原相論 形状(本形状)

第一章 原相論

2 形状(本形状)

次は神の形状(本形状)について説明することにする。

本形状と被造物

神の形状(本形状)を人間に例えれば体に相当するものであり、それはすべての被造
物の有形的な要素(側面)の根本原因である。すなわち人間の体、動物の体、植物の細
胞・組織、鉱物の原子・分子などの究極的原因なのである。言い換えれば、神の本形状
が次元を異にしながら、時間・空間の世界に展開されたものが鉱物の原子・分子であり、
植物の細胞・組織であり、動物の体であり、人間の体なのである。これもまた相似の創造
によるものである。

このように被造物の有形的要素の根本原因が神の形状であるが、この被造物の有形
的要素の根本原因には二つの側面がある。一つは素材(質料)的要素であり、もう一つ
は無限の形態を取ることのできる可能性(無限応形性)である(万物の形態自体の根本
原因は内的形状にある)。

ここで「無限な形態を取ることのできる可能性」(無限応形性)を水の場合を例に取って
比喩的に説明する。水自体は他の万物と違って一定の形態がない。しかし容器によって
いろいろな形態を現す。三角形の容器では三角形として、四角形の容器では四角形とし
て、円形の容器では円形として現れる。このように水が無形なのは、実はいかなる容器
の形態にも応ずる無限な応形性をもっているからである。すなわち水が無形なのは実は
無限形であるためである。同様に、神の本形状も、それ自体は一定の形態がないが、い
かなる形態の映像にも応ずることのできる応形性、すなわち無限応形性をもっているの
である。このように被造物の有形的要素の根本原因には素材的要素と無限応形性の二
つがあるが、この二つがまさに神の形状の内容である。

人間の創作活動は、心が構想した型に一致するように可視的な素材(彫刻の場合、石
膏または大理石)を変形させる作業であると見ることができる。言い換えれば、創作とは、
構想の型に素材を一致させる作業であるということができる。神の創造の場合もこれと同
じであるといえる。すなわち、本性相内の内的形状の型または鋳型に無限応形性をもっ
た素材的要素を与えて、一定の具体的な形態を備えさせる作業を創造ということができ
るのである。

本形状と科学

被造物の有形的側面の根本原因である素材的要素とは、要するに科学の対象である
物質の根本原因であるが、素材的要素と科学はいかなる関係にあるのであろうか。
今日の科学は、物質の根本原因は素粒子の前段階としてのエネルギー(物理的エネ
ルギー)であり、そのエネルギーは粒子性と波動性を帯びていると見ている。しかし科学
は結果の世界、現象の世界だけを研究の対象としているために、それは究極的な第一
原因ではありえない。本原相論は、その究極的原因をまさに本形状であると見るのであ
る。したがって本形状とは、科学的に表現すればエネルギーの前段階であって、それは
「前段階エネルギー」( Prior-stage Energy ) 、または簡単に「前エネルギー(3) 」
(Pre-Energy)ということができるであろう。

本形状と力

神の創造において、本形状である前エネルギーから授受作用(後述)によって、二つの
力(エネルギー)が発生すると見る。その一つは「形成エネルギー」(Forming Energy)であ
り、他の一つは「作用エネルギー」(Acting Energy)である。

形成エネルギーは直ちに粒子化して物質的素材となり、万物を形成するのであるが、
作用エネルギーは、万物に作用して、万物相互間に授け受ける力(例:求心力と遠心力)
を引き起こす。その力を統一思想では原力(Prime Force)と呼ぶ。そして原力が万物を通
じて作用力として現れるとき、その作用力を万有原力(Universal Prime Force)と呼ぶので
ある。

本形状から授受作用によって形成エネルギーおよび作用エネルギーが発生するとき、
愛の根源である心情が授受作用の土台となるために、発生する二つのエネルギーは単
純な物理的なエネルギーではなく、物理的エネルギーと愛の力との複合物なのである。
したがって原力にも万有原力にも、愛の力が含まれているのである(文先生は一九七四
年五月の「希望の日晩餐会」での講演以後、しばしば「万有原力にも愛の力が作用する」
と語っておられる。)

性相と形状の異同性

次は、性相と形状が本質的に同質的なのか異質的なのかという、性相と形状の異同性
について調べてみることにする。先に述べた「性相と形状の二性性相論」は、一般哲学上
の本体論から見るとき、いかなる立場になるのであろうか。すなわち「性相と形状の二性
性相論」は、一元論なのか二元論なのか、唯物論なのか唯心論(観念論)なのか。

ここで一元論とは、宇宙の始元が物質であると主張する一元論的唯物論か、宇宙の始
元が精神であると主張する一元論的唯心論(観念論)をいう。マルクスの唯物論は前者
に属し、ヘーゲルの観念論は後者に属する。そして二元論とは物質と精神がそれぞれ別
個のものでありながら宇宙生成の根源になっていると見る立場である。思惟(精神)と延
長(物質)の二つの実体を認めるデカルトの物心二元論がその例である。

それでは統一思想の「性相と形状の二性性相論」は一元論なのだろうか、二元論なの
だろうか。すなわち原相の性相と形状は本来、同質的なものだろうか、異質的なものだろ
うか。ここで、もしそれらが全く異質的なものだとすれば、神は二元論的存在となってしま
う。

この問題を理解するためには、本性相と本形状は異質的な二つの要素か、あるいは同
質的な要素の二つの表現態なのかを調べてみればよい。結論から言えば、本性相と本
形状は同質的な要素の二つの表現態なのである。

これはあたかも水蒸気と氷が、水(H2O)の二つの表現態であるのと同じである。水に
おいて、水分子の引力と斥力が釣り合っているが、熱を加えて斥力が優勢になれば気化
して水蒸気となり、気温が氷点下に下がって、引力が優勢になれば氷となる。水蒸気や
氷はいずれも水の表現態、すなわち水分子の引力と斥力の相互関係の表現様式にすぎ
ないのである。したがって両者は全く異質的なものではない。

同様に、神の性相と形状も、神の絶対属性すなわち同質的要素の二つの表現態なの
である。絶対属性とは、エネルギー的な心、あるいは心的なエネルギーのことである。つ
まりエネルギーと心は全く別のものでなくて、本来は一つになっている。この絶対属性が
創造において分かれたのが、神の心としての性相と、神の体としての形状なのである。
性相は心的要素から成っているが、そこにはエネルギー的要素も備わっている。ただ
心的要素がエネルギー的要素より多いだけである。また形状はエネルギー的要素から
成っているが、そこには心的要素も備わっていて、エネルギー的要素が心的要素より多
いだけである。そのように性相と形状は全く異質的なものではない。両者はいずれも、共
通に心的要素とエネルギー的要素をもっているのである。

被造世界において、性相と形状は精神と物質として、互いに異質的なものとして現れる
が、そこにも共通の要素がある。例えば心にもエネルギーがあるが、そのことを示す例と
して次のようなものがある。カエルなどから採取した、神経のついている骨格筋(神経筋
標本)において、神経に電気的刺激を与えると筋肉は収縮する。一方われわれは、心に
よって手や足の筋肉を動かす。すなわち心が神経を刺激し筋肉を動かしている。これは、
心にも物質的なエネルギー(電気エネルギー)と同様のエネルギーがあるということを意
味している。催眠術で他人の体を動かすことができるということも、心にエネルギーがあ
ることを示している。

一方、エネルギー自体にも性相的要素が宿っているといえる。最近の科学によれば、
物質的真空状態において、エネルギーが振動して素粒子が形成されるが、そのときエネ
ルギーの振動は連続的ではなく、段階的である。ちょうど音楽において音階があるように、
エネルギーが段階的に振動し、その結果、段階的に規格の異なる素粒子が現れるという
のである。これは、あたかも音階が人間の心によって定められたように、エネルギーの背
後にも性相があって、振動の段階を定めていると見ざるをえないのである。

そのように性相の中にも形状的要素があり、形状の中にも性相的要素があるのである。
したがって、原相において性相と形状は一つに統一されているのである。本質的に同一
な絶対属性から性相と形状の差異が生じ、創造を通じてその属性が被造世界に現れる
とき、異質な二つの要素となるのである。これを比喩的に表現すれば、一つの点から二
つの方向に二つの直線が引けるのと同じである。そのとき、一つの直線は性相(精神)に
対応し、他の直線は形状(物質)に対応するのである(図1—1)。

聖書には、被造物を通じて神の性質を知ることができると記録されている(ローマ1・
20)。被造物を見れば、心と体、本能と肉身、生命と細胞・組織などの両面性があるから、
絶対原因者である神の属性にも両面性があると帰納法的に見ることができる。これを「神
の二性性相」と呼ぶ。しかしすでに述べたように、神において二性性相は、実は一つに統
一されているのである。この事実を『原理講論』では、「神は本性相と本形状の二性性相
の中和的主体である」と表現している。このような観点を本体論から見るとき、「統一論」
となる。そして神の絶対属性それ自体を表現するとき、「唯一論」となるのである。

アリストテレス(Aristotele , 384-322 B.C.)によれば、実体は形相(eidos)と質料(hyle
j から成っている。形相とは実体をしてまさにそのようにせしめている本質をいい、質料
は実体を成している素材をいう。西洋哲学の基本的な概念となったアリストテレスの形相
と質料は統一思想の性相と形状に相当する。しかしそこには、次のような点で根本的な
差異がある。

アリストテレスによれば、形相と質料を究極にまでさかのぼると純粋形相(第一形相)と
第一質料に達する。ここで純粋形相が神であるが、それは質料のない純粋な活動であり、
思惟それ自体であるとされる。すなわちアリストテレスにおいて、神は純粋な思惟、また
は思惟の思惟(ノエシス・ノエセオース)であった。ところで、第一質料は神から完全に独
立していた。したがって、アリストテレスの本体論は二元論であった。また第一質料を神
から独立したものと見ている点で、その本体論は、神をすべての存在の創造主と見るキ
リスト教の神観とも異なっていた。

トマス・アクィナス(T. Aquinas, 1225-1274)はアリストテレスに従って、同様に純粋形相
または思惟の思惟を神と見た。また彼はアウグスティヌス(A. Augustinus, 354-430)と同
様に、神は無から世界を創造したと主張した。神は質料を含む一切の創造主であり、神
には質料的要素がないために、「無からの創造」(creatio ex nihilo)を主張せざるをえな
かったのである。しかし無から物質が生じるという教義は、宇宙がエネルギーによって造
られていると見る現代科学の立場からは受け入れがたい主張である。

デカルト(R.Descartes, 1596-1650)は、神と精神と物体(物質)を三つの実体と見た。究
極的には神が唯一なる実体であるが、被造世界における精神と物体は神に依存しなが
らも相互に完全に独立している実体であるとして二元論を主張した。その結果、精神と物
体はいかにして相互作用をするのか、説明が困難になった。デカルトの二元論を受け継
いだゲーリンクス(A. Geulincx, 1624-1669)は、互いに独立した異質的な精神と身体の間
に、いかにして相互作用が可能なのかという問題を解決するために、神が両者の間を媒
介すると説明した。つまり精神や身体の一方において起きる運動を契機として、神が他
方において、それに対応する運動を起こすというのであり、これを機会原因論(8)
(occasionalism)と呼ぶ。しかしこれは方便的な説明にすぎないのであり、今日では誰も
目をくれないものである。すなわち精神と物質を完全に異質的な存在と見たデカルトの観
点に問題があったのである。

このように西洋思想がとらえた形相と質料、または精神と物質の概念には、説明の困
難な問題があったのである。このような難点を解決したのが統一思想の性相と形状の概
念、すなわち「本性相と本形状は同一なる本質的要素の二つの表現態である」という理
論である。以上で、神相の「性相と形状」に関する説明を終える。次は、もう一つの神相で
ある「陽性と陰性」に関して説明する。

(2) 陽性と陰性

陽性と陰性も二性性相である

陽性と陰性も神の二性性相である。しかし、同じく二性性相である性相と形状とは次元
が違っている。性相と形状は神の直接的な属性であるが、陽性と陰性は神の間接的な
属性であり、直接的には性相と形状の属性である。すなわち陽性と陰性は、性相の属性
であると同時に形状の属性である。言い換えれば、神の性相も陽性と陰性を属性として
もっており、神の形状も陽性と陰性を属性としてもっているのである。

陽性と陰性の二性性相は、性相と形状の二性性相と同様に中和をなしている。『原理
講論』に「神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体であられる」とあるのは、このことを
意味しているのである。この中和の概念も、性相と形状の中和と同様に、調和、統一を意
味し、創造が構想される以前には一なる状態にあったのである。この一なる状態が創造
において陽的属性と陰的属性に分化したと見るのである。その意味で東洋哲学の易学
において「太極生両儀」(太極から陰陽が生まれた)というのは正しい言葉である。

ところで、陽性と陰性の概念は易学の陽と陰の概念と似ているが、必ずしも一致するの
ではない。東洋的な概念としては、陽は光、明るさを意味し、陰は蔭、暗さを意味する。こ
の基本的な概念が拡大適用されて、いろいろな意味に使われている。すなわち、陽は太
陽、山、天、昼、硬い、熱い、高いなどの意味に、陰は月、谷、地、夜、軟らかい、冷たい、
低いなどの意味に使われている。

しかし統一思想から見るとき、陽性と陰性は性相と形状の属性であるために、被造世
界において、性相と形状は個体または実体を構成しているが、陽性と陰性は実体の属性
として現れているだけである。例えば太陽(個体)は性相と形状の統一体であって、太陽
の光の「明るさ」が陽である。同様に月それ自体は性相と形状から成る個体(実体)であ
って、月の反射光の明るさの「淡さ」が陰なのである。

ここで統一思想の実体の概念について説明する。統一思想の実体は、もちろん統一原
理の実体の概念に由来するものである。統一原理には「実体基台」、「実体献祭」、「実体
聖殿」、「実体世界」、「実体相」、「実体対象」、「実体路程」など、実体と関連した用語が
多く使われているが、そこで実体とは、被造物、個体、肉身をもった人間、物質的存在な
どの意味をもつ用語である。

ところで、人間を含めたすべての被造物は、性相と形状の合性体(統一体)である。言
い換えれば、被造物において性相と形状はそれぞれ個体(実体)の構成部分になってい
るのである。そして、性相や形状それ自体もまた実体としての性格をもっている。あたか
も自動車も製作物(実体)であり、自動車の構成部分である部品(例:タイヤ、トランスミッ
ションなど)も製作物(実体)であるのと同じである。したがって統一思想においては、人
間の性相と形状は実体の概念に含まれるのである。

原相において、陽性と陰性をそれぞれ本陽性と本陰性ともいう(『原理講論』四六頁)。
原相の「本性相と本形状」および「本陽性と本陰性」に似ているのが人間の「性相と形状」
と「陽性と陰性」である。すでに述べたように、被造世界では性相と形状は共に実体の性
格をもっており、陽性と陰性は実体としての性相と形状(またはその合性体である個体)
の属性となっている。そのことを原相において示したのが図1—2である。

原相における性相と形状および陽性と陰性の関係を正確に知るためには、人間におけ
る実体としての性相と形状、そしてその属性としての陽性と陰性の関係を調べてみれば
よい。人間の場合の性相と形状および陽性と陰性の関係をまとめると、表1—1のように
なる。

そこに示されるように、性相(心)の知情意の機能にもそれぞれ属性として陽性と陰性
がある。例えば知的機能には明晰、判明などの陽的な面と、模糊、混同などの陰的な面
があり、情的機能には愉快、喜びなどの陽的な面と不快、悲しみなどの陰的な面がある。
意的機能にも積極的、創造的などの陽的な面と、消極的、保守的などの陰的な面がある。
そして形状(肉身)においても陽的な面(隆起部、突出部)と陰的な面(陥没部、孔穴部)
があるのは言うまでもない。

ここで明らかにしておきたいのは、ここに示したのは人間の場合にのみいえることであ
るということである。神は心情を中心とした原因的存在であって、創造前の神の性相と形
状の属性である陽性と陰性は、ただ調和的な変化を起こす可能性としてのみ存在してい
るだけである。そして創造が始まれば、その可能性としての陽性と陰性が表面化されて、
知情意の機能に調和のある変化を起こし、形状にも調和的な変化をもたらすのである。

陽性・陰性と男子・女子との関係

ここで問題となるのは、陽性・陰性と男子・女子との関係である。東洋では古来、男子を
陽、女子を陰と表現する場合が多かった。しかし統一思想では男子を「陽性実体」、女子
を「陰性実体」という。表面的に見ると東洋の男女観と統一思想の男女観は同じように見
えるが、実際は同じではない。

統一思想から見るとき、男子は陽性を帯びた「性相と形状の統一体」であり、女子は陰
性を帯びた「性相と形状の統一体」である。したがって男子を「陽性実体」、女子を「陰性
実体」と表現するのである(『原理講論』四八頁)。

ここで特に指摘することは、男子を「陽性実体」というときの陽性と、女子を「陰性実体」
というときの陰性が、表1—1で示される陽性と陰性とは必ずしも一致しないということであ
る。すなわち、性相においても形状においても、表1 —1で示される陽性と陰性の特性は
男女間で異なっているのである。そのことを具体的に説明すれば、次のようになる。

まず、形状における陽性と陰性の男女間での差異を説明する。形状すなわち体におい
て、男女は共に、陽性である隆起部、突出部や、陰性である陥没部、孔穴部をもっている
が、男女間でそれらに差異があるのである。男子は突出部(陽性)がもう一つあり、女子
は孔穴部(陰性)がもう一つある。また身長においても、臀部の大きさにおいても、男女間
で差異がある。したがって形状における陽性と陰性の男女間での差異は量的差異であ
る。すなわち、男子は陽性が量的により多く、女子は陰性が量的により多いのである。

それでは性相においてはどうであろうか。性相における陽性と陰性の男女間での差異
は、量的差異ではなく質的差異である(量的にはむしろ男女間で差異はない)。例えば性
相の知において、男女は共に明晰さ(陽)をもっているが、その明晰さの質が男女間で異
なるのである。男子の明晰さは包括的な場合が多く、女子の明晰さは縮小指向的な場合
が多い。才致においても同様である。また性相の情の悲しみ(陰)において、過度な場合、
男子の悲しみは悲痛に変わりやすく、女子の悲しみは悲哀に変わりやすい。性相の意に
おける積極性(陽)の場合、男子の積極性は相手に硬い感触を与えやすいが、女子の積
極性は相手に軟らかい感触を与えやすい。男女間のこのような差異が質的差異である。

これをまとめると表1—2のようになる。

このように性相において、陽性にも陰性にも男女間で質的差異があるのである。これを
声楽に例えると、高音には男子(テノール)と女子(ソプラノ)の差異があり、低音にも男子
(バス)と女子(アルト)の差異があるのと同じである。
このように性相における陽性と陰性は、男女間において質的差異を表すのであるが、
男子の陽性と陰性をまとめて男性的、女子の陽性と陰性をまとめて女性的であると表現
する。したがってここに、「男性的な陽陰」と「女性的な陽陰」という概念が成立するのであ
る。ここにおいて、次のような疑問が生ずるかもしれない。すなわち形状においては男女
間の差異が量的差異であるから、男子を陽性実体、女子を陰性実体と見るのは理解で
きるが、性相においては、男女の差異が質的差異だけで、量的には男女は全く同じ陽陰
をもっているのに、なぜ男子を陽性実体、女子を陰性実体というのか、という疑問である。
それは男女間の陽陰の差異が量的であれ質的であれ、その差異の関係は主体と対象
の関係であるということから解決される。後述するように、主体と対象の関係は積極性と
消極性、能動性と受動性、外向性と内向性の関係である。ここに性相(知情意)の陽陰の
男女間の質的差異においても、男性の陽と女性の陽の関係、および男性の陰と女性の
陰の関係は、すべて主体と対象の関係になっているのである。
すなわち、知的機能の陽において、男性の明晰の包括性と女性の明晰の縮小指向性
が主体と対象の関係であり、情的機能の陰において、男性の悲痛と女性の悲哀の関係
も主体と対象の関係である。また意的機能の陽において、男性の積極的の硬性と女性
の積極性の軟性の関係も主体と対象の関係なのである。これは男女間の陽陰の質的差
異は量的差異の場合と同様に主体と対象の関係なのであって、男性と女性の関係が陽
と陰の関係であることを意味するのである。以上で男を陽性実体、女を陰性実体と呼ぶ
理由を明らかにした。

性相・形状の属性としての陽性・陰性と現実問題の解決

以上で陽性・陰性は性相・形状の属性であることが明らかにされたと思う。ところで、こ
のことがなぜ重要かといえば、それがまた現実問題解決の基準となるためである。ここで
現実問題とは、男女間の問題、すなわち性道徳の退廃、夫婦間の不和、家庭破壊など
の問題をいう。

陽性・陰性が性相・形状の属性であるということは、性相・形状と陽性・陰性の関係が実
体と属性との関係であることを意味する。実体と属性において先次的に重要なのは実体
である。属性がよりどころとする根拠が実体であるからである。実体がなくては属性は無
意味である。そのように性相・形状は陽性・陰性が「よりどころとする根拠」としての実体
であり、性相・形状がなくては陽性・陰性は無意味なものになってしまうのである。

人間において、性相・形状の問題とは、現実的には性相・形状の統一をいうのであって、
それは心と体の統一、生心と肉心の統一、すなわち人格の完成を意味する。そして人間
において、陽性と陰性の問題は現実的には男子と女子の結合を意味するのである。ここ
で「人格の完成」と「男女間の結合」の関係が問題となるが、「陽性・陰性が性相・形状の
属性である」という命題に従うならば、男女は結婚する前にまず人格を完成しなければな
らないという論理が成立するのである。

統一原理の三大祝福(個性完成、家庭完成、主管性完成)において、個性完成(人格
完成)が家庭完成(夫婦の結合)より前に置かれた根拠は、まさにこの「陽性・陰性は性
相・形状の属性である」という命題にあったのである。『大学』の八条目の中の「修身、斉
家、治国、平天下」において、修身を斉家より前に置いたのも、『大学』の著者が無意識
のうちにこの命題を感知したためであると見なければならない。

今日、男女関係に関連した各種の社会問題(性道徳の退廃、家庭の不和、離婚、家庭
破壊など)が続出しているが、これらはすべて家庭完成の前に個性完成が成されなかっ
たこと、すなわち斉家の前に修身が成されなかったことに由来しているのである。言い換
えれば、今日、最も難しい現実問題の一つである男女問題は、男女共に家庭完成の前
に(結婚前に)人格を完成することによって、つまり斉家する前に修身することによって、
初めて解決することができるのである。このように「陽性・陰性が性相・形状の属性であ
る」という命題は、現実問題の解決のまた一つの基準となっているのである。

(3) 個別相

個別相とは何か

上述した性相・形状および陽性・陰性は神の二性性相であって、この二種の相対的属
性は、あまねく被造世界に展開されて、普遍的にすべての個体の中に現れている。聖書
に「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性〔および神相〕とは、天地創造こ
のかた被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(ローマ1・20)と
記録されているのは、この事実を言っているのである。このように、万物はみな普遍的に
性相・形状および陽性・陰性をもっている。したがって神の性相・形状および陽性・陰性を
「普遍相」という。

一方で、万物は独特な性質をもっている。鉱物、植物、動物にいろいろな種類があるの
もそのためである。天体も、恒星であれ惑星であれ、みな特性をもっている。特に人間の
場合、個人ごとに独特の性質をもっている。すなわち、体格、体質、容貌、性格、気質な
ど、個人ごとに異なっているのである。

万物と人間のこのような個別的な特性の原因の所在は、神の本性相の内部の内的形
状にある。このような個別的な特性の原因を「個別相」という。言い換えれば、神の属性
の中にある個別相が被造物の個体または種類ごとに現れたものを被造物の個別相とい
う。そして人間においては個人ごとに特性が異なるために、人間の個別相を「個人別個
別相」といい、万物においては種類によって特性が異なるために、万物の個別相を「種類
別個別相」という。すなわち人間においては個別相は個人ごとの特性をいうが、万物(動
物、植物、鉱物)の個別相は、一定の種類の特性すなわち種差(特に最下位の種差)を
いう。それは、人間は神の喜びの対象および神の子女として造られているのに対して、
万物は人間の喜びの対象として造られているからである。

個別相と普遍相

ここで被造物の普遍相と個別相との関係を明らかにする。個別相は個体の特性である
としても、普遍相と別個の特性ではなくて、普遍相それ自体が個別化されたものである。
例えば人間の顔(容貌)がそれぞれ違うのは、顔という形状(普遍相)が個別化され特殊
化されたものであり、人間の個性がそれぞれ異なるのは、性格、気質という性相(普遍
相)が個別化され、特殊化されたものである。そのように人間において個別相とは、個人
ごとに普遍相が個別化されたものであり、その他の被造物においては、種類ごとに普遍
相が個別化されたものである。

被造物において、このように普遍相の個別化が個別相であるのは、神の内的形状の中
にある被造物に対する個別化の要因すなわち個別相が、神の性相・形状および陽性・陰
性を個別化させる要因として作用しているからである。ここで神の普遍相を「原普遍相」と
いい、神の内的形状の中にある個別相を「原個別相」とも呼ぶ。したがって被造物の普遍
相と個別相は、原普遍相と原個別相にそれぞれ対応しているのである。

個別相と突然変異

次に個別相と遺伝子の関係について述べる。進化論から見るとき、一般的に生物の種
差としての個別相の出現は、突然変異による新形質の出現と見ることができる。そして人
間の個性としての個別相の出現は、父のDNAと母のDNAの多様な混合または組み合
せによる遺伝として見ることができる。

しかし統一思想では、進化論は創造過程の現象論的な把握にすぎないと見るために、
生物における突然変異による新形質の出現は、実は突然変異の方式を取った新しい個
別相の創造なのであり、人間における父母のDNAの混合による新形質の出現も、実は
DNAの遺伝情報の混合の方式を通じた人間の新個別相の創造と見るのである。より正
確にいえば、生物や人間の新しい個別相の創造とは、神の内的形状にある一定の原個
別相を、これに対応する被造物に新個別相として付与することである、と見るのである。

個別相と環境

個別相をもった個体が成長するためには、環境との間に不断の授受関係を結ばざるを
えない。すなわち個別相をもった個体は、環境との授受作用によって変化しながら成長し、
発展する。これは授受作用の結果によって必ず合性体または新生体(変化体)が形成さ
れるという授受法の原則によるのである。したがって個体の特性(個別相)は原則的に先
天的なものであるが、その個別相の一部が環境要因によって変化するので、あたかもそ
の特性が後天的に形成されたかのように感じられる場合がある。同一の環境要因によっ
て現れる特性にも、個人ごとに差異があるのが見られるが、これは環境に適応する方式
(授受作用の方式)にも個人差があるからである。その個人差も個別相に基因する個人
差である。このように、個別相の一部が変形されて後天的に形成された特性のように現
れたものを「個別変相」という。

人間個性の尊貴性

およそ被造物の特徴は、神の属性の個別相に由来するものであって、みな尊いもので
あるが、特に人間の個性はいっそう尊厳なものであり、神聖であり、貴重なものである。
人間は万物に対する主管主であると同時に、霊人体と肉身から成る二重体であって、肉
身の死後にも霊人体が永生するからである。すなわち人間は地上においても天上にお
いても、その個性を通じて愛を実践しながら創造理想を実現するようになっているために、
人間の本然の個性はそれほど尊貴なものであり、神聖なものである。人道主義も人間の
個性の尊貴性を主張しているが、個人の特性の神来性が認められない限り、そのような
主張によっては、人間を動物視する唯物論的人間観を克服するのは難しい。そのような
意味で個別相に関する理論も、なぜ人間の個性が尊重されなければならないかという、
また一つの現実問題の解決の基準になるのである。

以上で神相に関する説明を終わり、次は神性について説明する。