用による生命の創造がなされるようになるのである。

第二に、本然の夫婦の結合は神の創造過程の最後の段階であるため、それはまさに
宇宙創造の完了を意味するのである。したがってアダム・エバが堕落しなければ、アダ
ム・エバの完成とともに宇宙の創造は完了したはずであった。しかし、アダム・エバが完
成しなかったために、宇宙創造は完了しなかった。だから、今日まで神は再創造の摂理
をなされてきたのである。再創造とは、堕落した人間をして、個性を完成せしめ、さらに夫
婦として完成せしめるということである。人間は万物の主管主として造られたが、男一人
では、あるいは女一人では、主管主となることはできない。夫婦として完成して、初めて
人間は万物の主管主となるのである。そしてその時、宇宙創造が完了するのである。
第三に、本然の夫婦はそれぞれ人類の半分を代表する存在である。したがって夫婦の
結合は、人類の統一を意味するのである。すなわち夫婦においては、夫は全人類の男
性を代表しており、妻は全人類の女性を代表しているのである。現在、世界の総人口は
約六十億人といわれている。したがって、それぞれ三十億人を代表する価値をもってい
るのが夫であり、妻である。

第四に、本然の夫婦はそれぞれ家庭の半分を代表する存在であり、したがって夫婦の
結合は家庭の完成を意味するのである。家庭において、夫はすべての男性を代表し、妻
はすべての女性を代表する立場であるからである。

以上のような立場から見るとき、夫が妻を愛し、妻が夫を愛するということは、その家庭
における神の顕現と宇宙創造の完了を意味し、人類の統一と家庭の完成を意味する。こ
のように夫婦の結合は、実に神聖にして尊い結合なのである(1)。

ところで夫婦の調和は家庭的四位基台の形成を通じてなされる。家庭的四位基台の形
成とは、創造の時に人間に与えられた第二祝福の完成を意味するものであるが、それは
神を中心として人格的に完成した夫と妻が相対基準を造成し、愛と美を授け受けること
によってなされる。そのとき夫婦の一体化は、原相内の主体と対象の調和に似るように
なる。すなわち原相の自同的四位基台に似るのである。そして夫婦の子女繁殖は神の
人間創造に似ているが、それは原相の発展的四位基台に似ているのである。そのとき、
夫婦はそれぞれ本心に従って生きながら、互いに調和を成すのである。

本心に従って生きるということは原相の内的四位基台に似ることであり、互いに調和を
成すということは原相の外的四位基台に似ることである。夫婦がそれぞれ完全に原相の
姿に似て人格者として成熟したのち、創造目的を中心として互いに愛を授け受ける授受
作用を行うようになれば、神の愛がそこに臨在するようになる。家庭は夫婦の横的愛と
神の縦的愛が合致するところであるからである。そのように神の愛を中心として完成した
家庭が集まって社会を成し、さらに進んで国家、世界をこの地上に立てるようになれば、
それがまさに地上天国であり、神の創造理想を完成した世界となるのである。

原相論において明らかにしたように、神の創造理想を完成した世界とは、本然の秩序
を通じて実現される愛の世界をいう。ここで、秩序と愛に関して述べることにする。人間は
宇宙の縮小体であるが、家庭も宇宙の縮小体である。そのとき、人間は構成要素から見
た宇宙の縮小体であり、家庭は秩序から見た宇宙の縮小体なのである。

家庭が秩序から見た宇宙の縮小体であるということは、宇宙の縦的秩序と横的秩序に
似て、家庭にも縮小された形態としての縦的秩序と横的秩序があるということを意味する。
家庭における縦的秩序とは、祖父母→父母→子女→孫とつながる秩序のことをいうので
あり、横的秩序とは夫婦間そして兄弟姉妹間の秩序をいう。愛はこのような秩序を通じて
実現される。そして愛には縦的愛と横的愛があるのである。縦的愛とは、父母の子女に
対する下向愛と、子女の父母に対する上向愛であり、横的愛とは、夫婦間の愛、子女相
互間の愛などの水平愛である。

このような愛の基本形を土台として、縦的価値と横的価値の基本となる家庭倫理が成
立する。縦的価値とは、父母の子女に対する愛である慈愛であり、子女の父母に対する
愛である孝誠である。横的価値とは、夫婦間の愛である和愛であり、子女相互間の愛で
ある友愛である。こうして倫理は、家庭を基盤とする家族構成員の相互間で守られなけ
ればならない行為の規範となるのである(これに関しては、倫理論において詳細に論ず
る)。こうした家庭倫理を社会、企業、学校などに拡大したものが、それぞれ社会倫理、
企業倫理、学校倫理であり、隣人愛、民族愛、怨讐に対する愛、自然保護運動などは、
みな家庭倫理を土台としたものである。

このような観点から、本性から見た人間観を一言で表現するとすれば、愛的人間となる
のである。ところが堕落によって、人間は人格的に完成できなかった。そして未完成のア
ダムとエバは、本然の夫婦となることはできなかった。すなわち夫婦は神の愛を中心とし
て一つになることができず、神を喪失してしまった。そして宇宙創造は未完了の状態のま
ま、今日まで続いてきたのである。
今日、家庭問題や社会問題が深刻になっているが、これらは夫婦の姿がみな本来的で
ないところにその原因がある。そのために家庭と社会が乱れ、国家と世界が混乱に陥っ
ている。したがって夫婦が和愛によって調和を成して一つになるということは、まさに世界
の統一と直結する必須不可欠の前提条件となるのである。したがって夫婦の和愛の問
題は、社会問題や世界問題を解く鍵であるといえる。

(三) 個性体

神は宇宙の創造において、まず完成した人間の姿を構想され、それを標準として実体
対象として被造世界を展開された。したがって被造万物は原因者である神の原相に象徴
的に似た個性体であり、人間は原相に形象的に似た個性体である。個性体とは、原相の
個別相に似た個性真理体という意味である。

個性真理体は普遍相と個別相をもつ個体であるが、個別相に重点を置いて扱うときの
個性真理体を個性体というのである。個性体としての人間の個別相は、動物や植物とは
違って、個人ごとにその個別相が顕著であり、顔や性格などが人によって異なるのはそ
のためである。したがって動物や植物においては種類別の個別相であるが、人間におい
ては個人別の個別相である。

そのように神が、人間に個人ごとに独特な個別相を与えたのは、人間一人一人から特
有の刺激的な喜びを得るためであった。したがって人間は、特有の個性をもって神に最
高の喜びを返す最高の価値をもつ存在である。そのような個別相も人間の本性の一つで
ある。ところでこのような個別相は、次のような三つの側面において、人間の特性として
現れる。

第一の特性は、容貌上の特性である。世界に六十億の人間がいても、同じ容貌や体格
をもつ人は一人もいない。第二の特性は、行動上の特性である。人間の行動の様式は
一人一人みな異なっている。行動は心の直接の現れであるから、容貌を形状の特性とす
れば、行動は性相の特性の現れであるということができる。第三の特性は、創作上の特
性である。芸術の創作だけでなく、創造性を発揮するすべての活動はみな創作の概念に
含まれる。そういう意味で、創造性を発揮して一日を生きたとすれば、その一日の生活の
足跡は一つの作品となるのである。このような意味の創作もまた人によって異なるので
ある。そればかりでなく人間の一生の足跡も、一つの作品(生の作品)なのである。

したがって神は、本性的な人間の一人一人の容貌を見て喜ばれ、行動を見て喜ばれ、
また作品を見て喜ばれるのである。神が個々の人間を見て喜ばれるということは、個々
の人間が容貌や行動や創作でもって、神に固有の美を返すことを意味する。それが個性
美である。したがって個性美とは、容貌上の個性美であり、行動上の個性美であり、創作
上の個性美である。

父母が子女を見るとき、特性においてどの子も美しく愛らしいと思う。子女は父母の表
現体であるからである。同様に、神が人間に対するとき、その人間の容貌、行動、創作活
動において、美しさを感じて喜ばれるのである。そのような人間の個性は、神から来たも
の、すなわち神来性のものであるために尊いのである。人間が人間の個性を尊く思い、
相互に尊重しなければならない理由はまさにその点にあるのである。

ところが人間の堕落によって、今日まで人間の個性は無視され、人権が蹂躙される場
合が多かった。特に独裁社会においては、なおさらそうであった。共産主義社会がその
顕著な例であった。共産主義は唯物論を根拠として、人間の個性を環境の産物と見て軽
視したのである。人道主義は人間の個性の尊重を主張した。しかし、なぜ人間の個性が
尊重されなければならないのかということに対して、人道主義には哲学的な答えがない
ために、哲学をもつ共産主義の批判に耐えることができなかった。それに対して統一思
想は、人間の個性は偶然的なものでもなく、環境の産物でもなく、神の個別相に由来す
るもの、すなわち神来性であるから、尊貴なものであるという確固たる神学的・哲学的根
拠を提示しているのである。

二神性的存在

人間はまた神の神性に似ている。神性には、全知、全能、心情(愛)、遍在性、生命、真、
善、美、正義、ロゴス、創造性などいろいろなものがあるが、その中で重要なものを三つ
だけを扱うことにする。その三つは、現実問題の解決に特に重要な属性であるからであ
る。それが心情、ロゴス、創造性である。そのような三つの神性に似ているという側面か
ら人間を見ると、人間は心情的存在であり、ロゴス的存在であり、創造的存在である。こ
れらに関して、次に詳細に説明することにする。

(一) 心情的存在

心情は、原相論において明らかにしたように「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝
動」である。心情はまた、「愛の源泉」であり、「愛さずにはいられない情的な衝動」であり、
原相の核心をなしている。したがって心情は、性相の核心となっているのである。それば
かりでなく、心情は神において人格の核心である。イエスが「あなたがたの天の父が完全
であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ五・四八)といわれたのは、
人間が神の人格、すなわち神の心情に似るようにという教えである。

人間においても、心情は人格の核心となる。したがって人格の完成は、神の心情を体
恤するとき、初めて可能となるである。神の心情を体恤することによって人格を完成した
人間が、まさに心情的存在である。

人間が神の心情を継続的に体恤すると、ついには神の心情を完全に相続するようにな
る。そのような人間は、自然に人や万物を愛したくなる。愛さなければ、かえって心が苦し
くなるのである。堕落人間は、人を愛することを難しく感じるが、神の心情と一致すれば、
生活そのものが愛となる。愛があれば、持てる者は持たざる者に与えるようになる。愛は
自己中心的なものではないからである。したがって貧富の差や搾取などは、自然に消滅
するようになる。そのような愛の効果は愛の平準化作用に起因するのである。そのように
人間が心情的存在であるということは、人間が愛の生活を行う存在であるということであ
る。したがって人間は、愛的人間(homo amans)なのである。

心情は人格の核心であるから、人間が心情的存在であるということは人格的存在であ
ることを意味する。それは心情を中心として生心と肉心が円満な授受作用を行うようにな
ることを意味し、さらに心情を中心として知情意の機能が均衡的に発達するようになるこ
とを意味する。

堕落した人間において、生心の機能が弱く肉心が生心を主管している場合が多い。ま
た理性(知的能力)が非常に発達していても、情的に未熟であったり、善を行おうとする
意志力が乏しかったりする場合がある。しかし人間が神の心情を相続して心情的存在に
なれば、知情意は均衡的に発達し、また生心が主体の立場から肉心を主管しながら、生
心と肉心が円満な授受作用を行うようになるのである。

心情はまた、性相の核心として、知情意の機能を刺激する原動力である。知情意はそ
れぞれ真美善を追求する機能である。すなわち知は認識する能力であって、真の価値を
追求し、情は喜怒哀楽を感じる能力であって、美の価値を追求し、意は決意する能力で
あって、善の価値を追求するのである。そしてこれらの価値の追求はすべて本来、心情
を動機としてなされるのである。知的活動によって真理を追求すれば、その成果は科学、
哲学などの学問として現れる。情的活動によって美を追求すれば、その成果は芸術とし
て現れる。意的活動によって善を追求すれば、その成果は道徳、倫理などとして現れる。
政治、経済、法律、言論、スポーツなども、みな知情意の活動の成果である。したがっ
て心情は、知情意を中心としたすべての文化活動全体の原動力となるのであり、特に芸
術活動の原動力となっている。そしてこのような知情意の活動の成果の総合が、まさに
文化なのである。本然の世界においては、心情的な人間(愛の人間)が文化活動の主役
となる。以上の内容を図で表現すれば、図3—1のようになる。

このように心情は、文化活動の原動力である。したがって人間が実現しなくてはならな
い文化は本来、心情文化であった。それが真の文化であり、神がアダムを通じて実現し
ようとされたアダム文化であった。しかしアダムの堕落によって、心情文化は実現されず、
今日に至るまで利己心を基盤とした文化、すなわち知的活動、情的活動、意的活動が統
一されない分裂した文化が築かれてきたのであった。

例えば経済活動において、今日まで金もうけが最高の目的と見なされる場合が多かっ
た。しかし、本然の世界では、他の人々が貧しい生活をしているのに、自分だけ裕福な生
活をすれば心が苦しくなる。それでお金をたくさんもうければ、隣人や社会に施そうとする
のである。すなわち、企業活動を通じて神の愛を実践しようとするのである。経済のみな
らず、その他のすべての領域においても、人々は愛を実現しようとする。そうして、心情
文化、愛の文化が立てられるのである。そのとき、知的活動、情的活動、意的活動は愛
を中心として統一されるようになる。それが統一文化である。そのように、愛の文化は統
一文化なのである。

今日まで人類は真の文化、恒久的な文化を実現しようと何度も試みてきたが、結局は
失敗に終わってしまった。人類歴史において、いろいろな文化が興亡盛衰を重ねてきた
事実が、そのことを証明している。それは真なる文化、恒久的な文化がいかなるものか、
分からなかったからである。共産主義方式の中国の文化運動である「文化大革命」もそ
の一例であった。唯物弁証法の立場から、労働を基盤とした文化が真なる文化であると
見なして、行われた文化革命であったが、その結果、人間性の抑圧と近代化の遅れと経
済の破綻を招いただけであった。真なる文化とは、心情を中心とした文化である。文先生
が唱えている新文化革命とは、まさにそのような心情文化の建設運動なのである。

ここで文化と文明の概念に関して説明する。知情意の活動の成果の総和を科学や技
術などの物質的側面から見るとき、それを文明といい、特に宗教、芸術などの精神的側
面から見るとき、それを文化というのである。しかし、人間の活動の成果を精神面と物質
面に明確に区別することは容易ではないために、一般的に文化と文明を同じ意味で使う
場合が多い。統一思想においても、一般の場合と同様に、文化と文明を同一の意味で使
用する場合が多い。

(二) ロゴス的存在

ロゴスという言葉は原相論において明らかにしたように、原相内において創造目的を中
心とした内的授受作用の産物、すなわち新生体を意味する。ここで、創造目的は心情が
基盤となっているために、ロゴスにおいても心情がその基盤となっている。

宇宙はそのようなロゴスによって造られ、ロゴスに従いながら運行している。すなわち、
ロゴスによって支えられている。そして人間もロゴスによって造られ、ロゴスに従って生き
るようになっているのであり、人間はロゴス的存在である。

ロゴスとは、すでに述べたように、原相の性相において、目的を中心として内的性相と
内的形状が授受作用を行ってできた新生体であるが、内的性相の中の理性と内的形状
の中の法則が特に重要な働きをなしているから、ロゴスは理性と法則の統一体としての
理法になるのである。したがって人間がロゴス的存在であるとは、人間が理法的存在で
あることを意味するのである。ここにおいて、理性と法則の特性はそれぞれ自由性と必然
性であるから、ロゴス的存在であるということは、自由性と必然性を統一的にもっている
存在であることを意味する。すなわち人間は、自由意志に基づいて行動する理性的存在
でありながら、法則(規範)に従って生きる規範的存在なのである。

今日、人間は自由なのだから、法則(規範)に従って生きるのは一種の束縛であるとい
って、法則を否定する考え方が蔓延している。しかし、真の自由は法則を守るところにあ
る。しかも自ら進んで守るところにある。法則を無視した自由は放縦であって、破滅をも
たらすしかないからである。例えば、列車はレールの上にあることによって、早く走ったり
遅く走ったりすることができる。また前に進んだり、後ろに戻ったりすることもできる。けれ
どもレールを外れると、列車は全く走れなくなる。すなわち、列車は軌道の上にあるとき、
初めて自由があるのである。軌道を外れると列車も破壊されるし、人間や家々にも莫大
な被害を与えるのである。

それと同じように、人間も規範に従って生きるときに真の自由が得られるのである。孔
子は『論語』において、「心の欲する所に従えども、矩をこえず(2)」といったが、それは孔
子が七十歳になって、ようやく自由意志と法則を統一した完全なロゴス的存在になること
ができたことを意味するのである。

人間はロゴス的存在であるから、法則に従おうとするのが本来の姿である。人間の守
るべき法則とは、宇宙に作用している法則、すなわち授受作用の法則のことである。とこ
ろで原相においてロゴスが形成されるとき、その動機は心情であった。したがって宇宙の
法則は本来、心情を動機としたものであり、愛の実現を目的としたものなのである。

存在論で述べたように、家庭は宇宙の秩序体系の縮小体である。したがって宇宙に縦
的、横的な秩序があるように、家庭においても、縦的、横的な秩序がある。縦的秩序と横
的秩序に対応する規範(価値)が縦的規範(縦的価値)と横的規範(横的価値)である。
家庭における縦的規範とは、父母と子女の間における規範であり、横的規範とは、兄弟
姉妹の関係、および夫婦の関係における規範である。また人間には個人として守るべき
規範、すなわち個人的規範もある。それは個人としての人格を完成し維持するための規
範である。(これら縦的規範、横的規範、個人的規範については、価値論と倫理論におい
て詳しく説明することにする。)

家庭におけるこのような規範は、社会や国家にそのまま拡大適用される。結局、家庭
の規範は、社会や国家が守るべき規範の根本となっているのである。しかし堕落によっ
て、人間はロゴス的存在になれなかった。その結果、社会も国家も混乱状態に陥ってし
まったのである。人間がロゴス的存在としての本性を回復するとき、家庭も社会も国家も
本来の秩序をもった姿に帰ることができる。

(三) 創造的存在

神は、その創造の能力すなわち創造性によって宇宙を造ったが、その創造の能力を人
間にも与えられた。それゆえ人間は、創造性を発揮して、今日まで科学や技術を発達さ
せてきたのである。

それでは、創造性とは具体的に何であろうか。神の創造性は心情を基盤とした創造の
能力である。すでに原相論で明らかにしたように、宇宙の創造に際して、原相内部には
次のような二段階の授受作用が行われた。第一は、内的授受作用であり、第二は、外的
授受作用である。内的授受作用は心情によって立てられた目的を中心として、内的性相
と内的形状の間に行われる授受作用であり、その授受作用によってロゴスが形成された。
そして外的授受作用は同じ目的を中心として、ロゴスと形状(本形状)の間に行われる授
受作用であり、その授受作用によって被造物が生成したのである。この二段階の授受作
用は、二段階の発展的四位基台の形成を意味する。したがって神の創造性とは、結局、
この二段階の発展的四位基台の形成能力、すなわち内的発展的四位基台および外的
発展的四位基台の形成の能力なのである。

人間も同様に、何かを造るとき、まず目的を立てて、設計をしたり、構想を練ったりする。
すなわち内的授受作用を行う。そして次に、その構想に従って物を造る。すなわち外的
授受作用を行うのである。神が人間に創造性を与えられたのは、人間が心情に基づいて、
愛でもって万物を主管するためであった。主管とは、物的対象(自然万物、財貨など)や
人的対象を扱ったり、治めることを意味するが、特に万物主管は物質を扱うこと、すなわ
ち管理、処理、保存などを意味する。産業活動(一次産業、二次産業、三次産業)や政治、
経済、科学、芸術など、物質を扱う一切の活動は、みな万物主管に含まれる。神の愛を
もってこのような主管活動をするのが本然の主管である。すなわち人間が神の創造性を
完全に受け継いでいたならば、これらの活動はみな神の愛を中心として営まれるように
なっていたのである。

神は人間を創造し、万物を治めよ、主管せよといわれた(創世記一・二八)。ところで、
人間が神のみ言に従って万物を主管しようとするならば、万物を主管することのできる主
管主としての資格を備えなければならない。神は大主管主であるために、人間を主管す
ることのできる資格として創造性を備えているが、同様に、人間も万物を主管することの
できる主管主としての資格を備えるためには、神の創造性をもたなければならない。した
がって神は、人間に創造性をもたせるために、成長期間を置いて、人間が責任分担を完
遂することによって人格的に完成するようにされたのである。それゆえ人間は、その成長
期間を通じて完成することによってのみ、神の創造性を与えられ、万物を主管することの
できる資格を得るようになっているのである(3)。

ところで、本来、主管とは自分が造ったもの(自分のもの)を主管するのであって、他人
が造ったもの(他人のもの)を勝手に主管することはできない。したがって、万物の創造
が終わったあとに造られた人間は、そのままでは万物を主管することはできないのであ
る。しかし、人間は神の子女として造られたために、また子女は成長すれば父母の権限
を相続することができるために、神はアダム・エバをして主管権を相続することのできる
条件を立てさせるようにされた。すなわち、責任分担を果たしながら成長するように命令
されたのである。その条件とは、人間も宇宙の創造偉業に参加したということと同一の価
値の条件をいうのであり、それがまさに人間が自らの責任分担のもとで自身を完成させ
ることであった。

人間は万物を総合した実体相であり、小宇宙であって、人間一人の価値は宇宙の価値
に匹敵するものである。したがって、人間が自分の責任分担で自身を完成させれば、そ
の努力は宇宙を完成させたこと(創造したこと)と同一の価値の努力となるのである。そ
れが、まさに神がアダム・エバに責任分担を果たすようにせしめられた理由であった。す
なわち神は、アダム・エバに神の創造の偉業に参加したという条件を立てさせるために、
彼らが責任分担を全うすることによって完成するようにされたのである。したがって、神は
アダム・エバの成長期間において、善悪を知る木の実を取って食べてはならない(性的
関係を結んではならないということ:『原理講論』一〇三頁)という戒めを与えたのちには、
彼らの行為に対して、一切、干渉されなかったのである。もし干渉すれば、人間の責任分
担を神自らが無視する立場になり、未完成なアダム・エバをして万物を主管させるという
矛盾を招くからである。しかしアダム・エバは、その戒めを守ることができなかったので、
万物を主管する資格を得ることができなかったのである。

その結果、人間は神の創造性を受け継ぐことができなくなり、自己中心的な理性に基づ
いた創造を行うようになった。それで個人レベルの創造の場合は自分の利益を先に考え、
家庭レベルの創造の場合は自分の家庭の利益だけを考え、国家レベルの場合は自分
の国家の利益だけを優先的に考えるようになった。そうして創造活動はほとんど自己中
心的になってしまったのである。また人間は、長い間、自然はどうなってもよいという考え
方をもち続けてきた。その結果、自然破壊や公害、殺戮兵器の開発など、様々な問題が
生じるようになったのである。

それゆえこのような問題を解決するためには、人間が心情を中心とした本来の創造性
を発揮するようにならなくてはならないのである。心情が創造性の中心となるということは、
愛を動機として創造が行われなくてはならないということを意味し、正しい価値観に基づ
いて創造活動がなされなければならないことを意味する。したがって科学者は、科学者で
ある前にまず価値的な人間、すなわち人格者でなければならないのである。言い換えれ
ば、倫理が自然科学の基盤とならなくてはならないのである。

ところが近代以後、科学者たちは客観的な事実だけを探求し、一切の価値観を排除し
てきた。その結果、今日のような混乱状態となった。「科学の統一に関する国際会議」が
開かれる度に、文先生が科学者たちに価値観を扱うように強調されるのは、科学者たち
が真の創造性を回復するようになるためである。すなわち、「自然を愛し、人間の価値性
を再考し、すべての人類が愛し合い、そして愛の根源としての神を探す(4)」という前提の
もとに、科学者たちが真なる創造性をもつように願われるためである。