1原相論 神性 心情

(1) 心 情

心情とは何か

心情は神の性相の最も核心となる部分であって、「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」である。心情のそのような概念を正しく理解する助けとなるように、人間の場合を例として説明する。

人間は誰でも生まれながらにして喜びを追求する。喜ぼうとしない人は一人もいないであろう。人間は誰でも幸福を求めているが、それがまさにその証拠である。そのように人間はいつも、喜びを得ようとする衝動、喜びたいという衝動をもって生きている。それにもかかわらず、今日まで大部分の人々が真の喜び、永遠の喜びを得ることができないでいることもまた事実である。

それは人間がたいてい、金銭や権力、地位や学識の中に喜びを探そうとするからである。それでは真の喜び、永遠な喜びはいかにして得られるであろうか、それは愛(真の愛)の生活を通じてのみ得られるのである。愛の生活とは、他人のために生きる愛他的な奉仕生活、すなわち他人に温情を施して喜ばせようとする生活をいう。

心情は情的衝動である

ここで「情的な衝動」について説明する。情的な衝動とは内部からわきあがる抑えがたい願望または欲望を意味する。普通の願望や欲望は意志で抑えることができるが、情的な衝動は人間の意志では抑えられないのである。

われわれは喜ぼうとする衝動(欲望)が抑えがたいということを、日常の体験を通じてよく知っている。人間が金をもうけよう、地位を得よう、学識を広めよう、権力を得ようとするのも喜ぼうとする衝動のためであり、子供たちが何事にも好奇心をもって熱心に学ぼうとするのも喜ぼうとする衝動のためであり、甚だしくは犯罪行為までも、方向が間違っているだけで、その動機はやはり喜ぼうとする衝動にあるのである。

そのように喜ぼうとする衝動(欲望)は抑えがたいものである。欲望は達成されてこそ満たされる。しかるに大部分の人間にとって、喜ぼうとする欲望が満たされないでいるのは、喜びは愛を通じてしか得られないということが分かっていないからである。そして喜びが愛を通じてしか得られないのは、その喜びの根拠が神にあるからである。

神は心情である

神は心情すなわち愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動をもっているが、そのような神の衝動は人間の衝動とは比較にもならないほど抑えがたいものであった。人間は相似の法則に従って、そのような神の心情を受け継いだので、たとえ堕落して愛を喪失したとしても、喜ぼうとする衝動はそのまま残っている。ゆえに、情的な衝動を抑えることは難しいのである。

ところで神において、喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする衝動によって支えられている。真の喜びは真の愛を通じなければ得られないからである。したがって、愛そうとする衝動は喜ぼうとする衝動よりも強いのである。愛の衝動は愛さずにはいられない欲望を意味する。そして愛さずにはいられないということは、愛の対象をもたずにはいられないことを意味する。

そのような愛の衝動によって喜ぼうとする衝動が触発される。したがって愛の衝動が一次的なものであり、喜びの衝動は二次的なものである。ゆえに愛は決して喜びのための手段ではなく、ただ無条件的な衝動なのである。そして愛の必然的な結果が喜びである。したがって愛と喜びは表裏の関係にあり、喜ぼうとする衝動も実は愛そうとする衝動が表面化したものにすぎない。

ゆえに神の心情は、「限りなく愛そうとする情的な衝動」であるとも表現することができる。愛には必ず対象が必要である。特に神の愛は抑えられない衝動であるから、その愛の対象が絶対的に必要であった。したがって創造は必然的、不可避的であり、決して偶発的なものではなかった。

宇宙創造と心情

そのように心情が動機となり、神は愛の対象として人間と万物を創造されたのである。人間は神の直接的な愛の対象として、万物は神の間接的な愛の対象として創造された。万物が神の間接的な対象であるということは、直接的には万物は人間の愛の対象であることを意味する。そして創造の動機から見るとき、人間と万物は神の愛の対象であるが、結果から見るとき、人間と万物は神の喜びの対象なのである。

このように心情を動機とする宇宙創造の理論(心情動機説)は創造説が正しいか生成説が正しいかという一つの現実問題を解決することになる。すなわち、宇宙の発生に関する従来の創造説と生成説の論争に終止符を打つ結果になるのである。そして生成説(プロティノスの流出説、ヘーゲルの絶対精神の自己展開説、ガモフのビッグバン説、儒教の天生万物説など)では、現実の罪悪や混乱などの否定的側面までも自然発生によるものとされて、その解決の道がふさがれているが、正しい創造説では、そのような否定的側面を根本的に除去することができるのである。

心情と文化

次に、「心情は神の性相の核心である」という命題から心情と文化の関係について説明する。神の性相は内的性相と内的形状から成っているが、内的性相は内的形状より内的である。そして心情は内的性相よりさらに内的である。このような関係は、創造本然の人間の性相においても同じである。それを図で表せば、図1—3のようになる。

これは心情が人間の知的活動、情的活動、意的活動の原動力となることを意味する。すなわち心情は情的な衝動力であり、その衝動力が知的機能、情的機能、意的機能を絶えず刺激することによって現れる活動がまさに知的活動、情的活動、意的活動なのである。

人間の知的活動によって、哲学、科学をはじめとする様々な学問分野が発達するようになり、情的活動によって、絵画、音楽、彫刻、建築などの芸術分野が発達するようになり、意的活動によって、宗教、倫理、道徳、教育などの規範分野が発達するようになる。

創造本然の人間によって構成される社会においては、知情意の活動の原動力が心情であり愛であるゆえに、学問も芸術も規範も、すべて心情が動機となり、愛の実現がその目標となる9。ところで学問分野、芸術分野、規範分野の総和、すなわち人間の知情意の活動の成果の総和が文化である。したがって創造本然の文化は心情を動機とし、愛の実現を目標として成立するのであり、そのような文化は永遠に続くようになる。そのような文化を統一思想では心情文化、愛の文化、または中和文化と呼ぶ。

しかしながら人間始祖の堕落によって、人類の文化は様々な否定的な側面をもつ非原理的な文化となり、興亡を繰り返しながら今日に至った。これは人間の性相の核心である心情が利己心によって遮られ、心情の衝動力が利己心のための衝動力になってしまったからである。

そのように混乱を重ねる今日の文化を正す道は、利己心を追放し、性相の核心の位置に心情の衝動力を再び活性化させることによって、すべての文化の領域を心情を動機として、愛の実現を目標とするように転換させることである。すなわち心情文化、愛の文化を創建することである。このことは「心情は神の性相の核心である」という命題が、今日の危機から文化をいかに救うかというまた一つの現実問題解決の基準になることを意味するのである。

心情と原力

最後に心情と原力について説明する。宇宙万物はいったん創造されたのちにも、絶えず神から一定の力を受けている。被造物はこの力を受けて個体間においても力を授受している。前者は縦的な力であり、後者は横的な力である。統一思想では前者を原力といい、後者を万有原力という。

ところでこの原力も、実は原相内の授受作用、すなわち性相と形状の授受作用によって形成された新生体である。具体的にいえば、性相内の心情の衝動力と形状内の前エネルギー(Pre-Energy)との授受作用によって形成された新しい力が原力(Prime Force)である。その力が、万物に作用して、横的な万有原力(Universal Prime Force)として現れて、万物相互間の授受作用を起こすのである。したがって万有原力は神の原力の延長なのである。

万有原力が心情の衝動力と前エネルギーによって形成された原力の延長であるということは、宇宙内の万物相互間には、物理学的な力のみならず愛の力も作用していることを意味する(12)。したがって人間が互いに愛し合うのは、そうしても、しなくても良いというような、恣意的なものではなく、人間ならば誰でも従わなくてはならない天道なのである。

このように「心情と原力の関係」に関する理論も、また一つの現実問題の解決の基準となることが分かる。すなわち「人間は必ず他人を愛する必要があるのか」、「時によっては闘争(暴力)が必要な時もあるのではないか」、「敵を愛すべきか、打ち倒すべきか」というような現実問題に対する解答がこの理論の中にあることが分かる。