1原相論 神相 性相と形状

2020年6月28日
(1) 性相と形状

神は性相と形状の二性性相をその属性としてもっているが、被造物の性相と形状と区別するために、神の性相と形状を本性相と本形状ともいう。神と万物の関係は創造主と被造物の関係であるが、この関係を原因と結果の関係とも見ることができる。したがって、本性相は被造物の無形的、機能的な側面の根本原因であり、本形状は被造物の有形的、質料的な側面の根本原因である。

神と人間との関係は父子の関係であり、相似の創造によって互いに似ているために、本性相は人間の心に相当し、本形状は人間の体に相当する。ところで、この両者は分離されている別々の属性ではなくて、互いに相対的および相補的な関係で中和(調和)をなして、一つに統一されている。『原理講論』に「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体である」(四六頁)とあるのは、そのことを意味するのである。したがって正確にいえば、神相は本性相と本形状が中和をなした状態なのである。

本体論の観点から見るとき、このような神相観は唯心論でも唯物論でもなく、唯一論または統一論である。なぜなら唯心論は本性相だけが宇宙の根本と見る立場に相当し、唯物論は本形状だけが宇宙の根本と見る立場に相当するからである。次に、性相と形状のそれぞれの内容について詳細に説明することにする。

1 性相(本性相)

本性相と被造物

神の性相は人間に例えると心に相当し(したがって性相は神の心である)、それがすべての被造物の無形的、機能的な側面の根本原因となっている。すなわち人間の心、動物の本能、植物の生命、鉱物の物理化学的作用性の根本原因である。言い換えれば、神の性相が次元を異にしながら、時間、空間の世界に展開したのが鉱物の物理化学的作用性、植物の生命、動物の本能、人間の心なのである。創造が相似の創造であるからである。

したがってこれは、たとえ極めて低い次元であるとしても、鉱物のような無機物においても神の性相が宿っていることを意味し、植物においては、神の性相が生命の形態でより高い心的機能として現れ(最近、植物にも人間の心に反応する心的作用があることが実験を通じて知られている)、動物の段階においては、肉心(本能)の形態でさらに高い心的機能として現れることを意味する。最近の学者たちの研究によれば、動物にも人間の場合と同様に知情意の機能、すなわち意識があることが明らかにされている(ただし動物が人間と違うのは、動物には人間のような自我意識がないということである)。

本性相の内部構造

神の性相はさらに内的性相と内的形状という二つの部分からなっている。内的性相は機能的部分すなわち主体的部分をいい、内的形状は対象的部分をいう。次に神の内的性相と内的形状を理解しやすくするために、人間の場合を例にして説明する(人間の心は神の心と似ているからである)。

内的性相

内的性相すなわち機能的部分とは知情意の機能をいう。知的機能は認識の能力であって、感性、悟性、理性の機能をいう。情的機能は情感性、すなわち喜怒哀楽などの感情を感ずる能力をいう。意的機能は意欲性、すなわち欲求や決心、決断する能力をいう。このような機能は内的形状に能動的に作用するから、内的性相は内的形状に対して主体的部分となっている。知的機能における感性とは、五官に映るままに知る能力、直感的に認識する能力を意味し、悟性とは、論理的に原因や理由を問いながら知る能力であり、理性とは、普遍的真理を求める能力、または概念化の能力をいう。

この三つの機能をニュートンが万有引力を発見する過程を例に取って説明すれば次のようになる。万有引力の発見に際して、ニュートンは初めにリンゴが落下する事実をそのまま認識し、次にリンゴが落下する原因を考えて大地とリンゴが互いに引き合っていることを理解し、さらにその後、いろいろな実験や観察などの研究を通じて、地球とリンゴだけでなく、宇宙内の質量をもっているすべての物体が互いに引き合っていることを知るようになったのである。このとき、初めの段階の認識が感性的認識であり、第二の段階の認識が悟性的認識であり、第三の段階の認識が理性的認識すなわち普遍的認識なのである。

内的形状

内的形状は本性相内の対象的部分をいうが、それはいくつかの形の要素から成り立っている。そのうち重要なものは観念、概念、原則、数理である。

① 観 念
観念は性相の中にある被造物一つ一つの具体的な表象、すなわち映像をいう。人間は経験を通じて客観世界の事物一つ一つの具体的な姿を心の中に映像としてもっているが、その映像がまさに観念である。人間の場合は経験を通じて観念を得るが、神は絶対者であるために本来から無数の観念をもっていたと見るのである。

② 概 念
概念は抽象的な映像、すなわち一群の観念に共通的に含まれた要素を映像化したものをいう。例えば犬、鶏、牛、馬、豚などの観念において、共通の要素は「感覚をもって運動する性質」であるが、これを映像化させれば「動物」という抽象的な形を得るようになる。それが概念である。概念には種概念と類概念がある。

③ 原 則
原則は被造世界の自然法則および規範(価値法則)の根本原因となる法則であって、数多くの自然法則と規範は、この原則がそれぞれの自然現象と人間生活を通じて現れる表現形態なのである。あたかも植物において、一粒の種が発芽して幹と枝が伸び、数多くの葉が繁るように、一つの原則から数多くの法則(自然法則と規範)が現れるようになったと見るのである。

④ 数 理
数理は数的原理という意味であって、自然界の数的現象の究極的原因をいう。すなわち内的形状の中には数的現象の根源となる無数の数、数値、計算法などが観念として含まれているのであり、それが数理である。ピタゴラス(Pythagoras, ca.570-496 B.C.)が「万物の根本は数である」というときの数の概念、また量子力学の大成に貢献したイギリスの物理学者のディラック(P. Dirac, 1902-1984 )が「神は高度の数学者であり、宇宙を構成する時、極めて高級な数学を使用した」というときの数の概念は、すべて内的形状の数理に該当するということができる。

内的形状の原理的および聖書的根拠
次は以上の内的形状に関する理論が、統一原理および聖書のどこにその根拠があるかを明らかにする。

① 内的形状
「内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。そこで、前者を性相といい、後者を形状と名づける」(『原理講論』四四頁)。これは目に見える形より前に、性相の中に、すでに形があることを意味するものであり、その性相の中の形がまさに内的形状である。

② 観念と概念
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記一・二七)。神は六日間で万物を創造されたが、一日の創造を終えるとき、「そのようになった」(創世記一・七、九、一一)、「見て、良しとされた」(創世記一・四、一〇、一二、一八、二一、二五)と言われたが、これは、心の中にもっていた観念や概念のとおりに、被造物が造られたことを意味する。

③ 原則(原理)
「(神は)原理によって被造世界を創造され、その原則に従って摂理を行い給う」(『原理講論』一三二頁)、「神は原理の主管者としていまし給い」(同上、七九頁)、「神は原理によって創造された人間を、愛で主管しなければならない」(同上、一一三頁)などに見られるように、神は原則(原理)を立てたのち、人間と万物を創造されたのである。

④ 数 理
「被造世界は神の本性相と本形状とが数理的な原則によって、実体的に展開されたものである」(同上、七七頁)、「神は数理性をもっておられる」(同上、七七頁)、「神は数理的にも存在し給う方である」(同上、四四四頁)などに見られるように、神は被造世界を数理的に創造されたのである。このように内的形状を成している形の要素は、みな統一原理(『原理講論』)と聖書にその根拠があることが分かる。

以上は神の本性相内の機能的部分(内的性相)と対象的部分(内的形状)を人間の心に例えながら説明したものである。本性相をこのように詳細に扱うのは、現実問題の解決のためである。例えば内的性相である知情意の機能が心情を中心として作用するとき、愛を基礎とした真美善の価値観が成立するようになる。知情意に対応する価値が真美善である。そして内的形状は知情意の対象的部分であると同時に、本形状とともに、被造物の有形的部分の根本原因になっている。この事実から、現実生活においては、衣食住の物質的生活よりも真美善の価値の生活を優先しなければならないという論理が導かれるのである。

2 形状(本形状)

次は神の形状(本形状)について説明することにする。

本形状と被造物

神の形状(本形状)を人間に例えれば体に相当するものであり、それはすべての被造物の有形的な要素(側面)の根本原因である。すなわち人間の体、動物の体、植物の細胞・組織、鉱物の原子・分子などの究極的原因なのである。言い換えれば、神の本形状が次元を異にしながら、時間・空間の世界に展開されたものが鉱物の原子・分子であり、植物の細胞・組織であり、動物の体であり、人間の体なのである。これもまた相似の創造によるものである。

このように被造物の有形的要素の根本原因が神の形状であるが、この被造物の有形的要素の根本原因には二つの側面がある。一つは素材(質料)的要素であり、もう一つは無限の形態を取ることのできる可能性(無限応形性)である(万物の形態自体の根本原因は内的形状にある)。

ここで「無限な形態を取ることのできる可能性」(無限応形性)を水の場合を例に取って比喩的に説明する。水自体は他の万物と違って一定の形態がない。しかし容器によっていろいろな形態を現す。三角形の容器では三角形として、四角形の容器では四角形として、円形の容器では円形として現れる。このように水が無形なのは、実はいかなる容器の形態にも応ずる無限な応形性をもっているからである。すなわち水が無形なのは実は無限形であるためである。同様に、神の本形状も、それ自体は一定の形態がないが、いかなる形態の映像にも応ずることのできる応形性、すなわち無限応形性をもっているのである。このように被造物の有形的要素の根本原因には素材的要素と無限応形性の二つがあるが、この二つがまさに神の形状の内容である。

人間の創作活動は、心が構想した型に一致するように可視的な素材(彫刻の場合、石膏または大理石)を変形させる作業であると見ることができる。言い換えれば、創作とは、構想の型に素材を一致させる作業であるということができる。神の創造の場合もこれと同じであるといえる。すなわち、本性相内の内的形状の型または鋳型に無限応形性をもった素材的要素を与えて、一定の具体的な形態を備えさせる作業を創造ということができるのである。

本形状と科学

被造物の有形的側面の根本原因である素材的要素とは、要するに科学の対象である物質の根本原因であるが、素材的要素と科学はいかなる関係にあるのであろうか。

今日の科学は、物質の根本原因は素粒子の前段階としてのエネルギー(物理的エネルギー)であり、そのエネルギーは粒子性と波動性を帯びていると見ている。しかし科学は結果の世界、現象の世界だけを研究の対象としているために、それは究極的な第一原因ではありえない。本原相論は、その究極的原因をまさに本形状であると見るのである。したがって本形状とは、科学的に表現すればエネルギーの前段階であって、それは「前段階エネルギー」(Prior-stage Energy)、または簡単に「前エネルギー」(Pre-Energy)ということができるであろう。

本形状と力

神の創造において、本形状である前エネルギーから授受作用(後述)によって、二つの力(エネルギー)が発生すると見る。その一つは「形成エネルギー」(Forming Energy)であり、他の一つは「作用エネルギー」(Acting Energy)である。

形成エネルギーは直ちに粒子化して物質的素材となり、万物を形成するのであるが、作用エネルギーは、万物に作用して、万物相互間に授け受ける力(例:求心力と遠心力)を引き起こす。その力を統一思想では原力(Prime Force)と呼ぶ。そして原力が万物を通じて作用力として現れるとき、その作用力を万有原力(Universal Prime Force)と呼ぶのである。

本形状から授受作用によって形成エネルギーおよび作用エネルギーが発生するとき、愛の根源である心情が授受作用の土台となるために、発生する二つのエネルギーは単純な物理的なエネルギーではなく、物理的エネルギーと愛の力との複合物なのである。したがって原力にも万有原力にも、愛の力が含まれているのである(文先生は一九七四年五月の「希望の日晩餐会」での講演以後、しばしば「万有原力にも愛の力が作用する」と語っておられる。)

性相と形状の異同性

次は、性相と形状が本質的に同質的なのか異質的なのかという、性相と形状の異同性について調べてみることにする。先に述べた「性相と形状の二性性相論」は、一般哲学上の本体論から見るとき、いかなる立場になるのであろうか。すなわち「性相と形状の二性性相論」は、一元論なのか二元論なのか、唯物論なのか唯心論(観念論)なのか。

ここで一元論とは、宇宙の始元が物質であると主張する一元論的唯物論か、宇宙の始元が精神であると主張する一元論的唯心論(観念論)をいう。マルクスの唯物論は前者に属し、ヘーゲルの観念論は後者に属する。そして二元論とは物質と精神がそれぞれ別個のものでありながら宇宙生成の根源になっていると見る立場である。思惟(精神)と延長(物質)の二つの実体を認めるデカルトの物心二元論がその例である。

それでは統一思想の「性相と形状の二性性相論」は一元論なのだろうか、二元論なのだろうか。すなわち原相の性相と形状は本来、同質的なものだろうか、異質的なものだろうか。ここで、もしそれらが全く異質的なものだとすれば、神は二元論的存在となってしまう。

この問題を理解するためには、本性相と本形状は異質的な二つの要素か、あるいは同質的な要素の二つの表現態なのかを調べてみればよい。結論から言えば、本性相と本形状は同質的な要素の二つの表現態なのである。

これはあたかも水蒸気と氷が、水(H2O)の二つの表現態であるのと同じである。水において、水分子の引力と斥力が釣り合っているが、熱を加えて斥力が優勢になれば気化して水蒸気となり、気温が氷点下に下がって、引力が優勢になれば氷となる。水蒸気や氷はいずれも水の表現態、すなわち水分子の引力と斥力の相互関係の表現様式にすぎないのである。したがって両者は全く異質的なものではない。

同様に、神の性相と形状も、神の絶対属性すなわち同質的要素の二つの表現態なのである。絶対属性とは、エネルギー的な心、あるいは心的なエネルギーのことである。つまりエネルギーと心は全く別のものでなくて、本来は一つになっている。この絶対属性が創造において分かれたのが、神の心としての性相と、神の体としての形状なのである。

性相は心的要素から成っているが、そこにはエネルギー的要素も備わっている。ただ心的要素がエネルギー的要素より多いだけである。また形状はエネルギー的要素から成っているが、そこには心的要素も備わっていて、エネルギー的要素が心的要素より多いだけである。そのように性相と形状は全く異質的なものではない。両者はいずれも、共通に心的要素とエネルギー的要素をもっているのである。

被造世界において、性相と形状は精神と物質として、互いに異質的なものとして現れるが、そこにも共通の要素がある。例えば心にもエネルギーがあるが、そのことを示す例として次のようなものがある。カエルなどから採取した、神経のついている骨格筋(神経筋標本)において、神経に電気的刺激を与えると筋肉は収縮する。一方われわれは、心によって手や足の筋肉を動かす。すなわち心が神経を刺激し筋肉を動かしている。これは、心にも物質的なエネルギー(電気エネルギー)と同様のエネルギーがあるということを意味している。催眠術で他人の体を動かすことができるということも、心にエネルギーがあることを示している。

一方、エネルギー自体にも性相的要素が宿っているといえる。最近の科学によれば、物質的真空状態において、エネルギーが振動して素粒子が形成されるが、そのときエネルギーの振動は連続的ではなく、段階的である。ちょうど音楽において音階があるように、エネルギーが段階的に振動し、その結果、段階的に規格の異なる素粒子が現れるというのである。これは、あたかも音階が人間の心によって定められたように、エネルギーの背後にも性相があって、振動の段階を定めていると見ざるをえないのである。

そのように性相の中にも形状的要素があり、形状の中にも性相的要素があるのである。したがって、原相において性相と形状は一つに統一されているのである。本質的に同一な絶対属性から性相と形状の差異が生じ、創造を通じてその属性が被造世界に現れるとき、異質な二つの要素となるのである。これを比喩的に表現すれば、一つの点から二つの方向に二つの直線が引けるのと同じである。そのとき、一つの直線は性相(精神)に対応し、他の直線は形状(物質)に対応するのである(図1—1)。

聖書には、被造物を通じて神の性質を知ることができると記録されている(ローマ一・二〇)。被造物を見れば、心と体、本能と肉身、生命と細胞・組織などの両面性があるから、絶対原因者である神の属性にも両面性があると帰納法的に見ることができる。これを「神の二性性相」と呼ぶ。しかしすでに述べたように、神において二性性相は、実は一つに統一されているのである。この事実を『原理講論』では、「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体である」と表現している。このような観点を本体論から見るとき、「統一論」となる。そして神の絶対属性それ自体を表現するとき、「唯一論」となるのである。

アリストテレス(Aristotelēs, 384-322 B.C.)によれば、実体は形相(eidos)と質料(hylē)から成っている。形相とは実体をしてまさにそのようにせしめている本質をいい、質料は実体を成している素材をいう。西洋哲学の基本的な概念となったアリストテレスの形相と質料は統一思想の性相と形状に相当する。しかしそこには、次のような点で根本的な差異がある。

アリストテレスによれば、形相と質料を究極にまでさかのぼると純粋形相(第一形相)と第一質料に達する。ここで純粋形相が神であるが、それは質料のない純粋な活動であり、思惟それ自体であるとされる。すなわちアリストテレスにおいて、神は純粋な思惟、または思惟の思惟(ノエシス・ノエセオース)であった。ところで、第一質料は神から完全に独立していた。したがって、アリストテレスの本体論は二元論であった。また第一質料を神から独立したものと見ている点で、その本体論は、神をすべての存在の創造主と見るキリスト教の神観とも異なっていた。

トマス・アクィナス(T. Aquinas, 1225-1274)はアリストテレスに従って、同様に純粋形相または思惟の思惟を神と見た。また彼はアウグスティヌス(A. Augustinus, 354-430)と同様に、神は無から世界を創造したと主張した。神は質料を含む一切の創造主であり、神には質料的要素がないために、「無からの創造」(creatio ex nihilo)を主張せざるをえなかったのである。しかし無から物質が生じるという教義は、宇宙がエネルギーによって造られていると見る現代科学の立場からは受け入れがたい主張である。

デカルト(R.Descartes, 1596-1650)は、神と精神と物体(物質)を三つの実体と見た。究極的には神が唯一なる実体であるが、被造世界における精神と物体は神に依存しながらも相互に完全に独立している実体であるとして二元論を主張した。その結果、精神と物体はいかにして相互作用をするのか、説明が困難になった。デカルトの二元論を受け継いだゲーリンクス(A. Geulincx, 1624-1669)は、互いに独立した異質的な精神と身体の間に、いかにして相互作用が可能なのかという問題を解決するために、神が両者の間を媒介すると説明した。つまり精神や身体の一方において起きる運動を契機として、神が他方において、それに対応する運動を起こすというのであり、これを機会原因論(8)(occasionalism)と呼ぶ。しかしこれは方便的な説明にすぎないのであり、今日では誰も目をくれないものである。すなわち精神と物質を完全に異質的な存在と見たデカルトの観点に問題があったのである。

このように西洋思想がとらえた形相と質料、または精神と物質の概念には、説明の困難な問題があったのである。このような難点を解決したのが統一思想の性相と形状の概念、すなわち「本性相と本形状は同一なる本質的要素の二つの表現態である」という理論である。以上で、神相の「性相と形状」に関する説明を終える。次は、もう一つの神相である「陽性と陰性」に関して説明する。