10論理学 思考過程の二段階と四位基台形成

(三) 思考過程の二段階と四位基台形成

悟性的段階と理性的段階
認識には、感性的段階、悟性的段階、理性的段階の三段階がある。これは、認識が統一原理のいう三段階完成の法則に対応しているからである。感性的段階は、外部から情報が入る窓口であるから認識の蘇生的段階であるが、長成的な悟性的段階と完成的な理性的段階では、思考が営まれるようになる。そのうち悟性的段階の思考は外部からの情報に影響されるが、理性的段階に至れば、思考は外部と関係なしに自由に営まれるようになる。

カントもやはり三段階の認識について論じている。外界から来た感性的内容を、直観形式を通じて受ける段階が感性的段階であり、さらに思考形式(悟性形式)をもって思惟する段階が悟性的段階であり、悟性的認識を統一あるいは統制していくのが理性的段階である。

マルクス主義の場合には、感性的内容が脳に反映するのが感性的段階である。次は論理的段階または理性的段階であって、そこでは判断とか推理が行われる。その次に、実践によって確かめるところの実践の段階がある。マルクス主義の場合、思惟形式は外界の存在形式が意識に反映したものである。

大脳生理学の観点から見れば、「認識論」において説明したように、感性的段階の認識は感覚中枢で、悟性的段階の認識は頭頂連合野で、そして理性的段階の認識は前頭連合野で行われると考えられている。

悟性的段階と理性的段階において、原相の構造と似た論理構造が形成される。悟性的段階において、思考は外界から入ってくる感性的要素(内容)によって規定されている。すなわち、外界の内容と内界の原型が照合されて、認識がひとまず完成する。そのとき認識構造あるいは論理構造として、内的な完結的(自同的)四位基台が形成される。ところが理性的段階では、悟性的段階で得た知識に基づいて、自由に推理を押し進め、新しい構想(新生体)を立てたりする。その時の思考の構造は内的な発展的四位基台である。

認識における大脳の生理過程を来客を迎える過程に比喩することができる。客が入ってくる玄関は、感覚的中枢(感性)に相当し、主人と会う応接室は頭頂連合野(悟性)に相当し、居間や書斎は前頭連合野(理性)に相当する。お手伝いから、玄関に客が来たことを伝えられると、主人は応接間に来て客に会って対話をする。主人は客と相対しながら、彼の言うことを理解しようとする。そのとき主人は自分勝手な考えをすることはできない。客との対話に必要な話をしなくてはならないから、自分の考えは相手の言葉によって左右されるのである。これは悟性的段階において行われる認識のたとえである。対話が終わると主人は客と別れて、自分の居間や書斎で、客の話を参考にしながら、自由に考えることができる。これが理性的段階である。

理性的段階における思考の発展
理性的段階において、思考はいかにして発展していくのであろうか。思考とは、内的性相と内的形状の授受作用である。そこでまず内的性相と内的形状の授受作用によって、第一段階のロゴス、すなわち思考の結論としての構想(新生体)が形成される。それで思考が終わる場合もあるが、たいていの場合、その思考の結論(構想)のいかんによっては、次の段階のロゴス(構想)が必要となる。そのとき第一段階で形成されたロゴスは、思考の素材である一つの概念または観念となって、内的形状の中に蓄えられて、第二段階の思考の時に、他の多くの素材(観念、概念)と共に動員される。このようにして第二段階のロゴスができると、それはまた必要に応じて内的形状に移されて、次の思考の時に、動員される。そうして第三段階のロゴスが形成される。同じ方法で、第四、第五の段階へと思考が続けられるのである。そのように、たとえ一つの事項に関する思考であっても、一回限りで終わらないで、継続される場合が多いのである。これが理性的段階における四位基台形成の過程であり、これを思考の螺旋形の発展という(図10—13)。

このように理性的段階において思考が無限に発展を続けていくのは、それが発展的四位基台であるからである。しかしいくら発展を続けるとしても、それぞれ段階で思考がいったん終わったのちに新しい思考がなされるので、思考の発展は完結的な四位基台形成の連続なのである。したがって思考は完結的段階を繰り返しながら発展していくのである。

思考の基本形式
悟性的段階における思考(あるいは認識)は、目的を中心として感性的内容と原型が授受作用することによってなされる。そこでまず、目的が正しく立てられなくてはならない。正しい目的とは、すでに述べたように、心情(愛)を基盤とした創造目的のことをいう。

認識論で述べたように、細胞や組織の原意識において形成される原映像と形式像が、末 梢神経を通じて下位中枢の潜在意識に至って、統合されて、そこにとどまるようになる。これが人間が先天的に持っている原型(先天的原型)である。その中で形式像が、認識あるいは思考において、一定の規定を与えるところの思惟形式(思考形式)となるのである。

次に、下位中枢の潜在意識が一定の形式(形式像)をもっていることを説明する。例えば盲腸炎が起きた場合を考えてみよう。原意識を統合している下位中枢では、盲腸に固有な性相と形状(機能と構造)に関する情報が絶えず伝えられている。したがって盲腸炎にかかったら、下位中枢はすぐその異常が分かる。そして盲腸が本来の状態に戻るように、適切な指示を送るのである。

胃の運動は、強すぎれば胃けいれんになることがあり、弱すぎれば胃下垂になることがあるが、そのような胃の運動の強弱に関する情報を下位中枢は知っている。そして胃の運動が強すぎたり弱すぎたりすると、適当にこれを調節する。下位中枢の潜在意識がもっているこのような情報は、陽性、陰性に関するものである。

細胞は核と細胞質からなっているが、核が細胞質をコントロールしている。核と細胞質は、主体と対象の関係にある。下位中枢の潜在意識は、そのような細胞における主体と対象の情報をもっている。

潜在意識はまた、時間と空間の感覚をもっている。それで体内のどこかで、またある時に炎症があれば、すぐそこに白血球を送って炎症を直そうとするのである。

有限と無限の関係についても潜在意識は知っている。例えば赤血球はある一定の期間、生命を維持しているが、やがて破壊されて新しい赤血球が生成される。そのように、体内では絶えず新しい細胞が生まれ、古い細胞が滅んでゆくのであるが、潜在意識はそのような有限性を知っている。また体内では、持続性、永遠性、循環性を保ちながら機能している細胞や器官もある。潜在意識は、そのような細胞や器官の機能の無限性を知っているのである。

このようにして下位中枢の潜在意識は、性相と形状、陽性と陰性、主体と対象、時間と空間、有限と無限などの形式を知っているのである。潜在意識に映っているこれらの相対的関係の像が形式像であるが、その形式像が結局、皮質中枢に送られて思考における思惟形式となるのである。

思惟型式が思考において果たす役割をサッカーの試合に例えて説明することができる。サッカーの試合において、選手たちは、それぞれ思い思いに走ったり蹴ったりするが、一定のルールに従いながらそうしているのである。同様に、理性は自由に思考を進めるのであるが、形式像に影響されて、思考は、一定の形式をとりながら、つまり規則を守りながらなされるのである。

思惟形式は、範疇である。範疇とは、最高の類概念または最も重要な類概念をいうのであり、統一思想においては、四位基台および授受作用の原理を基盤として範疇が立てられる。四位基台と授受作用が統一思想の核心であるからである。そこでまず、十個の基本的な範疇が立てられるが、それぞれの範疇の意味については、「認識論」において説明したとおりである。今日まで、多くの思想家がいろいろな範疇を立てたが、そのうちには、統一思想の範疇に関連するものも少なくない。例えば「本質と現象」という範疇は、統一思想の「性相と形状」に相当するものである。

それで、統一思想の範疇を第一範疇と第二範疇に分けることにする。第一範疇は、統一思想に特有な十個の基本的な形式である。第二範疇は、第一範疇を基礎として展開したものであって、そこには従来の哲学における範疇に相当するものも含まれる。第一範疇と第二範疇を列挙すれば、次のようになる。第二範疇の数には特に制限はなく、ここではその一部だけを挙げるにとどめる。

第一範疇           第二範疇
① 存在と力         ① 質と量
② 性相と形状        ② 内容と形式
③ 陽性と陰性        ③ 本質と現象
④ 主体と対象        ④ 原因と結果

⑤ 位置と定着        ⑤ 全体と個体
⑥ 不変と変化        ⑥ 抽象と具体
⑦ 作用と結果        ⑦ 実体と属性
⑧ 時間と空間          ……
⑨ 数と原則           ……
⑩ 有限と無限

第一範疇の「性相と形状」は、第二範疇の「本質と現象」や「内容と形式」と似ているにもかかわらず、なぜこのような目新しく、一般的でない用語を使うのであろうか。

統一思想の基本になっているのは、四位基台、正分合作用、授受作用などの概念である。これらを取り去れば、統一思想は骨格が抜けてしまったのと同然である。したがって統一思想の範疇としては、これらと関係した概念を用いざるをえないのである。範疇と思想は密接な関係をもっているのである。範疇を見れば思想が分かり、思想を見れば範疇が分かるほどである。範疇は思想の看板である。統一思想は新しい思想であるから、それにふさわしい新しい用語の範疇が当然立てられなければならないのである。

マルクスの思想にはマルクス的な範疇があり、カントの思想にはカント的な範疇があり、ヘーゲルの思想にはヘーゲル的な範疇がある。同様に、統一思想の範疇も統一思想の特徴を示すものでなくてはならないのであり、それが第一範疇としての十個の基本的な形式なのである。

思考の基本法則
形式論理学において、思考の根本原理は同一律、矛盾律、排中律、充足理由律であった。しかし統一思想から見た場合には、それよりもっと基本的な法則がある。それが授受法である。この授受法は論理学の法則であるだけでなく、すべての領域の法則である。政治、経済、社会、科学、歴史、芸術、宗教、教育、倫理、道徳、言論、法律、スポーツ、企業、そしてすべての自然科学(物理学、化学、生理学、天文学等)など、実にあらゆる領域を支配する法則である。

そればかりでなく、全被造世界、すなわち全地上世界(宇宙)と全霊界を支配してきた法則である。そして、論理学と直接関係のある認識論の法則でもあるのはいうまでもない。なぜ授受法がこのように広範囲に作用しているのかといえば、それが神の創造の法則であるからである。そしてその根源は、神の属性(本性相と本形状)の間に作用した授受作用にあるのである。そのような神の属性の間の授受作用に似せて、神は万物を創造されたのであるから、被造物においてはそれが法則となっているのである。

このことは、授受法が他のすべての法則までも支配する最も基本的な法則であることを意味する。物理的法則や化学的法則や天文学的法則も、その基盤となっているのは授受法である。したがって形式論理学をはじめとする諸論理学の法則や形式も、実はその根拠が授受法にあったのである。それゆえ授受法は、思考の基本法則である。ここに、その例として、三段論法と授受法を比較してみる。

三段論法と授受法
三段論法は、形式論理学の中の一つの推理形式である。授受法が形式論理学の形式や法則の根拠となるということを、この次のような三段論法の例から説明する。

人は死ぬ。
ソクラテスは人である。
ゆえにソクラテスは死ぬ。

ここで大前提と小前提から導かれた結論は、目的を中心とした大前提と小前提との授受作用(対比)の結果得られたものである。そこにおいて、「人は死ぬ」と「ソクラテスは人である」という二つの命題が対比されて結論が得られているのである。さらに命題自体も二つの概念(主語と述語)の対比によって成立しているのである(図10—14および図10—15)。

メートルとフィートを比べる次のような例も同様である。

a 一メートルは三・二八フィートである。
b この机の横の長さは二メートルである。
c ゆえに、この机の横の長さは六・五六フィートである。

この場合、結論cは、a命題とb命題を対比(授受作用)して得られたものである。

同一律と授受法
同一律の場合も同様である。例えば「この花はバラである」という命題を考えてみよう。これは「この花」と「バラ」を心の中で比較して、それらが一致したので「……である」と判断したのである。比較するということは、対比型の授受作用を意味する。したがって、同一律も授受法に基づいていることが分かる。矛盾律の場合も同様である。そのようにして、形式論理学の法則や形式は、みな授受法の基盤の上に立てられているのである。

思考と自由
論理学は思考の形式や法則を強調しているので、「自分が考えることまで、いちいち法則や形式の干渉を受けなければならないのか」とか、「いかなる干渉も受けずに自由に考えたい」という思いがするかもしれない。ところが思考に規則や形式があるのは、実は思考に自由を与えるためである。

法則や形式のない思考は一歩も進むことができない。それは、あたかも鉄道がなければ汽車は少しも前進できないのと同様である。われわれは、体も心も法則に従って生きるとき、初めて正常に機能することができるのである。

われわれの体を見ると、すべての生理作用は法則の支配を受けている。呼吸も、消化作用も、血液循環も、神経の伝達作用も、みな一定の生理の法則のもとに営まれている。万一、これらの生理作用が法則を離れれば、すぐ病気になるであろう。人間の思考作用においても同様である。したがって「AはAである」という同一律において、「……である」という論理語を使わないで、例えば「この花はバラである」と言わずに「この花、バラの花」と言ったら、それは何の意味か分からないのである。形式の場合も同じである。「全称肯定判断」という判断形式(すべてのSはPである)において、「すべての人間は動物である」という判断を例に挙げてみよう。この場合も「すべてのSはPである」という形式を取り除けば、ただ「人間、動物」だけが残り、やはり何の意味か全く分からないのである。他人が分からないのはもちろん、時間がたてば自分も分からなくなるであろう。

そのように、思考には必ず一定の法則や形式が必要である。それでは、純粋に自由な思考というものはありうるだろうか。つまり、法則や形式を離れた自由はありえるのだろうか。そうではない。思考に自由はあるが、それは「思考の選択の自由」である。法則や形式に従いながらも、つまり、法則や形式から離れなくても、選択の自由があるのである。

例えば愛の実現に関する思考を例に取れば、愛の実現という共通目的、共通方向を指向しながらも、その具体的な実現においては、個人によってそれぞれの目的や方向は異なるのである。それは選択の自由のためである。つまり選択の自由によって、各自がそれぞれの目的や方向を自由に決定するのである。

それでは、自由な思考がいかにして行われるのであろうか。それは思考(内的授受作用)において、霊的統覚が内的形状内の観念、概念の複合や連合を自由に行うということであり、それはまさに構想の自由である。この構想の自由は、理性の自由性に基因するものである。