3本性論 神性的存在 心情的存在

(一) 心情的存在

心情は、原相論において明らかにしたように「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」である。心情はまた、「愛の源泉」であり、「愛さずにはいられない情的な衝動」であり、原相の核心をなしている。したがって心情は、性相の核心となっているのである。そればかりでなく、心情は神において人格の核心である。イエスが「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ五・四八)といわれたのは、人間が神の人格、すなわち神の心情に似るようにという教えである。

人間においても、心情は人格の核心となる。したがって人格の完成は、神の心情を体 恤するとき、初めて可能となるである。神の心情を体恤することによって人格を完成した人間が、まさに心情的存在である。

人間が神の心情を継続的に体恤すると、ついには神の心情を完全に相続するようになる。そのような人間は、自然に人や万物を愛したくなる。愛さなければ、かえって心が苦しくなるのである。堕落人間は、人を愛することを難しく感じるが、神の心情と一致すれば、生活そのものが愛となる。愛があれば、持てる者は持たざる者に与えるようになる。愛は自己中心的なものではないからである。したがって貧富の差や搾取などは、自然に消滅するようになる。そのような愛の効果は愛の平準化作用に起因するのである。そのように人間が心情的存在であるということは、人間が愛の生活を行う存在であるということである。したがって人間は、愛的人間(homo amans)なのである。

心情は人格の核心であるから、人間が心情的存在であるということは人格的存在であることを意味する。それは心情を中心として生心と肉心が円満な授受作用を行うようになることを意味し、さらに心情を中心として知情意の機能が均衡的に発達するようになることを意味する。

堕落した人間において、生心の機能が弱く肉心が生心を主管している場合が多い。また理性(知的能力)が非常に発達していても、情的に未熟であったり、善を行おうとする意志力が乏しかったりする場合がある。しかし人間が神の心情を相続して心情的存在になれば、知情意は均衡的に発達し、また生心が主体の立場から肉心を主管しながら、生心と肉心が円満な授受作用を行うようになるのである。

心情はまた、性相の核心として、知情意の機能を刺激する原動力である。知情意はそれぞれ真美善を追求する機能である。すなわち知は認識する能力であって、真の価値を追求し、情は喜怒哀楽を感じる能力であって、美の価値を追求し、意は決意する能力であって、善の価値を追求するのである。そしてこれらの価値の追求はすべて本来、心情を動機としてなされるのである。知的活動によって真理を追求すれば、その成果は科学、哲学などの学問として現れる。情的活動によって美を追求すれば、その成果は芸術として現れる。意的活動によって善を追求すれば、その成果は道徳、倫理などとして現れる。

政治、経済、法律、言論、スポーツなども、みな知情意の活動の成果である。したがって心情は、知情意を中心としたすべての文化活動全体の原動力となるのであり、特に芸術活動の原動力となっている。そしてこのような知情意の活動の成果の総合が、まさに文化なのである。本然の世界においては、心情的な人間(愛の人間)が文化活動の主役となる。以上の内容を図で表現すれば、図3—1のようになる。

このように心情は、文化活動の原動力である。したがって人間が実現しなくてはならない文化は本来、心情文化であった。それが真の文化であり、神がアダムを通じて実現しようとされたアダム文化であった。しかしアダムの堕落によって、心情文化は実現されず、今日に至るまで利己心を基盤とした文化、すなわち知的活動、情的活動、意的活動が統一されない分裂した文化が築かれてきたのであった。

例えば経済活動において、今日まで金もうけが最高の目的と見なされる場合が多かった。しかし、本然の世界では、他の人々が貧しい生活をしているのに、自分だけ裕福な生活をすれば心が苦しくなる。それでお金をたくさんもうければ、隣人や社会に施そうとするのである。すなわち、企業活動を通じて神の愛を実践しようとするのである。経済のみならず、その他のすべての領域においても、人々は愛を実現しようとする。そうして、心情文化、愛の文化が立てられるのである。そのとき、知的活動、情的活動、意的活動は愛を中心として統一されるようになる。それが統一文化である。そのように、愛の文化は統一文化なのである。

今日まで人類は真の文化、恒久的な文化を実現しようと何度も試みてきたが、結局は失敗に終わってしまった。人類歴史において、いろいろな文化が興亡盛衰を重ねてきた事実が、そのことを証明している。それは真なる文化、恒久的な文化がいかなるものか、分からなかったからである。共産主義方式の中国の文化運動である「文化大革命」もその一例であった。唯物弁証法の立場から、労働を基盤とした文化が真なる文化であると見なして、行われた文化革命であったが、その結果、人間性の抑圧と近代化の遅れと経済の破綻を招いただけであった。真なる文化とは、心情を中心とした文化である。文先生が唱えている新文化革命とは、まさにそのような心情文化の建設運動なのである。

ここで文化と文明の概念に関して説明する。知情意の活動の成果の総和を科学や技術などの物質的側面から見るとき、それを文明といい、特に宗教、芸術などの精神的側面から見るとき、それを文化というのである。しかし、人間の活動の成果を精神面と物質面に明確に区別することは容易ではないために、一般的に文化と文明を同じ意味で使う場合が多い。統一思想においても、一般の場合と同様に、文化と文明を同一の意味で使用する場合が多い。