3本性論 統一思想から見た実存主義の人間観 ヤスパース

(三) ヤスパース

ヤスパースの人間観

ヤスパース(Karl Jaspers, 1883-1969 )における実存とは、個としての自分に真に目覚めた人間のあり方をいう。すなわち「実存とは決して客観となることのないものであり、私がそれにもとづいて考え、かつ行動するところの根源であり……実存とは自己自身にかかわり、そうすることで超越者にかかわるものである(13)」という。これは基本的にキルケゴールと同じ考え方である。

まだ超越者( Transzendenz )または包括者(Das Umgreifende )を見いだしえない実存、すなわち本来の存在を捜していく過程にある実存のことを「可能的実存」(moャgliche Existenz )という。一般的に、人間はいろいろな状況の中に生きている可能的実存であるが、その状況に対処しながら能動的に生きていくことができる。しかしヤスパースは、死(Tod )、苦悩( Leiden )、闘争(Kampf )、負い目(Schuld )などの「われわれがのりこえることができず変更することができないような状況が存在する(14)」と指摘し、それを「限界状況」(Grenzsituation )と呼ぶ。

人間は永遠に生きることを願いながら、誰も、死を免れることはできない。死は自己の存在の否定である。また人生には肉体的苦痛、病気、老衰、飢えなどの苦悩がある。また人間は生きる限り、闘争を避けることはできない。そして己の存在が他者を排斥するという負い目を受けながら生きているのである。

こういう限界状況において、人間は自らの有限性を自覚して、絶望し、挫折せざるをえない。そのとき、この挫折をどのように経験するかによって、人間がどのような存在になるかが決定する。限界状況を逃げないで、挫折を直視し、黙々とそして誠実にそれを引き受けるとき、「世界存在をこえて本来的に存在するものが感じられるようになる(15)」のである。

すなわち、それまで無意味なものと思われた自然の背後に、歴史の背後に、哲学の背後に、芸術の背後に、超越者すなわち神がいて、われわれを包容し、何かをわれわれに語りかけていることが忽然と分かってくる。そのとき、超越者は直接的に現れるのではなくて、暗号として現れる。超越者が、自然、歴史、哲学、芸術などを通じて、暗号として現れて、人間に語りかけてくるのである。そして限界状況において挫折を体験した者が、その暗号を説くことができる。これを「暗号解読」(Chiffredeutung )という。このようにして、人間は暗号を読み取ることによって、ただ一人で超越者に向かって立つようになるのである。これがすなわち、人間が真の自己の実存に目覚めるということである。

そのようにして神に出会ってから、人間は他人との交わりにおいて愛の実践を行う。互いに対等の立場に立って、それぞれの自立性を認めながら互いに愛し合うのが、本来の人間の生き方であり、他人との交わりを通して、実存が完成されるのである。ヤスパースは次のようにいっている。「一切の目的の意味に最終的な根拠を与えるところの哲学の目的、つまり、存在を内的に覚知し愛を開明し安らぎを完成するという目的は、交わりにおいてこそはじめて達成されるのである(16)」。実存の交わりは、緊張の関係であり、愛の闘いである(17)。

統一思想から見たヤスパースの人間観

ヤスパースは、人間は通常、まだ超越者を見いだしえない可能的実存であるが、限界状況を通過することによって、超越者にかかわる実存、すなわち本来の自己になるという。しかし、なぜ人間は通常、可能的実存として超越者から離れたままでいるのであろうか。またなぜ人間は、限界状況を通じるときに、超越者に出会うようになるのであろうか。ヤスパースはそのことについて明らかにしていない。しかし、そのことが明らかにされない限り、本来の自己は何かということも、またいかにして本来の自己を回復するかということも、具体的に分からないのである。

統一原理によれば、人間は創造目的を完成するように創造された。創造目的の完成とは、三大祝福の完成、すなわち人格の完成、家庭の完成、主管性の完成を意味する。ところが人間始祖のアダムとエバは成長の過程において、神のみ言を守らず、人格が未完成のまま堕落したのであり、非原理的な愛を中心として夫婦となり、罪の子女を繁殖してしまった。その結果、すべての人類は神から離れるようになったのである。したがって人間が非原理的な愛を捨てて、神に帰り、神の愛を中心として創造目的を完成することが、本来的自己の回復の道である。

人間の本性は、人間が創造目的を実現するときに現れるようになっている。ヤスパースは、キルケゴールと同様に、自己自身にかかわりながら超越者にかかわる存在となることが実存であるといったが、それは統一思想から見るとき、三大祝福のうちの第一祝福である人格完成だけを扱ったのである。すなわち人間の本性の「性相と形状の統一体」を扱っていたのである。ヤスパースは他人との交わりにおいて愛を実践しなければならないというが、その愛はやはり、キルケゴールの場合と同様に、漠然としていたのである。

真の愛(神の愛)は、温情をもって対象に限りなく与えようとする情的な衝動である。この愛が家庭を通じて、四対象に向かう愛(父母に対する子女の愛、夫婦間の愛、子女に対する父母の愛、子女相互間の愛)として分性的に現れる。その四対象の愛が基本となるとき、他人との交わりにおける愛は円満になるのである。ヤスパースは実存の交わりは緊張の関係であり、愛の戦いであるという。しかし統一思想から見るとき、愛の本質は喜びである。したがって本来の愛は、決して緊張とか戦いとして表現される性質のものではない。

次の問題は、なぜ限界状況を通じることによって、人間は超越者と出会うようになるのかということである。ヤスパースは人間が限界状況に直面して、挫折を直視し、誠実にそれを引き受けることによって、神に出会うという。しかし限界状況に直面して、挫折を誠実に受け止めた人の中には、ニーチェのように神からいっそう離れていった人もあり、キルケゴールのように、神にいっそう近づいた人もいる。なぜそのようなことが起こるのであろうか。その理由はヤスパースの哲学では明らかにされていない。

人間は神のみ言を守らないで神から離れてしまい、悪の主体であるサタンの主管下におかれてしまった。したがって無条件に神のもとへ帰ることはできない。何らかの贖罪の条件(蕩減条件)を立てることによってのみ、神のもとへ帰ってゆくのである。したがってヤスパースの限界状況における絶望と挫折は、蕩減条件に相当するものであり、その条件が全うされることによって、人間は神に近づいていくのである。しかし、そのような限界状況において苦痛を耐え抜きながらも、「求めよ、そうすれば与えられるであろう、捜せ、そうすれば見いだすであろう」(マタイ七・七)とあるように、自らをむなしくして絶対的な主体(神)を求めようとする対象意識をもたなくてはならない。自己中心的な主体意識だけをもっていたり、怨念や復 讐心を抱き続けている限り、いくら限界状況を通じても、神に出会うことはないのである。

ヤスパースは挫折の暗号を解読することによって人間は超越者に出会うというが、暗号解読によって知りえる神は、象徴としての神にすぎず、それだけでは神の姿を理解することはできない。神の創造目的と人間堕落の事実を知り、信仰生活を通じて、神の三大祝福の実現に努めなければならない。そうすることによって、人間は神の心情を体恤することができ、真の実存(本然の自我)となるのである。