1原相論 神相 陽性と陰性

(2) 陽性と陰性

陽性と陰性も二性性相である
陽性と陰性も神の二性性相である。しかし、同じく二性性相である性相と形状とは次元が違っている。性相と形状は神の直接的な属性であるが、陽性と陰性は神の間接的な属性であり、直接的には性相と形状の属性である。すなわち陽性と陰性は、性相の属性であると同時に形状の属性である。言い換えれば、神の性相も陽性と陰性を属性としてもっており、神の形状も陽性と陰性を属性としてもっているのである。

陽性と陰性の二性性相は、性相と形状の二性性相と同様に中和をなしている。『原理講論』に「神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体であられる」とあるのは、このことを意味しているのである。この中和の概念も、性相と形状の中和と同様に、調和、統一を意味し、創造が構想される以前には一なる状態にあったのである。この一なる状態が創造において陽的属性と陰的属性に分化したと見るのである。その意味で東洋哲学の易学において「太極生両儀」(太極から陰陽が生まれた)というのは正しい言葉である。

ところで、陽性と陰性の概念は易学の陽と陰の概念と似ているが、必ずしも一致するのではない。東洋的な概念としては、陽は光、明るさを意味し、陰は蔭、暗さを意味する。この基本的な概念が拡大適用されて、いろいろな意味に使われている。すなわち、陽は太陽、山、天、昼、硬い、熱い、高いなどの意味に、陰は月、谷、地、夜、軟らかい、冷たい、低いなどの意味に使われている。

しかし統一思想から見るとき、陽性と陰性は性相と形状の属性であるために、被造世界において、性相と形状は個体または実体を構成しているが、陽性と陰性は実体の属性として現れているだけである。例えば太陽(個体)は性相と形状の統一体であって、太陽の光の「明るさ」が陽である。同様に月それ自体は性相と形状から成る個体(実体)であって、月の反射光の明るさの「淡さ」が陰なのである。

ここで統一思想の実体の概念について説明する。統一思想の実体は、もちろん統一原理の実体の概念に由来するものである。統一原理には「実体基台」、「実体献祭」、「実体聖殿」、「実体世界」、「実体相」、「実体対象」、「実体路程」など、実体と関連した用語が多く使われているが、そこで実体とは、被造物、個体、肉身をもった人間、物質的存在などの意味をもつ用語である。

ところで、人間を含めたすべての被造物は、性相と形状の合性体(統一体)である。言い換えれば、被造物において性相と形状はそれぞれ個体(実体)の構成部分になっているのである。そして、性相や形状それ自体もまた実体としての性格をもっている。あたかも自動車も製作物(実体)であり、自動車の構成部分である部品(例:タイヤ、トランスミッションなど)も製作物(実体)であるのと同じである。したがって統一思想においては、人間の性相と形状は実体の概念に含まれるのである。

原相において、陽性と陰性をそれぞれ本陽性と本陰性ともいう(『原理講論』四六頁)。原相の「本性相と本形状」および「本陽性と本陰性」に似ているのが人間の「性相と形状」と「陽性と
陰性」である。すでに述べたように、被造世界では性相と形状は共に実体の性格をもっており、陽性と陰性は実体としての性相と形状(またはその合性体である個体)の属性となっている。そのことを原相において示したのが図1—2である。

原相における性相と形状および陽性と陰性の関係を正確に知るためには、人間における実体としての性相と形状、そしてその属性としての陽性と陰性の関係を調べてみればよい。人間の場合の性相と形状および陽性と陰性の関係をまとめると、表1—1のようになる。

そこに示されるように、性相(心)の知情意の機能にもそれぞれ属性として陽性と陰性がある。例えば知的機能には明晰、判明などの陽的な面と、模糊、混同などの陰的な面があり、情的機能には愉快、喜びなどの陽的な面と不快、悲しみなどの陰的な面がある。意的機能にも積極的、創造的などの陽的な面と、消極的、保守的などの陰的な面がある。そして形状(肉身)においても陽的な面(隆起部、突 出部)と陰的な面(陥没部、孔穴部)があるのは言うまでもない。

ここで明らかにしておきたいのは、ここに示したのは人間の場合にのみいえることであるということである。神は心情を中心とした原因的存在であって、創造前の神の性相と形状の属性である陽性と陰性は、ただ調和的な変化を起こす可能性としてのみ存在しているだけである。そして創造が始まれば、その可能性としての陽性と陰性が表面化されて、知情意の機能に調和のある変化を起こし、形状にも調和的な変化をもたらすのである。

陽性・陰性と男子・女子との関係
ここで問題となるのは、陽性・陰性と男子・女子との関係である。東洋では古来、男子を陽、女子を陰と表現する場合が多かった。しかし統一思想では男子を「陽性実体」、女子を「陰性実体」という。表面的に見ると東洋の男女観と統一思想の男女観は同じように見えるが、実際は同じではない。

統一思想から見るとき、男子は陽性を帯びた「性相と形状の統一体」であり、女子は陰性を帯びた「性相と形状の統一体」である。したがって男子を「陽性実体」、女子を「陰性実体」と表現するのである(『原理講論』四八頁)。

ここで特に指摘することは、男子を「陽性実体」というときの陽性と、女子を「陰性実体」というときの陰性が、表1—1で示される陽性と陰性とは必ずしも一致しないということである。すなわち、性相においても形状においても、表1—1で示される陽性と陰性の特性は男女間で異なっているのである。そのことを具体的に説明すれば、次のようになる。

まず、形状における陽性と陰性の男女間での差異を説明する。形状すなわち体において、男女は共に、陽性である隆起部、突出部や、陰性である陥没部、孔穴部をもっているが、男女間でそれらに差異があるのである。男子は突出部(陽性)がもう一つあり、女子は孔穴部(陰性)がもう一つある。また身長においても、臀部の大きさにおいても、男女間で差異がある。したがって形状における陽性と陰性の男女間での差異は量的差異である。すなわち、男子は陽性が量的により多く、女子は陰性が量的により多いのである。

それでは性相においてはどうであろうか。性相における陽性と陰性の男女間での差異は、量的差異ではなく質的差異である(量的にはむしろ男女間で差異はない)。例えば性相の知において、男女は共に明晰さ(陽)をもっているが、その明晰さの質が男女間で異なるのである。男子の明晰さは包括的な場合が多く、女子の明晰さは縮小指向的な場合が多い。才致においても同様である。また性相の情の悲しみ(陰)において、過度な場合、男子の悲しみは悲痛に変わりやすく、女子の悲しみは悲哀に変わりやすい。性相の意における積極性(陽)の場合、男子の積極性は相手に硬い感触を与えやすいが、女子の積極性は相手に軟らかい感触を与えやすい。男女間のこのような差異が質的差異である。これをまとめると表1—2のようになる。

このように性相において、陽性にも陰性にも男女間で質的差異があるのである。これを声楽に例えると、高音には男子(テノール)と女子(ソプラノ)の差異があり、低音にも男子(バス)と女子(アルト)の差異があるのと同じである。

このように性相における陽性と陰性は、男女間において質的差異を表すのであるが、男子の陽性と陰性をまとめて男性的、女子の陽性と陰性をまとめて女性的であると表現する。したがってここに、「男性的な陽陰」と「女性的な陽陰」という概念が成立するのである。

ここにおいて、次のような疑問が生ずるかもしれない。すなわち形状においては男女間の差異が量的差異であるから、男子を陽性実体、女子を陰性実体と見るのは理解できるが、性相においては、男女の差異が質的差異だけで、量的には男女は全く同じ陽陰をもっているのに、なぜ男子を陽性実体、女子を陰性実体というのか、という疑問である。

それは男女間の陽陰の差異が量的であれ質的であれ、その差異の関係は主体と対象の関係であるということから解決される。後述するように、主体と対象の関係は積極性と消極性、能動性と受動性、外向性と内向性の関係である。ここに性相(知情意)の陽陰の男女間の質的差異においても、男性の陽と女性の陽の関係、および男性の陰と女性の陰の関係は、すべて主体と対象の関係になっているのである。

すなわち、知的機能の陽において、男性の明晰の包括性と女性の明晰の縮小指向性が主体と対象の関係であり、情的機能の陰において、男性の悲痛と女性の悲哀の関係も主体と対象の関係である。また意的機能の陽において、男性の積極的の硬性と女性の積極性の軟性の関係も主体と対象の関係なのである。これは男女間の陽陰の質的差異は量的差異の場合と同様に主体と対象の関係なのであって、男性と女性の関係が陽と陰の関係であることを意味するのである。以上で男を陽性実体、女を陰性実体と呼ぶ理由を明らかにした。

性相・形状の属性としての陽性・陰性と現実問題の解決
以上で陽性・陰性は性相・形状の属性であることが明らかにされたと思う。ところで、このことがなぜ重要かといえば、それがまた現実問題解決の基準となるためである。ここで現実問題とは、男女間の問題、すなわち性道徳の退廃、夫婦間の不和、家庭破壊などの問題をいう。

陽性・陰性が性相・形状の属性であるということは、性相・形状と陽性・陰性の関係が実体と属性との関係であることを意味する。実体と属性において先次的に重要なのは実体である。属性がよりどころとする根拠が実体であるからである。実体がなくては属性は無意味である。そのように性相・形状は陽性・陰性が「よりどころとする根拠」としての実体であり、性相・形状がなくては陽性・陰性は無意味なものになってしまうのである。

人間において、性相・形状の問題とは、現実的には性相・形状の統一をいうのであって、それは心と体の統一、生心と肉心の統一、すなわち人格の完成を意味する。そして人間において、陽性と陰性の問題は現実的には男子と女子の結合を意味するのである。ここで「人格の完成」と「男女間の結合」の関係が問題となるが、「陽性・陰性が性相・形状の属性である」という命題に従うならば、男女は結婚する前にまず人格を完成しなければならないという論理が成立するのである。

統一原理の三大祝福(個性完成、家庭完成、主管性完成)において、個性完成(人格完成)が家庭完成(夫婦の結合)より前に置かれた根拠は、まさにこの「陽性・陰性は性相・形状の属性である」という命題にあったのである。『大学』の八条目の中の「修身、斉家、治国、平天下」において、修身を斉家より前に置いたのも、『大学』の著者が無意識のうちにこの命題を感知したためであると見なければならない。

今日、男女関係に関連した各種の社会問題(性道徳の退廃、家庭の不和、離婚、家庭破壊など)が続出しているが、これらはすべて家庭完成の前に個性完成が成されなかったこと、すなわち斉家の前に修身が成されなかったことに由来しているのである。

言い換えれば、今日、最も難しい現実問題の一つである男女問題は、男女共に家庭完成の前に(結婚前に)人格を完成することによって、つまり斉家する前に修身することによって、初めて解決することができるのである。このように「陽性・陰性が性相・形状の属性である」という命題は、現実問題の解決のまた一つの基準となっているのである。