9認識論 認識の方法

(四) 認識の方法

授受作用
『原理講論』には、主体と対象が相対基準を造成して授受作用を行えば、「生存と繁殖と作用などのための力を発生する」(五○頁)とされている。ここで「繁殖」とは、広い意味で出現、発生、増大、発展などを意味する。また「作用」は運動、変化、反応などを意味する。認識は知識の獲得や増大を意味するから、授受作用による「繁殖」の概念に含まれるのである。したがって認識は「主体と対象の授受作用によってなされる」という命題が立てられるのである。

認識における主体は一定の条件、すなわち対象への関心と原型を備えた人間をいい、対象は内容(属性)と形式(存在形式)を備えた万物(事物)をいう。この両者の授受作用によって認識がなされるのである。

四位基台の形成
主体と対象の授受作用は必ず目的を中心としてなされるのであるが、その授受作用の結果として認識が成立するのである。したがって認識は、四位基台形成によってなされるのである(図9—1)。四位基台は、中心、主体、対象、結果という四つの位置から成る。次に、それぞれの位置について説明することにする。

① 中 心
授受作用の中心になるのは目的であるが、目的には原理的な目的と日常的現実的な目的がある。原理的な目的は、神が被造物を造られた創造目的であるが、それは被造物から見れば、被造物の存在目的すなわち被造目的である。神の創造目的は心情(愛)がその動機となっているために、人間も愛を動機として万物を認識するのが本来の認識のあり方である。

創造目的(被造目的)には性相的目的と形状的目的があるが、それぞれに全体目的と個体目的がある。認識における人間の全体目的とは、隣人、社会、国家、世界に奉仕するために知識を得ることであり、個体目的とは、個人の衣食住の生活と文化生活のために知識を得ることである。一方、対象である万物の全体目的は、人間に知識と美を与えたり、人間に主管されて人間を喜ばせることであり、個体目的は人間から認められ愛されることである。しかし人間の堕落のために、万物はそのような創造目的(被造目的)を完遂することができず、そのために万物は、うめき苦しんでいるのである(ローマ八・二二)。

日常的な目的(または現実的な目的)とは、原理的な目的を土台とした個別的な目的、すなわち日常生活における各個人の目的をいう。例えば植物学者が自然を見るとき、学問的な立場から自然界の植物に対する知識を得ようとするであろう。画家が同じ自然に対するとき、美の追求のための知識を得ようとするであろう。また経済人が自然に対するときは、自然を開発して事業を起こすという立場で自然に対する知識を得ようとするであろう。それはみな喜びを得ようとするためである。そのように喜びを得るという原理的な目的は同じであっても、各人の日常的な目的は人によって千差万別であるといえる。

② 主 体
認識において、主体が対象に対して関心をもつということは、主体のもつべき要件の一つである。関心がなければ、主体と対象の間に相対基準が成立できなくなり、授受作用ができなくなるからである。

例えばある人が道を歩いていて、友人に出会ったとしよう。彼が何か熱心に考えながら道を歩いていたとすれば、関心がそのことだけに注がれていたので、友人に気がつかないまま通り過ぎてしまうことであろう。また灯台守の夫人が寝ているとき、波の音では眠りは覚めないが、波の音よりも小さい自分の子供の泣き声によって目を覚ますことができる。これは波の音には関心がないから認識されないが、子供の泣き声にはいつも関心があるから小さな声でも感じるようになるのである。

しかし実際には、偶然に事物を認識する場合も多い。予期していないのに、急に稲妻を見て、雷の音を聞く場合はその顕著な例である。そういう場合には、主体に関心がなくても認識は可能であるかのようであるが、そのような場合にも、無意識的(潜在意識的)ではあるが、必ず関心が作用しているのである。人間は誰でも幼い時に、あらゆることに驚きと好奇心をもって接したことを記憶するであろう。その驚き、好奇心がまさに関心に由来するのである。また人は外国の地に初めて行った時にも、すべての事物に対して関心をもって接するであろう。しかし成長するにしたがって、あるいは、たびたび外国旅行をするにしたがって、関心は習慣化され潜在意識化されてしまう。そのとき関心がなくなったのではなく、潜在意識の中から関心が作用しているのである。

主体のもつべきもう一つの要件は、原型をもつことである。いくら対象に対して関心をもっても、原型がなければ認識はなされない。例えば初めて外国語を聞いた場合、その言葉が何を意味しているのか分からない。また一度も会ったことのない人に対するとき、その人は「見慣れない顔」に見えるが、過去に会ったことがあれば、たとえ忘れてしまったとしても何となく「見慣れた顔」と感じられることであろう。そのように、認識がなされるためには、主体の中に判断の基準となる原型が必ず備えられていなければならないのである。

③ 対 象
統一原理によれば、万物は人間の対象として、人間は万物の主体(主管主)として造られたために、主体である人間は対象である万物を愛でもって主管するようになっている。したがって人間は、万物を鑑賞したり、認識しながら主管するのである。そして万物は、美の対象、認識の対象となり得る要素を備えているのである。それが内容としての万物の属性と、形式としての存在形式(関係形式)である。そのような内容と形式が万物の備えるべき条件ではあるが、実は万物が自ら備えたものではなくて、神によって万物に与えられたものである。人間は万物の総合実体相であり、宇宙の縮小体であるから、万物のもっている内容と形式に対応して、縮小した形態として、やはり内容と形式を備えているのである。なお認識の対象には、自然の万物だけでなく、人間社会における事物や事件、人物などがある。

④ 結 果
目的を中心として主体と対象が授受作用すれば、必ず結果が現れる。ここで結果の性格を理解するためには、四位基台の性格をまず理解しなくてはならない。原相論で説明したように、四位基台には内的自同的四位基台、外的自同的四位基台、内的発展的四位基台、外的発展的四位基台の四種類がある。

認識は基本的には、主体の「内容と形式」と対象の「内容と形式」が授受作用を通じて照合され、合性一体化していく過程である。したがって、そのとき自同的四位基台が形成される。一方、創造や主管の場合には発展的四位基台が形成される。認識は、主管と密接な関係にある。認識のない主管も、主管のない認識も、いずれも完全なものとはなりえないのである。認識と主管は、人間と万物の授受作用において相対的な回路をなしている。つまり認識過程は、授受作用において対象から主体へと向かう回路であり、主管の過程は主体から対象へと向かう回路である。

ここで主管における発展的四位基台と、認識における自同的四位基台の関係を考えてみよう。主管とは、創造性を発揮することであるから、主管の四位基台は創造の四位基台と同じである。

原相論で説明したように、神は創造の二段構造、すなわち内的発展的四位基台(ロゴスの形成)と外的発展的四位基台を通じて万物を創造された。これらの発展的四位基台において、まず内的発展的四位基台が形成され、次に外的発展的四位基台が形成されたのである。すなわち、「内的な四位基台から外的な四位基台へ」という順序で万物が創造されたのである。ところが認識のための自同的四位基台の形成は、まず外的自同的四位基台が形成され、次に内的自同的四位基台が形成される。すなわち、「外的な四位基台から内的な四位基台へ」という順序に従って認識はなされるのである。

かくして認識は、内的自同的四位基台が形成されることによって、その結果としてなされるのであるが、直接的には外的な要素と内的な要素の照合によって成立するのである。

それでは、認識の過程は具体的にいかなるものであろうか。そのことを次に明らかにする。