存在論

第二章 存在論

一般哲学でいう存在論のギリシア語の原語はOntologia であり、それはonta(存在するもの)とlogos(論理)の合成語であって、存在論は存在に関する根本問題を研究する哲学の一つの部門をいうのである。しかし統一存在論は、統一原理を基本にして、すべての存在が神によって創造された被造物であると見る立場であり、被造物の属性(共通の属性)は何であり、被造物はいかに存在し、またそれはいかなる運動をしているか、ということを扱う部門である。

本存在論は、すべての被造物をその対象としている。したがって人間も被造物であるので、本存在論の対象であるのはもちろんである。しかし人間は万物の主管主であって、万物とはその格位が違うので、人間に関しては特に本性論においてさらに詳細に論ずることにする。したがって本存在論は、主として万物に関する理論であるということができる。

原相論は神に関する理論であるが、存在論は万物に関する説明を通じて原相論を裏づける理論である。つまり原相論は統一原理に基づいた演繹的な理論であるために、そこで説明された神の属性が、実際にどのように万物の中に現れているか、また現れているとすればどのように現れているか、ということを明らかにするのが本存在論なのである。そして、もし万物の中にそのような神の属性が普遍的に現れている事実が明らかにされれば、原相論の真理性がよりいっそう保証されるのである。言い換えれば、万物の属性を扱う存在論は無形の見えない神の属性を可視的に確認する理論であるということができる。

今日、自然科学は急速な発展を遂げたが、ほとんどの場合において、科学者たちは神のことを考えず、ただ客観的に自然界を観察しただけであった。しかし相似の法則によって万物が創造されたために、自然を観察した科学的事実が神の属性と対応するということが明らかにされれば、自然科学はむしろ原相論を裏づけるという論理が成立するようになる。実際、今日までの自然科学の成果が神に関する理論を裏づけるという事実が本存在論において証明されるであろう。

統一原理によれば、人間は神に似せて造られ(創世記一・二七)、万物は人間に似せて造られた。神は宇宙の創造に先立って、心の中でまず神に似せて人間の像(姿)を描いたのである。そして次に、その人間の像を標本として、それに似せて万物を一つ一つ創造されたのである。これを「相似の創造」という。そして、このような創造の法則を「相似の法則」という。

ところが万物は、今も昔も本来の姿をそのままもっているが、人間は堕落によって本来の姿を失ってしまったために、人間によって構成された社会も本来の姿を失い、非正常的な状態におかれるようになった。したがって現実の人間と社会そのままでは「存在の問題」と「関係の問題」の解決の道を見いだすことはできない。そこで聖人や哲人たちは、空の星の運行や、自然万物の消長、変化や、四季の変遷の中で悟った理論でもって、彼らの教えを打ち立てたのである。しかし彼らは、なぜ人間と社会を救済する真理が自然界を通して得られるのかを知ることはできず、ただ直感的にそのような真理を悟っただけであった。

統一原理によれば、万物は本然の人間の姿を標本として造られたものであるから、自然界を通じて本来の人間と社会の姿を知ることができるのである。原相論において、神の属性を正しく理解することが、人間や社会の諸問題を解決することのできる鍵となることを説明した。しかるに創造は相似の創造であるために、神の属性だけでなく、万物の属性を正しく理解すれば、これもまた現実問題の解決の鍵となるのはもちろんである。したがって、存在論も現実問題を解決するまた一つの基準となる思想部門なのである。

本存在論では、万物一つ一つの個体を存在者という。したがって存在論は存在者に関する説明であり理論であるということができる。そして存在者に関する説明を「個性真理体」と「連体」という二項目に分けて行うことにする。

ここで個性真理体とは、神の属性、すなわち原相の内容にそのまま似た個体のことをいうのであり、一個体を他の個体との関係を考えずに、独立的に扱う時の被造物をいう。しかし実際は、すべての個体は相互間に密接な関係を結んで存在する。そこで一個体を他の個体との関係から見るとき、その個体を連体という。したがって連体は、相互関連性をもつ個性真理体をいうのである。

被造物(存在者)は神に似せて造られたから、すべての被造物の姿は神相に似ている。しかるに神相には普遍相と個別相があるので、すべての個体は原相に似て、普遍相と個別相をもっている。ここで普遍相とは性相と形状および陽性と陰性をいい、個別相とは各個体がもっている特性をいう。まず個性真理体の普遍相、すなわち性相と形状、陽性と陰性について説明する。

一個性真理体

(一) 性相と形状

すべての被造物は、何よりもまず原相に似た属性として性相と形状の二側面をもって
いる。性相は機能、性質などの見えない無形的な側面であり、形状は質料、構造、形態
などの有形的な側面である。
まず鉱物においては、性相は物理化学的作用性であり、形状は原子や分子によって構
成された物質の構造、形態などである。

植物には、植物特有の性相と形状がある。植物の性相は生命であり、形状は細胞およ
び細胞によって構成される組織、構造、すなわち植物の形体である。生命は形体の中に
潜在する意識であり、目的性と方向性をもっている。そして生命の機能は、植物の形体を
制御しつつ成長させていく能力、すなわち自律性である。植物はこのような植物特有の
性相と形状をもちながら、同時に鉱物次元の性相的要素と形状的要素をも含んでいる。
つまり植物は、鉱物質をその中に含んでいるのである。

動物においては、植物よりもさらに次元の高い動物に特有な性相と形状がある。動物
の性相とは本能をいう。そして動物の形状とは、感覚器官や神経を含む構造や形態など
である。動物もやはり鉱物質をもっているのであって、鉱物次元の性相と形状を含んでい
る。さらに植物次元の性相と形状をも含んでいる。動物の細胞や組織は、みなこの植物
次元で作用しているのである。

人間は、霊人体と肉身からなる二重的存在である。したがって人間は、動物よりもさら
に次元の高い、特有の性相と形状をもっている。人間に特有な性相とは、霊人体の心で
ある生心であり、特有な形状とは霊人体の体である霊体である。そして人間の肉身にお
いては、性相は肉心であり形状は肉体である。

人間の肉体の中には鉱物質が含まれている。したがって人間は、鉱物次元の性相と形
状をもっている。また人間は、細胞や組織からできており、植物次元の性相と形状をもっ
ている。また動物と同じように、人間は感覚器官や神経を含んだ構造と形態をもっており、
動物次元の性相と形状をもっているのである。人間の中にある動物次元の性相、すなわ
ち本能的な心を肉心という。こうして人間の心は本能としての肉心と、霊人体の心である
生心から構成されているのである。ここで肉心の機能は衣食住や性の生活を追求し、生
心の機能は真善美と愛の価値を追求する。生心と肉心が合性一体化したものが、まさに
人間の本然の心(本心)である。

ここで人間の霊人体について説明する。肉身は万物と同じ要素からできており、一定の
期間中にだけ生存する。一方、霊人体は肉身と変わりない姿をしているが、肉眼では見
ることのできない霊的要素からできていて、永遠に生存する。肉身が死ぬとき、あたかも
古くなった衣服を脱ぎ捨てるように、霊人体は肉身を脱ぎ捨てて、霊界において永遠に生
きるのである。霊人体も性相と形状の二性性相になっているが、霊人体の性相が生心で
あり、形状が霊体である。霊人体の感性は肉身生活の中で、肉身との相対関係において
発達する。

すなわち霊人体の感性は肉身を土台として成長する。したがって人間が地上で神の愛
を実践して他界すれば、霊人体は充満した愛の中で永遠に喜びの生活を営むようになる。
逆に地上で悪なる生活を営むならば、死後、悪なる霊界にとどまるようになり、苦しみの
生活を送るようになるのである。

人間は鉱物、植物、動物の性相と形状をみなもっている。そしてその上に、さらに次元
の高い性相と形状、すなわち霊人体の性相と形状をもっている。そのように人間は万物
の要素をみな総合的にもっているために、人間は万物の総合実体相または小宇宙であ
るという。以上説明したことにより、鉱物、植物、動物、人間と存在者の格位が高まるにつ
れて、性相と形状の内容が階層的に増大していくことが分かる。これを「存在者における
性相と形状の階層的構造」といい、図で表せば図2—1のようになる。

ここで留意すべきことは、神の宇宙創造において、鉱物、植物、動物、人間の順序で創
造するとき、新しい次元の特有な性相と形状を前段階の被造物に加えながら創造を継続
し、最後に最高の次元の人間の性相と形状を造ったのではないということである。神は創
造に際して、心の中にまず性相と形状の統一体である人間を構想された。その人間の性
相と形状から、次々に一定の要素を捨象し、次元を低めながら、動物、植物、鉱物を構
想されたのである。しかし時間と空間内における実際の創造は、その逆の方向に、鉱物
から始まって、植物、動物、人間の順序で行われたのである。これを結果的に見るとき、
人間の性相と形状は、鉱物、植物、動物のそれぞれ特有な性相と形状が積み重なってで
きたように見えるのである。人間の性相と形状が階層的構造を成しているということは、
次のような重要な事実を暗示している。

第一に、人間の性相は階層性をもちながら、同時に連続性をもっているということであ
る。すなわち人間の心は生心と肉心から成っているが、生心と肉心には互いに連なって
いる。したがって生心によって肉心をコントロールすることができるのである。また人間の
心は、生命とも連なっている。通常、心は自律神経をコントロールすることはできないが、
訓練によってそれが可能となることが知られている。例えばヨガの行者は、瞑想によって
心臓の鼓動を自由に変化させたり、時には止めることさえできるのである(1)。そして心は、
体内の鉱物質の性相とも通じているのである。

人間の心はまた、対内的だけでなく対外的にも、他の動物や植物の性相とも通じ合っ
ている。例えば人間は念力によって、物理的手段を用いることなく、動物や植物はもちろ
ん鉱物にまでその影響を及ぼすことができるということも、明らかにされている(2)。動物、
植物、鉱物が人間の心に反応するということも知られている。植物の場合、アメリカの嘘
発見器の検査官であるクリーブ・バクスターが確認した「バクスター効果」がその一つの
例である(3)。そして、鉱物や素粒子も自体内に思考力をもっているのではないかという推
測までなされているのである(4)。

第二に、人間の性相と形状の階層的構造は、生命の問題に関して重要な事実を示唆
している。今日まで、無神論者と有神論者は神の実在に関して絶えず論争を続けてきた。
その度ごとに、有神論者たちは「神なしに生命が造られることはない。神だけが生命を造
ることができる」と言って無神論を制圧してきたのである。いくら自然科学が発達しても、
生命の起源に関する限り、自然科学は合理的な論証を提示することはできなかった。そ
して長い間、生命の起源の問題は有神論が成立しうる唯一のよりどころであった。ところ
が今日、その唯一の拠点が無神論によって破壊されている。科学者が生命を造りうる段
階に至ったと主張するようになったからである。

では、果たして科学者は生命を造ることができるのであろうか。今日の生物学によれば、
細胞の染色体に含まれるDNA(デオキシリボ核酸)はアデニン、グアニン、シトシン、チミ
ンという四種類の塩基を含んでいるが、この四種類の塩基の配列が生物の設計図という
べき遺伝情報になっている。この遺伝情報に基づいて生物の構造や機能が決定されて
いるのである。結局、DNAによって生命体が造られているという結論になる。そして今日、
科学者がDNAを合成しうるという段階にまで至った。したがって唯物論者たちは、生命現
象を説明するのに神の存在は全く必要ないと主張する。結局、神はもとより存在しないと
いうのである。

ところで科学者がDNAを合成するということは、果たして生命を造ることを意味するの
であろうか。統一思想から見れば、科学者がいくらDNAを合成したとしても、それは生命
体の形状面を造ったにすぎない。生命のより根本的な要素は生命体の性相である。した
がって科学者が造りえるのは、生命それ自体ではなく、生命を担うところの担荷体にすぎ
ないのである。人間においても、形状である肉身は性相である霊人体を担っているので
あって、肉身は父母に由来するが、霊人体は神に由来するのである。同様に、DNAが科
学者に由来しうるとしても(すなわち科学者がDNAを造ったとしても)、生命それ自体は
神に由来するのである。

ラジオと音声について考えてみよう。ラジオは放送局から来る電波を捕らえて音波に変
化させる装置にすぎない。したがって科学者がラジオを造ったとしても、科学者が音声を
造ったわけではない。音声は放送局から電波に乗ってくるものだからである。それと同じ
ように、たとえ科学者がDNAを造ったとしても、それは生命を宿す装置を造ったにすぎな
いのであって、生命そのものを造ったとはいえないのである。

宇宙は生命が充満している生命の場であるが、それは神の性相に由来するものである。
そこで生命を捕らえる装置さえあれば、生命がそこに現れるのである。その装置にあたる
のがDNAという特殊な分子なのである。「性相と形状の階層的構造」から、そのような結
論が導かれるのである。

(二) 陽性と陰性

陽性と陰性も二性性相である

次は、個性真理体の陽性と陰性について説明する。原相論で述べたように、陽性と陰
性も神の二性性相であるが、それは性相と形状の属性である。つまり性相にも陽性と陰
性があり、形状にも陽性と陰性があるということである。
まず、人間の性相と形状における属性としての陽性と陰性について説明する。人間の
性相は心であるが、心には知情意の三機能がある。この知情意のそれぞれの機能に陽
的な面と陰的な面があるのである。

知の陽的な面は、明晰、記憶、想起力、判明、才知などである。それに対して知の陰的
な面は、模糊、忘却、記銘力、混同、生真面目などをいう。情の陽的な面は、愉快、騒
がしい、喜び、興奮などであり、情の陰的な面は、不快、静粛、悲しみ、沈着などである。
意においては、積極的、攻撃的、創造的、軽率性などが陽的な面で、消極的、包容的、
保守的、慎重性などが陰的な面である。

形状すなわち体においては、隆起した部分、突き出した部分、凸部、表面などが陽的な
面であり、陥没した部分、孔穴部、凹部、裏面などが陰的な面である。以上の内容を整
理すれば、表2—1のようになる。
動物、植物、鉱物においても、それぞれ性相に陽性と陰性があり、形状に陽性と陰性
がある。動物には活発に行動する時と、そうでない時がある。植物には成長する時と枯
れる時があり、花が咲く時と散る時があり、幹は上に向かい、根は地中に向かっている。
そして鉱物においては、物理化学的作用性が活発に進行する時と、そうでない時がある。
これらがそれぞれ性相面における陽性と陰性である。形状面にも陽性と陰性の現象が
現れる。形状の突出部と孔穴部、高と低、表と裏、明と暗、剛と柔、動と静、清と濁、熱さ
と冷たさ、昼と夜、夏と冬、天と地、山と谷などが陽陰の例である。

以上、個性真理体の性相と形状における陽性と陰性について説明した。ところで各個
性真理体において、性相と形状はこのように陽性と陰性を属性としてもっているが、ある
個体は陽性をより多く表し、他の個体は陰性をより多く表している。前者を陽性実体とい
い、後者を陰性実体という。人間における男と女、動物における雄と雌、植物における雄
しべと雌しべ、分子における陽イオンと陰イオン、原子における陽子と電子がその例であ
る。単細胞のバクテリアにも雄と雌があるといわれている(5)。

人間の場合の陽性実体と陰性実体

陽性実体と陰性実体は特に人間において、それぞれ男子と女子を表す概念としてよく
用いられる。それでは人間の場合、陽性実体と陰性実体とは具体的にいかなるものであ
ろうか。それに関してはすでに原相論において詳しく説明したが、ここで再びその要点を
述べる。

形状(身体)において、男と女の陽陰の差異は明らかであって、それは量的差異である。
すなわち男の身体は女の身体に比べて陽的な要素がより多く、女の身体は男の身体に
比べて陰的な要素がより多いのである。それに対して性相(知情意の心)における男女
間の差異は質的な差異である。

すでに説明したように、男女共に、知にも情にも意にも陽陰があるが、それぞれの陽陰
には男女間で質的な差異があるのである。例えば陽的な知の陽である明晰の場合、男
女共に明晰さをもっているが、男女で明晰さの質が異なるのである。男の明晰さは包括
的な場合が多く、女のそれは分析的または縮小指向的な場合が多い。また陰的な情で
ある悲しみの場合、男の悲しみは悲痛(激しい悲しみ)の傾向があり、女の悲しみは悲哀
(繊細な悲しみ)の場合が多い。そして陽的な意である積極性の場合、男の積極性は硬
い感触を与え、女の積極性は軟い感触を与えるのである。性相におけるこのような男女
間の差異が質的差異である。

理解の便宣上、声楽の例を挙げてみよう。声楽において、男のテノールと女のソプラノ
は共に高音(陽)であるが、それらは互いに質的に異なっている。また男のバスと女のア
ルトは共に低音(陰)であるが、それらも互いに質的に異なっているのである。男と女にお
ける、性相の属性である陽性と陰性には、そのように質的に差があるのである。そのた
めに男には男らしさが現れ、女には女らしさが現れるのである。

次に、宇宙の創造の過程において、いかに陽陰の作用が働いてきたかを見てみよう。
神の創造は、陽陰の調和を活用した一種の壮大な芸術作品の創作に比喩することがで
きる。すなわち調和という面から見るとき、神は「天地創造」という一つの壮大な交響曲を
演奏してきたと見ることができるのである。神は大爆発(ビッグバン)より始めて(6)、銀河
系を造り、太陽系を造り、地球を造られた。そして地球上において、植物、動物を造り、最
後に人間を造られた。そのとき、交響曲の演奏において、音の高低、強弱、長短、陽的な
楽器と陰的な楽器の演奏など、いろいろな陽陰が調和して作用しているのと同様に、宇
宙創造の過程においても、無数の陽陰の調和が作用してきたと見るのである。

銀河系には約二千億の恒星があるが、それらは渦巻き状に配列されている。星の密な
ところが陽であり、まばらなところが陰である。地球には陸と海ができたが、陸が陽で海
が陰である。山と谷、昼と夜、朝と夕、夏と冬なども陽陰の調和である。このように数多く
の陽陰の調和が絡み合うことにより、宇宙が形成され、地球が形成され、生物が発生し、
人間が出現したのである。

人間の活動も陽陰の作用によって行われている。夫婦の調和によって、家庭が維持さ
れる。美術創作においても、線の屈曲、色の明暗、濃淡、量感の大小などの陽陰の調
和が必要である。

このように、宇宙の創造においても、人間社会の活動においても、陽性と陰性の調和が
性相と形状を通じて現れているのである。このような陽陰の調和的な作用は変化や発展
のために、そして美を表すために、なくてはならない要素である。ここに神が陽性と陰性
を性相と形状の属性としたのは、陽性と陰性を通して調和と美を表すためであるという結
論になるのである。

(三) 個性真理体の個別相

個性真理体は性相と形状、および陽性と陰性の普遍相のほかに、個体ごとに独特な属
性をもっている。それが個性真理体の個別相であって、原相の個別相(原個別相)に由
来しているのはもちろんである。

普遍相の個別化

個別相は普遍相と別個の属性でなく、普遍相それ自体が特殊化、個別化されたもので
ある。すなわち普遍相は性相と形状、陽性と陰性であるが、これらの属性が個体ごとに
異なって現れるのが、まさに個別相なのである。
人間の場合、個人ごとに性格(性相)が違い、体格や容貌(形状)が異なっている。また
性相の陽陰や形状の陽陰も個人ごとに異なっている。例えば同じ喜び(情の陽)であって
も、人によってその表現方法がそれぞれ異なっており、悲しみ(情の陰)においても同様
である。鼻は体の陽的な部分であるが、鼻の高さと形は人によってそれぞれ異なってい
る。体の陰的な部分である耳の穴を見ても、その大きさとか形はやはり人によって異なっ
ているのである。このように個別相は、普遍相それ自体が個別化されたものである。

種差と個別相

一定の事物が共通にもつ性質を徴表(Merkmal)といい、同一の類概念に属する種概
念のうちで、ある種概念に現れる特有の徴表を種差(specific difference)という。例えば
「人」は「犬」や「猫」と同じように「動物」という類概念に属する種概念であるが、「人」とい
う種概念に独特な徴表である「理性的」というのが人間の種差である。(統一思想から見
るとき、徴表や種差も、共に普遍相の特殊化であることはもちろんである。)したがって、
ある生物の徴表は、いろいろな段階の種差が合わさったものとなっているのである。

例えば一人の人間を考えてみよう。人間は生物でありながら、植物ではない動物の徴
表すなわち種差をもっている。また動物として、無脊椎動物ではない脊椎動物の種差を
もっている。また脊椎動物として、魚類や爬虫類ではない哺乳類の種差をもっている。ま
た哺乳類として、食肉類や齧歯類ではない霊長類の種差をもっている。また霊長類とし
て、テナガザルなどではないヒト科(Homonidae)の種差をもっている。またヒト科として、
いわゆる猿人ではないヒト属(Homo)としての種差をもっている。またヒト属として、いわ
ゆる原人ではないホモ・サピエンスの種差(理性的であるということ)をもっている。

このように人間の徴表にはおよそ、界(Kingdom)、門(phylum)、綱(class)、目(order)、
科(family)、属(genus)、種(species)の七段階の種差が含まれている。そしてこのような
七段階の種差の基盤のうえに、個人の特性すなわち個別相が立てられているのである。
すなわち七段階の種差を土台とする個人の特性が人間の個別相である。

ところで人間における七段階の種差は、生物学者たちが便宜的にそのように分けただ
けであって、神はそのように、いろいろな種差を重ねながら人間を造られたのではない。
『原理講論』に「神は人間を創造する前に、未来において創造される人間の性相と形状と
を形象的に展開して、万物世界を創造された」(六七頁)とあるように、神は天宙の創造
に際して、一番最後に造るべき人間を、心の中で一番初めに構想されたのである。

神は一番最初に構想した人間を標準として、動物、植物、鉱物の順で考えられたので
ある。すなわち構想した人間を標本として、動物を考え、次に植物を、その次に鉱物を考
えられたのである。そのように、構想においては、人間、動物、植物、鉱物(天体)という
順序で、下向式に考えられた。ところが実際に被造世界を造る順序はその逆であった。
すなわち鉱物(天体)、植物、動物、人間の順序で、上向式に造られたのである。

神は人間の構想に際して、いくつかの種差を重ねながら構想されたのではない。一度
にすべての属性(性相と形状、陽性と陰性)をもった人間を構想されたのである。しかも
抽象的な人間ではなくて、具体的な個別相をもった人間、アダムとエバを心に描かれた
のである。次に人間から一定の性質と要素を省略し、変形しながら、いろいろな動物を考
えられた。次に動物の一定の性質と要素を省略し、変形しながら、いろいろな植物を構想
された。また植物の一定の性質と要素を省略し、変形しながら、いろいろな天体と鉱物を
構想された。そのような下向式の構想における一段階の構想、例えば動物の段階の構
想においても、高級なものから始まって、そこから一定の性質と要素を省略または変形し
ながら、次第に低級な動物を構想されたのである(植物においても同様である)。したが
って創造の結果だけを見れば、人間において、いろいろな段階の動物の種差が重なって
いるように見えるのである。

ここで留意すべきことは、分子、原子、素粒子など微視世界において、個体の個別相は、
その個体が属する種類の種差(特性)と同一であるということである。例えば水の分子は、
どんな分子であれ、同じ形態と化学的性質をもっている。原子においても同じであり、素
粒子においても同じである。すなわち微視世界においては種差と個別相が一致すると見
るのである。原子や素粒子はより高い次元の個体の構成要素になっているからである。
鉱物の場合も同じである。鉱物からできている山河や宇宙の無数の天体にはそれぞれ
に個別相があるが、構成要素としての鉱物それ自体は、やはり種差がそのまま個別相と
なっているのである。

これは植物や動物においても同じである。すなわち種類の特性がそのまま個別相とな
るのである。例えば木槿の特性はそのまま、すべての木槿の個別相となり、一定の種類
の鶏の特性は、そのまま同種のすべての鶏の個別相となる。そのように人間においては、
個人ごとに個別相が異なるが、人間以外の万物は種類によって個別相が異なるのであ
る。

個別相と環境

人間において、個別相とは個体が生まれつきもっている特性であるが、個別相にも環
境によって変わる側面がある。それは原相がそうであったように、すべての個体は、存在
または運動において、自己同一性と発展性(変化性)の両面を同時に現すからである。
言い換えれば、人間は不変性(自己同一性)と可変性(発展性)の統一的存在として存在
し、成長するのである。その中で不変的な側面が本質的であって、変化する側面は二次
的なものである。個別相を遺伝学から見れば、遺伝形質に該当するということができる。

この個別相が個体の成長過程において、環境との不断の授受作用を通じて部分的に変
化していくのである。個別相のうち、このように変化する部分、または変化した部分を個
別変相という。この個別相の可変的な部分は、遺伝学上の獲得形質に相当するといえる。
ソ連のルイセンコ(T.D. Lysenko, 1898-1976)は、春化処理(低温処理)によって、秋蒔
き小麦を春蒔き小麦に変える実験を通じて、環境によって生物の特性が変化すると主張
した。そして不変的な形質が遺伝子によって子孫に伝えられるとするメンデル・モルガン
の遺伝子説を形而上学として否定した。生物の本来的な不変性を否定し、環境によって
変化する面だけを強調したのである。このルイセンコの説は、スターリン( J.V. Stalin,
1879-1953)によって認められ、高く評価されて、それまでのメンデル・モルガン派の学者
たちは反動として追放されるまでに至った。

しかし、やがてルイセンコ学説の誤りが外国の学者たちの研究によって確認され、メン
デル・モルガンの学説の正当性が再び認められることになった。結局、ルイセンコ主義は
唯物弁証法を合理化するための御用学説であることが暴露されたのである。こうした事
実から見ても、万物は不変性と可変性の統一的存在であることを確認することができる
のである。

個別相に関連して、環境が人間を規定するかという問題がある。共産主義は、人間の
性格は環境によって規定されると主張しており、例えばレーニン(V.I. Lenin, 1870-1924)
の革命家的人物としての指導能力は当時のロシアの状況から生まれた産物であるとい
う。しかしながら統一思想から見るとき、人間はあくまでも環境に対して主体であり、主管
主である。すなわち生まれつき突出した個性と能力をもった人間が、一定の環境条件が
成熟したとき、その環境を収拾するために指導者(主体)として現れると見るのである。し
たがってロシア革命の場合、レーニンは本来、突出した能力の持ち主として生まれ、国の
内外の条件が成熟した時に、持って生まれた能力を発揮して、環境を収拾しながらロシ
アを共産主義革命へと率いていったと見るべきである。

これを個別相という概念で表現すれば、環境は人間の個別相における可変的な部分に
影響を与えるだけで、個別相全体が環境によって規定されるのではないのである。