5教育論

2020年7月1日

第五章 教育論

今日、青少年の脱線、性道徳の退廃、校内暴力事件の頻発などに見られるように、民主主義社会の教育は危機に瀕している。しかし、このような混乱を救いうる教育理念は見あたらず、今日の教育は方向感覚を失っている。師弟の道も崩壊している。すなわち生徒は先生を尊敬せず、先生は権威と情熱を失っている。その結果、先生は知識を売り、生徒は知識を買うというような関係になって、学校は知識の売買場にまで転落する傾向が見られるのである。このような状況に共産主義が大学界に浸透し、学内を争乱の場とさせてきたのである。

民主主義の教育理念とは、主権在民、多数決主義、権利の平等などの民主主義の原則を守りながら、他人の権利を尊重し、自己の責任を果たし、その上で自己の権利を主張する市民、すなわち民主的市民を養成することであるといえよう。

ところでこのような教育理論に対して、共産主義者たちは次のように攻撃した。階級社会において、支配層が労働者や農民の権利を尊重しうるだろうか。階級社会において義務と使命を果たすとは、権力層の忠実な僕となることではないか。それは真なる民主主義ではない。真なる民主主義とは、人民大衆である労働者や農民のための民主主義、すなわち人民民主主義である。したがって真なる民主主義教育は人民のための教育でなくてはならず、真なる教育を行うためには資本主義社会を打倒し、社会主義社会を建設しなくてはならない。そのように宣伝した。

共産主義のこのような讒訴は資本主義社会における搾取、抑圧、不正、腐敗などの社会的構造悪が残っている限り、説得力を失わないであろう。したがって、なんとしても、このような社会悪を除かなくてはならない。そのためには神の真の愛を基盤とした、新しい価値観運動が展開されなくてはならず、新しい教育理念が確立されなくてはならないのである。

新しい教育理念は、人間の成長に対して本来神が願われた基準を根拠として立てられなければならない。それは混迷した今日の教育に方向性を提示し、未来社会に対して教育のビジョンを提示しうるものでなければならない。すなわち、来たるべき未来の理想社会に対備するための教育論でなければならない。本教育論(統一教育論)はまさにそのような教育論として提示されるものである。

ところで教育理論には二つの側面がある。一つは教育の理念、目標、方法などに関するもので、いわゆる教育哲学がそれに当たる。他の一つは、客観的な立場で教育現象を扱うものであって、教育科学がそれにあたる。教育課程(カリキュラム)、教育評価、学習指導、生徒指導、教育行政、教育経営などを研究するものである。

教育において、この二つの側面は、性相と形状の関係にある。つまり教育哲学は性相的教育学であり、教育科学は形状的教育学であるということができる。ところが今日、教育科学が科学尊重の潮流の中で大きく発展したにもかかわらず、教育哲学は軽視され、衰退している。今日の教育が方向感覚を失っているということは、とりもなおさず教育哲学の不在を意味する。したがって、今日、切に要求されているのは、新しい教育哲学の確立である。統一教育論はまさにそのような要望に答えようとするものである