共生共栄共義主義 共生主義

(一)共生主義

共生主義は、理想社会の経済的側面を扱った概念であるが、特に所有の側面を扱った概念である。所有の側面から見るとき、資本主義経済や社会主義(共産主義)経済の特徴において、前者は私的(個人的)所有であり、後者は社会的(国家的)所有である。

ところで両者共に、愛という要素は全く排除されている。すなわち私的所有であれ、社会的所有であれ、心理的要素が排除された単純な物質的所有にすぎないというのが、その特徴の一つであると見ることができる。

しかし、これに対して共生主義は、神の真なる愛に基づいた共同所有を意味する。すなわち共同所有とは、第一に神と私の共同所有であり、第二に全体と私、第三に隣人と私の共同所有をいう。ところで、共同所有は単なる物質的所有だけではなく、神の真の愛に基づいた共同所有である。これは神の限りない真の愛によって、その真の愛に満ちた贈り物である一定の神の財産(所有)が、神からわれわれ(私と隣人)に共同管理するようにと授けられたことを意味するのである。

創造原理から見たとき、被造世界は神の所有である。なぜならば被造世界は本来、神の愛の主管下にあるからである(『原理構論』一〇九頁)。聖書には、創造主である神は、地の上、大空には鳥が飛ぶように(創世記一・二〇)、水には魚が群がるように、陸には獣が棲むようにされたと書かれている(創世記一・二一―二五)。これは、空は神の真の愛を中心とした鳥たちの共同所有を意味するのであり、水は神の真の愛を中心とした魚たちの共同所有を意味するのであり、陸は神の真の愛を中心とした獣たちの共同所有であることを意味するのである。いくらはげたかのような猛禽であっても、空の一部を独占せず、いくら虎のような猛獣であっても、陸の一部を独占せず、いくら狂暴なサメであっても、海の一部を独占しないのである。

神は万物に対する愛の主管権を人間に与えたので、空や海や陸はもちろん、鳥や魚や獣など、すべての生物を、人間は神の真なる愛を中心とした感謝の心でもって共同所有するようになっていた。すなわち、自然は神と人間の共同所有なのである。

それにもかかわらず、人間だけは堕落によって個人主義に流れて土地や万物(財物)の一部を独占するようになり、今日に至っては、自由民主主義という名のもとに、合法的に広大な土地と莫大な財産を独占しながら、感謝するどころか、良心の呵責すら感じなくなっている。隣で人が飢えて倒れるのを見ても、眉一つ動かさずに威勢よく生きている資本家たちの社会が資本主義社会である。彼らはみな、天道に違反した生活をしているのである。

神と人間との関係は、父母と子女の関係である。そして父母と子女の関係の最も基本型は、家庭である。家庭において、すべての財産は父母の財産であると同時に子女たちの財産でもある。家屋、庭園、田畑、家畜などは、父母の所有であると同時に子女たちの所有である。すなわち家庭において、所有権はたとえ法的には父母の名義になっていても、父母と子女の共同所有なのである。そして本然の世界では、父母は常に子女に真なる愛を与えるので、予女たちは常に父母に感謝する心をもって、その所有物を大切にしながら、丁重に取り扱うのである。

家庭においては、祖父母、父母、子女(兄弟姉妹)の三代が共に集まっているのが、その基本型である。したがって共同所有は、厳密にいって三代の共同所有となる。すなわち、真なる愛を中心とした祖父母と父母と子女の共同所有である。ここにおいて祖父母は神を代身する立場にあるから、三代の共同所有は「真なる愛の本体である神(祖父母)と父母と子女の共同所有」であると表現することができる。このように三代が共に所有する形態の、家庭の共同所有は、すべての次元の共同所有の原型となる。このような事実を根拠として、共生主義の共同所有は「神の真なる愛に基づいた、神と私、全体と私、隣人と私」、すなわち三段階の「他者と私」の共同所有なのである。したがって、これを「神と全体と隣人と私」の共同所有であると定式化することができる。

このような家庭の所有形態(共同所有)を拡大したのが団体の共同所有である。これを企業体に例えてみよう。企業体は真なる愛の主体である神と、父母と同じ立場の社長と、子女(兄弟) と同じ立場の従業員の三段階の共同所有であると同時に、神と私、社長と私、従業員と私という、三段階の「他者と私」の共同所有なのである。

企業体は、たとえ企業家が創立したものであるとしても、本然の世界では、いったん神の前に捧げることになっている。捧げて神の所有になったのち、再び神の真なる愛によって、受け賜ることによって、神との共同所有となるのである。このような手続きは、形式的で単純な要式行為では決してない。そのような手続きを経るとき、初めて神の真なる愛による加護と協助が下されるようになるのである。以上は企業体の例にすぎないが、その他の団体においても同じである。

家庭の所有形態を拡大したものが国家レベルの共同所有である。例えば国営企業体の場合、企業体内のすべての財産は例外なく国家と国民の共同所有である。すなわち真なる愛の主体である神と、国家の主権者である大統領と、企業体の全社員との三段階の共同所有であると同時に、神と私、大統領と私、全社員と私、すなわち三段階の「他者と私」の共同所有である。ここにも神の真なる愛の加護と協助が常に下されるのであり、また大統領の愛による関心と政策が常に加えられるので、社員たちは神に感謝し、大統領に感謝しながら、共同所有の観念をもって、すべての財産を大切にしながら丁重に取り扱うのである。これが「国家レベルの共同所有」の概念である。

ここに「理想世界には個人所有はないのか」という疑問が生じるであろうが、理想世界にも個人所有はもちろんあるのであり、またなければならない。なぜならば、人間は神の普遍相と個別相に共に似ているからである。一人の個人は万人と共通な属性(普遍相)をもっていると同時に、 彼自身だけに特有な属性(個別相)をもっている。そして人間には、全体目的と個体目的という二重目的が与えられており、欲望とともに、愛を実践するための自由がまた与えられている。そのため、人間には個人所有が許されているのである。この事実を共同所有の原型である家庭的所有形態をもって説明しよう。

家庭において、例えば農家の場合、家屋、庭園、田畑、家畜など共同所有の財産を家族が共同で真心を込めて管理し、保存するのは、目的という側面から見れば、全体目的を達成するためである。そして、このような全体目的の達成のために、家族は共同に衣食住の生活をする。すなわち同じ家で、共同の家計によって、着たり、食べたり、住んだりして暮しているのである。しかし同時に、各個人は独特な個性(個別相)をもっているので、衣食住において、自分の独特な事情や趣味に合う生活をするようになる。また父母や子女は、それぞれ個人的に専用する部屋や衣服や、いくらかの生活必需品などが必要な場合が多い。だから父母は、子女に小遣いを与えるのである。これらは、個体目的を遂行するための所有であり、個人所有にほかならない。

ところで、個人所有は個体目的の達成のために必要であるが、同時に全体目的を達成するためにも必要である。すなわち、全体目的は共同の所有物をもって共同生活を通じて達成することもできるが、個人の所有物をもって個別的な方式を通しても達成できるのである。

例えば、子女たちは父母に孝行して父母を喜ばせようとするが、それは彼らの全体目的の達成である。例を挙げれば、兄は自分の個人所有物である本をたくさん読んで、学校で優秀な成績を収めることによって父母を喜ばせ、弟は自分の個人所有物である絵の具を使って立派な絵を描いて、展覧会に出品して、特選に入賞して父母を喜ばせ、姉は自分の個人所有物であるバイオリンを弾いて、演奏会で聴衆の絶賛を受けて父母を喜ばせたとしよう。そのとき、兄や弟や姉は、彼らの個人所有物をもって全体目的を達成したのである。

そのように、個人所有物は、個体目的の達成ばかりでなく全体目的の達成のためにも必要なのである。人間には、欲望とともに愛と自由が与えられている。すなわち人間には、自分の独特な個性を生かし、自分の個人所有物を活用しながら、自由意志によって、他人に愛を継続的に施すために、つまり全体目的の達成のために、欲望と愛と自由が与えられているのである。

それでは、個人所有はどの程度まで許されるのであろうか。それは自己の分に合う程度、すなわち適正所有によって決めればよい。そして自分の分に会う程度、すなわち適正な量と質の程度はそれぞれ自分の良心によって決めればよい。本然の人間において、良心は本心であって、堕落した人間とは違って、自分が必要とする所有物の量や、種類、質がよく分かるようになるのである。

人間は心に感じる欲望の程度、感謝の程度、満足の程度などの心理上の分量をしばしば物質量で表示する。例えば人の世話になったとき、心に感ずる感謝の程度(感謝量)を贈り物の種類と量でもって、または一定の金額でもって表示する場合がある。

同様に、自分の個人所有に対しても、自己の分に合うと感じる心理上の量や種類を物質的な量や種類でもって表示することができるのである。自己の心理量(心理上の多少の程度)を物質量で表示することは、自分以外には他の誰もできない。しかし、自分の分に合った心理量の決定はたやすくなされる。われわれが食事をするとき、少なく食べれば体力が弱まり、食べすぎれば、おなかをこわしやすいことを各自がよく知っていて、適切な量と質の食事を取るように、各自の良心が清まれば、神がその良心を通じて各自の分に合った心理量を教えてくださるからである。そして分に合った心理量の決定がたやすくなされるのである。

ところで、ここで一つ明らかにしておきたいのは、いくら良心によって、各自の分に合う個人所有の適正な量と質が決定されるとしても、すべての人においてその量と質は決して同一ではないということである。そこには、いくつかの理由がある。第一に、個人ごとに独特な個別相をもっていて性格と趣味がそれぞれ違うからである。第二に、個々人はみな個性真理体であると同時に連体であるからである。連体とは、個人が一定の格位(連体格位)において、上下、前後、左右に、愛の対象に相対している存在であるということである。だから、そこには最小限の、一定量の、対象に施すための物質が必要となる。そのような物質の質と量は、その格位が高くなるほど、増大する場合がある。そのような理由によって、分に合う質と量は各人各様にならざるをえない。したがって、それが他人に対して真なる愛を投入するために必要な個人所有であるならば、多少、多くても、それは適正所有になるのである。

このように共生主義は、共同所有に基づいた共同経済に関する理論である。ここで「経済」という概念は、まず従来と同じように、「第一産業、第二産業、第三産業に基づいた財貨の生産、交換、分配、消費などに関する活動の総和」を意味する。けれども、すでに述べたように、未来社会の経済は、神の真なる愛を中心とした共同所有がその基盤となっているために、その経済活動の様相は従来のものとは全く異なる。一言でいえば、経済活動のすべての過程は、物質的な財貨の流通過程であるが、それは心情と愛、感謝と調和が共に流れるところの、物心一如の統一的過程である。財貨それ自体も、真心と愛が共に宿っている物心一如的な個体であり、流通過程それ自体も、関係者たちの真心と愛が共に流れるところの物心一如的な過程なのである。

そして未来世界の経済の特徴は、未来世界は国境のない統一世界であるために、全世界はいくつかの地域的なブロック経済が有機的、調和的に統一された、一つの経済圏を成すということである。すなわち地域的特殊性に合うような地域的特殊産業と、汎域的・普遍的産業が調和と統一をなす、統一産業を形成するということである。それは、すべての個体は普遍相(普遍性)と個 別相(特殊性)の統一体であるという統一原理から導かれる結論である。

未来社会のすべての産業は、企業家の利潤を目的とするのではなく、人類全体の福祉の増進を目的としている。したがって、すべての産業活動の直接的な結果は財物の増殖なのである。未来社会において、経済政策が解決すべき最も深刻な問題は、幾何級数的に膨脹する人口のための食糧問題である。かつてマルサス (T. Malthas ) も『人口論』でこの問題を憂慮したのであり、七〇年代以来、ローマクラブも、この問題に対して警告を発してきた。しかるに、この難問題は、養殖法の開発などによる水産業の振興によって解決されるようになる。それは、海は女性を象徴し、女性は生産がその主な使命であるという、統一原理から導き出される結論である。