2存在論 連体 存在様相

2021年8月25日
(三)存在様相

次は、存在者がいかなる様式で存在しているかということ、すなわち存在様相について説明する。被造物の存在様相は運動であるが、それは時間、空間内における物理的運動をいう。それゆえ存在様相は被造世界のみに成立する時空的な概念である。神は絶対者であるので、神が時空的性格を帯びた運動をするということはありえない。したがって、原相の存在様相という概念は成立しない。しかし、被造世界の存在様相に対応する原型は原相内にあるのである。

(1) 円環運動

被造世界において、主体と対象の関係にある二つの要素または個体が目的を中心として授受作用をすれば、その結果として合性体が生じると同時に運動が始まる。その際、中心の目的は存在者ではない。また合性体は授受作用の結果として生じる状態にすぎない。したがって授受作用において、実際に運動に参加するのは主体と対象の二つの要素(個体)だけである。そのとき授受作用の中心(目的)は主体と対象の中間にあるのではなく、主体の中にある。したがって授受作用による運動は、主体を中心とした円環運動として現れるようになる。これを図で表せば図2—5のようになる。

例えば原子においては電子が核を中心に回っており、太陽系においては惑星が太陽を中心に回っている。授受作用の中心である目的が核や太陽にあるからである。

それでは被造世界において、主体と対象はなぜこのような運動を行うのであろうか。神の世界には時間も空間もなく、運動はありえない。しかし、たとえ神に円環運動のような存在様相はないにしても、被造世界の円環運動の原型が神にあるはずである。それが性相と形状の授受作用の円満性、円和性、円滑性である。すなわち原相では性相と形状が心情(目的)を中心として円満な授受作用をなしているが、この授受作用の円満性あるいは円和性が、時間・空間の世界に象徴的に展開されたのがまさに円環運動なのである。

万物世界は、神の属性の象徴的な表現体である。例えば海の広さは神の心の広さを象徴したものであり、太陽の熱は神の愛の温かさを象徴し、太陽の光は神の真理の明るさを象徴している。同様に、被造世界の円環運動も神の中の何かを象徴しているのであって、それが原相内の授受作用の円和性なのである。授受作用の円和性は、心情を中心とする愛の表現である。すなわち授受作用の円和性の表現である円形は、同時に愛の表現でもある。そのように、愛は角のないものであり、円形で表現することができる。したがって、原相をもし図で表すとするならば、円形または球形となるのである。

神は無形であって一定の姿はない。その代わり、神はどんな姿にでも現れうる可能性として存在しているのである。すなわち、神は無形にして無限形である。これは水に例えることができる。水には一定の形はないが、四角の器に入れば四角に、三角の器に入れば三角に、丸い器に入れば丸くなる。器によってどんな形にもなる。すなわち無限形である。しかし水の代表的な形は何かといえば、球形である。それは水滴が球形であることから分かる。

同様に、神は時には波のような姿として、時には風の姿として、また時には炎のような姿で現れる。しかし代表的な形があるとするならば、それは球形である。そういう意味において、原相は円形あるいは球形で表されるのである。万物も原相に似て、すべて基本的な形態は球形を成している。原子や、地球、月、太陽、星などはみな球形をしている。植物の種や、動物の卵も、基本的にみな球形である。

万物の運動が円環運動であるというのは、原相の授受作用の円和性に似ているからであるが、それはまた原相自体の球形性あるいは円形性に似ているからでもあるのである。

主体と対象が授受作用するとき円環運動がなされるが、それにはもう一つの理由がある。それは円環運動が授受作用の表現形態であるからである。もし対象が主体を中心に回らないで直線的に運動するならば、やがて対象は主体から離れてしまうので、主体と対象は授受作用ができなくなってしまう。授受作用ができなければ被造物は存在できなくなる。授受作用によってのみ、生存(存続)と繁殖(発展)と統一の力が現れるからである。したがって主体と対象が授受作用を行うために、対象は主体と関係をもたなければならず、そのためには対象は主体の周りを回らざるをえないのである。

(2) 自転運動と公転運動

次は、自転運動と公転運動について説明する。いかなる個体であれ、円環運動をなすに際して、必ず自転運動と公転運動という二通りの運動を同時に行うようになる。すべての個体は個性真理体でありながら、連体であるからである。つまり、すべての個体は内的に授受作用を行いながら、同時に外的にも授受作用を行っている。そのとき、この二つの授受作用に対応する、二通りの円環運動が生じるのである。内的授受作用による円環運動が自転運動であり、外的授受作用による円環運動が公転運動である。

例えば地球は自転しながら太陽を中心に公転しており、電子も自転しながら原子核を中心に公転している。被造物において、このように自転運動と公転運動が同時に行われるのは、万物の内外の運動(授受作用)が原相における内的授受作用の円和性と外的授受作用の円和性に似ているからである。

ところで、この内的および外的授受作用に際して、内的四位基台および外的四位基台が目的を中心として形成される(被造物の場合、原相とは違い、いかなる四位基台においても、その中心に目的が立てられる)。そしてこの内的および外的四位基台形成において、結果が合性体である場合と新生体である場合がある。ここでは結果が合性体である場合だけを調べてみよう。

原相において、授受作用の結果が合性体である場合、内的授受作用と外的授受作用によって内的自同的四位基台と外的自同四位基台が形成されるが、それが「原相の二段構造」である。被造物もそのような原相の四位基台構造に似て内的自同的四位基台と外的自同的四位基台を成しているが、それが「存在の二段構造」である。授受作用は四位基台を土台にして行われるのであり、授受作用を行うと必ず円環運動が現れる。したがって内的および外的四位基台において、内的および外的授受作用が行われると同時に内的および外的な円環運動がなされるのである。そのとき、内的円環運動が自転運動であり、外的円環運動が公転運動なのである。

(3) 円環運動の諸形態

ところで被造世界において、実際に空間的な円環運動を行っているのは、天体と原子内の素粒子だけであり、その他の万物においては文字どおりの円環運動をしていない場合がある。例えば植物は一定の位置に固定されているのであり、動物も動いてはいるが、必ずしも円環運動をしているわけではない。しかしそのような場合も、存在様相の基本形はやはり円環運動であり、ただそれが変形されて他の形態を取るようになっているにすぎない。そのように被造物の円環運動が変形されている理由は、各被造物の創造目的すなわち全体目的と個体目的を効果的に達成するためである。そして実際に現れる円環運動の形態には、基本的円環運動、変形した円環運動、精神的円環運動という三つの類型があるのである。

基本的円環運動

基本的円環運動には、空間的円環運動と時間的円環運動の二類型がある。

① 空間的円環運動

これは物理的、反復的な円環運動であり、天体と素粒子の自転運動および公転運動がその例である。すなわち原相内の自同的授受作用が空間的性格を帯びて現れたものである。これは文字どおりの円環運動であるが、常にほとんど同じ軌道を回っているので反復運動でもある。

② 時間的円環運動(螺旋形運動)

これは生物のライフサイクル(生活史)の反復と継代現象のことをいう。植物の場合、一粒の種から芽が出て、成長し、花を咲かせ、果実(新しい種)を実らせるが、そのとき、新しい種は初めの種より数が増えている。この種が再び地に蒔かれれば、芽を出し、成長し、また新しい果実(種)を実らせる。動物の場合も同様である。受精卵が成長して子になり、子が成長して親になり、再び新しい受精卵ができる。この新しい受精卵がまた大きくなって親になる。このように植物も、動物も、ライフサイクルを繰り返しながら、すなわち代を受け継ぎながら種族を保存しているのである。このような種族保存のための継代現象も一種の円環運動であるが、この運動は目的性、時間性、段階性を伴うのがその特徴である。これを特に螺旋形運動といい、図に表せば図2—6のようになる。

ここで生物の螺旋形運動、つまり種族の保存と繁殖の意味を明らかにすることにする。万物は人間の喜びの対象であると同時に、主管の対象である。したがって結論的にいえば、万物の種族保存と繁殖は人間の不断の継代と繁殖に対応するためのものなのである。人間の肉身は永遠なる存在ではなく、霊人体のみが永生する。すなわち肉身を土台として霊人体が完成すれば、肉身の死後、成熟した霊人体は霊界で永遠に生きるようになっている(ただし人間の堕落によって、今日まで、人間は霊人体が未完成のまま、霊界に行っている)。霊人体の完成とは、創造目的を完成することであり、人間が成長して人格を完成し、結婚して子女を繁殖し、万物を主管すること、すなわち三大祝福の完成を意味するのである。

地上に住んでいる人間の肉身は一定の寿命をもっているが、肉身は繁殖を通じて次の世代につながっている。そして万物は、そのような地上の人間の喜びと主管の対象となるために、やはり代を受け継ぎながら種を保存し、繁殖するようになっているのである。このような時間的円環運動は、原相内の発展的授受作用が主として時間的、継起的な性格を帯びて現れたものである(9)。

変形した円環運動

変形した円環運動には、固定性運動と代替性運動の二つの類型がある。

① 固定性運動

これは、円環運動が一個体の創造目的を遂行するために固定化されたものである。あたかも静止衛星が、その目的遂行のために、一定の位置に固定されているのと同じである。人間が住んでいる地球の場合、地球を構成している多くの原子が勝手に運動するならば、地球はガス状態になってしまう。そうすると、そこに人間は住むことはできない。地球が人間の住む所となるためには、原子と原子が固く結合して、固定され、固い地殻を形成しなければならない。したがって地球を構成している原子は、人間の住む環境を造るために(全体目的のために)、円環運動の形態を変えて固定化せざるをえないのである。

生物体の各組織を構成している細胞も、みな互いに結合し、固定されている。例えば動物の心臓をつくっている細胞は互いに固く結合しているが、これは心臓の機能である伸縮作用(全体目的)をなすためである。もし細胞同士が互いに離れて運動するとすれば、心臓はその機能を果すことができない。

② 代替性運動

動物においては、体を構成している細胞が直接、円環運動をしない代わりに、血液とリンパが体内を巡って細胞と細胞を連結させており、それによって細胞が互いに円環運動をなすのと同じ効果を現している。植物においても、導管と師管を通じて養分が体内を巡って細胞と細胞を連結させている。そうすることによって、細胞が円環運動をなすのと同じ効果を現しているのである。このように血液とリンパ、または養分が流通しながら、細胞の円環運動を代身することを代替性円環運動あるいは代替性運動という。また地球においても、マントルの対流とかプレート(地球表面の岩盤)の移動なども、代替性運動と見ることができる。また経済生活における商品や貨幣の流通も、やはり代替性運動に属する円環運動と見ることができる。

精神的円環運動

人間において、生心と肉心の授受作用は物理的な円環運動ではない。生心の願うままに肉心が呼応するという意味で、精神的な円環運動である。また家庭や社会における人間と人間の円満な授受作用は、主体が願うように対象が呼応するという意味で、やはり精神的な円環運動である。例えば父母と子女の授受作用において、父母が子女を愛してよく指導すれば、子女は父母の意によく従うようになる。そのとき、子女が父母の意によく従うことが精神的な円環運動である。

(4) 成長と発展運動

統一思想の発展観

ここで成長と発展の概念を説明することにする。それは統一思想の発展観を明らかにするためである。生物は生命をもっているが、生命とは、原理の自律性と主管性のことであり、生物体に潜在する意識性をもつエネルギー(またはエネルギーをもつ意識)のことである。生物の成長は、この生命すなわち原理の自律性と主管性に基因するが、それは生物体に潜在している、意識とエネルギーの統一物(意識性エネルギー)なのであり、この意識性エネルギーの運動がまさに生命運動なのである。

自律性とは、他から強いられるのでなくて、自ら進んで決定する能力である。地球は太陽を中心として回っているが、それはただ機械的に法則に従っているだけである。しかし生命は、機械的に法則に従いながらも、時には自らを制御しつつ、様々な環境の変化に対処する。そのようにして成長しているが、それが原理の自律性である。

一方、原理の主管性とは、周囲に対して影響を与える作用をいう。植物において、種を土に蒔けば、芽が出て、茎が伸び、葉が出るというように成長するが、その成長する力そのものは原理の自律性である。同時に、植物は周囲に影響を与えながら成長する(10)。動物に酸素を供給するとか、花を咲かせて蜂や蝶を呼ぶことなどがそれである。それが原理の主管性である。そのように生命を成長という面から見た場合には自律性であり、周囲に影響を与えるという面から見れば主管性である。

そのような生命による生物の成長運動がまさに発展運動である。ところで被造物にはすべて被造目的(創造目的)が与えられている。生物に被造目的が与えられているということは、生物の中の生命が、その目的を意識しているということを意味する。したがって生物の成長は、初めから目標(目的の達成)を目指す運動なのである。

発展には目標と方向があるが、それは生命によって定められている。すなわち植物の場合、種の中に生命があり、その生命が種をして木と果実を目標にして成長するように作用するのである。また動物の卵(受精卵)の中にはやはり生命があり、卵が成体を目標にして成長するように作用するのである。

ここで宇宙の発展の場合を考えてみよう。ビッグバン説によれば、約百五十億年前、宇宙は極めて高温で高密度の一点に凝集した状態から大爆発によって生まれ、膨脹を始めた。膨脹しながら渦を巻いている熱いガスが、やがて冷えて凝縮し、多くの銀河が形成され、それぞれの銀河の中でたくさんの星(恒星)が誕生した。そして星のなかには惑星に囲まれていたものもあったが、その惑星の一つが地球であった。地球上に生命が発生し、ついに人間が現れた。

これが今日知られている科学的な宇宙の発展観の骨子である。ところでこの宇宙の発展は生物の成長(発展)とどのように違うのだろうか。生物とは違って、単純な物理化学的法則による発展なのか、それとも生物の場合のように、生命による発展なのだろうか。

宇宙の発展を比較的短期間の過程から扱うとき、宇宙の発展は単純な物理化学的法則による発展としか見ることはできない。しかし数十億年という長い期間を一つの発展過程として見るとき、宇宙は物理化学的法則に従いながら、一定の方向に向かって進行してきたことが分かる。すなわち宇宙の発展には一定の目標があったことが分かるのである。目標とは、宇宙の主管主である人間の出現を意味する。つまり宇宙は人類の出現を目指して発展してきたのである。宇宙の発展にこのような方向性を与えたのは、宇宙の背後に潜在していた意識であり、それを「宇宙意識」あるいは「宇宙生命」と呼ぶのである。

植物の種(生命体)が発芽し、成長し、実を結ぶように、宇宙の発展においても、初めに宇宙的な種(生命体)があり、それが今日まで膨脹しながら成長してきたのであり、その成長の最終的な実が人間であると見ることができる。つまり果実が果樹の成長の目標であるように、人間が宇宙の発展の目標であった。先に成長は生物だけにある現象だと言ったが、百五十億年という長い時間の目で宇宙を見れば、宇宙全体が一つの巨大な有機体として成長してきたと見ることができるのである。

共産主義の発展観

次は、共産主義の発展観について調べてみることにする。発展は一定の目標に向かう、目的をもった不可逆的な運動である。ところが共産主義は、発展を目的をもった運動であるとは決して言わない。すなわち共産主義は、発展は事物の内部の矛盾によってなされるのであり、そこには法則性と必然性だけが認められるだけであるといって、目的を否定する。なぜだろうか。目的を立てうるのは意志とか理性しかないからである。そして宇宙が生まれる前に、目的を立てた理性があるとすれば、その理性はまさに神のものにほかならない。そうすれば結局、神を認めざるをえなくなるのであり、神を認めるようになれば、無神論である共産主義は破綻するために、彼らはどんなことがあっても、目的だけは認めようとしないのである。

それに対して統一思想は、発展において必然性と法則性を認めるのみならず、そこには必ず目的性があることを主張する。発展の主体は生命であり、生命は目的性をもつ意識性のエネルギーであるからである。発展における法則性、必然性は、みなこの目的の実現のためにある。すなわち法則性と必然性は、万物がその目的を達成するように、万物に与えられたものである。

原相論によれば、神の性相において、内的性相(理性)と内的形状(法則)が目的を中心として授受作用を行ってロゴスが生じた。ロゴスは理性と法則の統一体であるが、法則は神の宇宙創造に先立って、創造目的の実現のために、神の内的形状の中に準備されていたのである。

唯物論者は宇宙の発展において目的性を否定するために、人間は単に法則の必然性によって生まれた無目的な存在でしかない。したがって人間は偶然的存在にすぎず、そのような人間には価値生活や道徳生活はすべて無意味なものとなる。そのような世界は、力の強いものだけが生きる、弱肉強食の世界となるしかない。

共産主義の運動観

共産主義は物質を「運動する物質」としてとらえている。エンゲルス(F. Engels, 1820-95)は次のように言っている。「運動は物質の存在様式である。運動のない物質はいつどこにもなかったし、またありえない。……運動のない物質が考えられないのは、物質のない運動が考えられないのと同じである(11)」。共産主義がこのように、運動を物質の存在様式であると主張するのは、神の存在を否定するためである。宇宙を巨大な機械としてとらえたニュートンは、その機械を造り、始動させた存在として神を認めた。そのように物質と運動を切り離して考えると、運動は物質以外の他の存在、すなわち神のような存在によって引き起こされたと見ざるをえなくなるのである。それで共産主義者たちは、そのような形而上学的な運動観を防ぐために、運動は物質が本来備えている存在様式であると主張したのである。

統一思想から見れば、主体と対象の授受作用によって事物は存在し、運動している。したがって運動は万物の存在様式に違いないのである。そして運動は一個体のみに属している存在様式ではなくて、主体と対象が授受作用をするときに現れる現象である。

ところで主体と対象の授受作用は、創造目的を実現するための作用である。したがって運動は結局、創造目的を実現するためにあるのである。例えば地球は、人間が住むことのできる環境をつくるという創造目的を実現するために、内的授受作用と外的授受作用をしており、そのために自転運動と公転運動をしているのである。

共産主義は運動は物質の存在様式であるというが、なぜ物質はそのような存在様式をもつのか、そしてその運動の形態はいかなるものかについて、何も説明しない。ただ事物は対立物の闘争によって運動していると主張するだけである。