1原相論 神性 創造性

(3) 創造性

創造性とは何か

創造性は一般的に「新しいものを作る性質」と定義されている。統一原理において、創造性を一般的な意味にも解釈しているが、それよりは「創造の能力」として理解している。それは『原理講論』において「神の創造の能力」と「神の創造性」を同じ意味で使っているのを見ても知ることができる(七九頁)。

ところで、神の創造性をそのように創造の性質とか創造の能力として理解するだけでは正確な理解となりえない。すでに明らかにしたように、神の属性を理解する目的は現実問題を根本的に解決することにある。したがって、神に関するすべての理解は正確で具体的でなくてはならない。創造性に関しても同じである。したがって創造に関する常識的な理解だけでは神の創造性を正確に把握するのは困難である。ここに神の創造の特性、または要件が明らかにされる必要があるのである。

神の創造は偶発的なものではなく、自然発生的なものではさらにない。それは抑えることのできない必然的な動機によってなされたのであり、明白な合目的的な意図によってなされたのであった。そのような創造がいわゆる「心情を動機とした創造」(心情動機説)である。

創造には、創造目的を中心とした内的および外的な四位基台または授受作用が必ず形成されなければならない。したがって、神の創造性は具体的には「目的を中心とした内的および外的な四位基台形成の能力」と定義される。これを人間の、新しい製品をつくるという創造に例えて説明すれば、内的四位基台形成は、構想すること、新しいアイデアを開発すること、したがって青写真の作成を意味し、外的四位基台形成は、その青写真に従って人間(主体)が機械と原料(対象)を適切に用いて新製品(新生体)を造ることを意味するのである。

神において、内的四位基台の形成は、目的を中心とするロゴスの形成であり、外的四位基台形成は、目的を中心として性相と形状が授受作用をして万物を造ることである。したがって神の創造性はそのような内的および外的四位基台形成の能力であり、言い換えれば「ロゴスの形成に続いて万物を形成する能力」である。神の創造性の概念をこのように詳細に扱うのは、創造に関連したいろいろな現実的な問題(例えば公害問題、軍備制限ないし撤廃問題、科学と芸術の方向性の問題など)の根本的解決の基準を定立するためである。

人間の創造性

次は、人間の創造性に関して説明する。人間にも新しい物を作る能力すなわち創造性がある。これは相似の法則に従って、神の創造性が人間に与えられたものである。ところで人間は元来、相似の法則によって造られたので、人間の創造性は神の創造性に完全に似るように、すなわち神の創造性を引き継ぐようになっていた(『原理講論』七九、一一四、二五九頁)。しかし、堕落によって人間の創造性は神の創造性に不完全に似るようになったのである。

人間の創造性が神の創造性に似るということは、神が創造性を人間に賦与することを意味する(同上、一三一、二五九頁)。それでは、神はなぜ人間に創造性を賦与しようとされたのであろうか。それは人間を「万物世界に対する主管位に立たせて」(同上、一三二頁)、「万物を主管し得る資格を得させるため」(同上、一一四、一三一頁)であった。ここで万物主管とは、万物を貴く思いながら、万物を願うように扱うことをいう。つまり人間が愛の心をもって、いろいろな事物を扱うことを万物主管というが、そこには人間生活のほとんどすべての領域が含まれる。例えば経済、産業、科学、芸術などがすべて万物主管の概念に含まれる。地上の人間は肉身をもって生きるために、ほとんどすべての生活領域において物質を扱っている。したがって人間生活全体が万物主管の生活であるといっても過言ではないのである。

ところで本然の万物主管は、神の創造性を受け継がなくては不可能である。本然の主管とは、愛をもって創意的に事物を扱いながら行う行為、例えば耕作、製作、生産、改造、建設、発明、保管、運送、貯蔵、芸術創作などの行為をいう。そのような経済、産業、科学、芸術などの活動だけでなく、ひいては宗教生活、政治生活までも、それが愛をもって物を扱う限りにおいて、本然の万物主管に含まれる。そのように本然の人間においては、事物を扱うのに、愛とともに新しい創案(構想)が絶えず要求されるために、本然の主管のためには神の創造性が必要になるのである。

人間は堕落しなかったならば、そのような神の創造性に完全に似ることができ、したがって本然の万物主管が可能となったことであろう。ところが人間始祖の堕落によって、人間は本然の姿を失ってしまった。したがって、人間が引き継いだ創造性は不完全なものになり、万物主管も不完全な非原理的なものになってしまった。

ここに次のような疑問が生ずるかもしれない。すなわち「神が相似の法則によって人間を創造したとすれば、人間は生まれる時から本然の創造性をもっていたであろうし、したがって堕落とは関係なく、その創造性は持続されたのではないか。実際、今日、科学技術者たちは立派な創造の能力を発揮しているではないか」という疑問である。

相似の創造

ここで、相似の創造が時空の世界では具体的にどのように現れるかを説明する。神の創造とは、要するに被造物である一つ一つの万物が時空の世界に出現することを意味する。したがって神の構想の段階では、創造が超時間、超空間的になされたとしても、被造物が時空の世界に出現するに際しては、小さな、未熟な、幼い段階から出発して、一定の時間的経路を経ながら一定の大きさまで成長しなければならない。そして一定の大きさの段階にまで完成したのちに、神の構想または属性に完全に似るようになるのである。その時までの期間は未完成段階であり、神の姿に似ていく過程的期間であって、統一原理はこの期間のことを成長期間といい、蘇生期、長成期、完成期の三段階(秩序的三段階)に区分している(『原理講論』七七頁)。

人間はこのような成長過程において、長成期の完成級の段階で堕落したのであった(同上、七八頁)。したがって神の創造性を受け継ぐに際しても、本然の創造性の三分の二程度だけを受け継いだのであり、科学者たちがいくら天才的な創造力を発揮するといっても、本来神が人間に賦与しようとした創造性に比較すれば、はるかに及ばないといわざるをえない。

ところで、被造物の中で堕落したのは人間だけである。万物は堕落しないでみな完成し、それぞれの次元において神の属性に似ているのである。ここで次のような疑問が生ずるであろう。すなわち万物の霊長であるといわれる人間が、なぜ霊長らしくなく堕落したのかという疑問である。それは、万物が原理自体の主管性または自律性だけで成長するようになっているのに対して、人間には、成長において、原理の自律性、主管性のほかに責任分担が要求されたからである。

創造性と責任分担

ここで原理自体の自律性とは有機体の生命力をいい、主管性とは生命力の環境に対する影響力をいう。例えば一本の木が成長するのは、その内部の生命力のためであり、主管性はその木の生命力が周囲に及ぼす影響をいうのである。人間の成長の場合にも、この原理自体の自律性と主管性が作用する。しかし人間においては、肉身だけが自律性と主管性によって成長するのであり、霊人体はそうではない。霊人体の成長には別の次元の条件が要求される。それが責任分担を完遂することである。

ここで明らかにしたいことは、霊人体の成長とは、肉身の場合のように霊人体の身長が大きくなることを意味するのではない。霊人体は肉身に密着しているので、肉身の成長に従って自動的に大きくなるようになってはいるが、ここでいう霊人体の成長とは、霊人体の霊性の成熟のことであり、それは人格の向上、心情基準の向上を意味する。要するに、神の愛を実践しうる心の姿勢の成長が、霊人体の成長なのである。

このような霊人体の成長は、ただ責任分担を完遂することによってのみなされる。ここで責任分担の完遂とは、神に対する信仰を堅持し、戒めを固く守る中で、誰の助けも受けないで、内的外的に加えられる数多くの試練を自らの判断と決心で克服しながら、愛の実践を継続することをいう。

神も干渉することができず、父母もいない状況で、そのような責任分担を果たすということは大変難しいことであったが、アダムとエバはそのような責任をすべて果たさなければならなかった。しかしアダムとエバはそのような責任分担を果たすことができず、結局、サタンの誘惑に陥って堕落してしまった。それでは神はなぜ失敗しうるような責任分担をアダムとエバに負わせたのであろうか。万物のように、たやすく成長しうるようにすることもできたのではないであろうか。

それは人間に万物に対する主管の資格を与えるためであり、人間を万物の主管主にするためであった(創世記一・二八、『原理講論』一三一頁)。主管とは、自分の所有物や自分が創造したものだけを主管するのが原則であり、他人の所有物や他人の創造物は主管しえないようになっている。ことに人間は万物よりあとに創造されたのであるから、万物の所有者にも創造者にもなりえないはずである。しかし神は、人間を神の子として造られたために、人間に御自身の創造主の資格を譲り与え、主管主として立てようとされたのである。そのために人間が一定の条件を立てるようにせしめて、それによって人間も神の宇宙創造に同参したものと認めようとされたのである。

人間の完成と責任分担

その条件とは、アダムとエバが自己を完成させることである。すなわちアダムとエバが誰の助けも受けないで自己を完成させれば、神はアダムとエバが宇宙を創造したのと同様な資格をもつものと見なそうとされたのであった。なぜならば、価値から見るとき、人間一人の価値は宇宙全体の価値と同じだからである。すなわち人間は宇宙(天宙)を総合した実体相であり(『原理講論』六〇、六一、八四頁)、小宇宙(同上、八四頁)であり、また人間が完成することによって初めて宇宙創造も完成するからである。イエスが「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」(マタイ一六・二六)と言われたのも、そのような立場からである。したがってアダムとエバが自ら自身を完成させれば、価値的に見て、アダムとエバは宇宙を創造したのと同等な立場に立つことになるのである。

創造は、創造者自身の責任のもとでなされる。神が宇宙を創造されるのに神自身の責任のもとでなされた。そしてアダムとエバが自身を完成させることは、創造主たるべきアダムとエバ自身の責任なのであった。そのような理由のために、神はアダムとエバに責任分担を負わせたのである。

しかし神は愛の神であるゆえに、一〇〇パーセントの責任をアダムとエバに負わせたのではなかった。人間の成長の大部分の責任は神が負い、アダムとエバには五パーセントという非常に小さな責任を負わせて、その五パーセントの責任分担を果たしさえすれば、彼らが一〇〇パーセントの責任全体を果たしたものと見なそうとされたのであった。そのような神の大きな恵みにもかかわらず、アダムとエバは責任分担を果たすことができずに堕落してしまった。そのために結局、神の創造性を完全に受け継ぐことができなくなったのである。

万一、人間が堕落しなかったならば、いかなる結果になったであろうか。人間が堕落しないで完成したならば、まず神の心情、すなわち愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動をそのまま受け継いで、神が愛の神であるように人間は愛の人間になったであろう。そして心情を中心とした神の創造性を完全に受け継ぐようになったであろう。

これはすべての主管活動が、心情を土台とし、愛を中心とした活動になることを意味する。すでに述べたように、政治、経済、産業、科学、芸術、宗教などは、物質を扱う限りにおいて、すべて主管活動であるが、そのような活動が神から受け継いだ創造性(完全な創造性)に基づいた愛の主管活動に変わるようになるのである(17)。

本然の創造性と文化活動

心情の衝動力を動機とする知情意の活動の成果の総和を文化(心情文化)というが、その知情意の活動がみな物質を扱うという点において共通であるために、文化活動は結局、創造性による主管活動であると見ることができる。

ところで今日の世界を見るとき、世界の文化は急速に没落しつつある。政治、経済、社会、科学、芸術、教育、言論、倫理、道徳、宗教など、すべての分野において方向感覚を喪失したまま、混乱の渦の中に陥っているのである。ここで何らかの画期的な方案が立てられない限り、この没落していく文化を救出することはほとんど絶望的であると言わざるをえない。

長い間、鉄のカーテンに閉ざされたまま強力な基盤を維持してきた共産主義独裁体制が、資本主義体制との対決において、開放を契機として崩れ始め、今日、資本主義方式の導入を急いでいる現実を見つめて、ある者は資本主義の経済体制と科学技術の優越性を誇るかもしれない。しかしそれは近視眼的な錯誤である。なぜなら資本主義経済の構造的矛盾による労使紛争、貧富の格差の増大とそれに伴う価値観の崩壊現象、社会的犯罪の氾濫、そして科学技術の尖端化に伴う犯罪技術の尖端化、産業の発達に伴う公害の増大などは、資本主義の固疾的な病 弊であって、それらは遠からず、必ずや資本主義を衰退させる要因となることを知らないでいるからである。

万物主管という観点から見るとき、今日の文化的危機の根本原因は、遠く人類歴史の始めまでさかのぼって探さなければならない。それは人間始祖の堕落によって人間が神の創造性だけでなく神の心情と愛を完全に受け継ぐことができなかったことによって、自己中心的な存在となり、利己主義が広がるようになったことにあるのである。

したがって今日の文化を危機から救う唯一の道は、自己中心主義、利己主義を清算し、すべての創造活動、主管活動を神の愛を中心として展開することである。すなわち世界の各界各層のすべての指導者たちが神の愛を中心として活動するようになるとき、今日の政治、経済、社会、教育、科学、宗教、思想、芸術、言論など、様々な文化領域の交錯した難問題が、根本的にそして統一的に解決され、ここに新しい真の平和な文化が花咲くようになるであろう。それは共産主義文化でもなく、資本主義文化でもない新しい形態の文化であり、それがまさに心情文化、愛の文化であり、中和文化なのである。このように神の創造性に関する理論もまた現実問題解決の基準となっていることを知ることができるであろう。以上で原相の内容に関する説明をすべて終える。