1原相論 構造 四位基台の種類

2021年8月25日
(三) 四位基台の種類

それでは、再び本論に戻って四位基台の種類を扱うことにする。先に四位基台には自同的四位基台と発展的四位基台のほかに、内的四位基台と外的四位基台という異なる二種類の四位基台があることを明らかにした。したがって四位基台は四種類あるという結論になるのである。実際には、これらが互いに組み合った次のような四位基台が形成されている。すなわち内的自同的四位基台、外的自同的四位基台、内的発展的四位基台、外的発展的四位基台である。それらは図で表せば図1—9のようになる。次に、それらについて説明することにする。

(1) 内的自同的四位基台

内的自同的四位基台は、内的四位基台と自同的四位基台が組み合わさったものである。すなわち、本性相の内部の内的四位基台が自己同一性つまり不変性をもつようになったものをいう。

自同的四位基台とは、性相と形状が授受作用を行ったのち、その結果として合性体または統一体を成す四位基台を意味する。ところが、そのような四位基台が実は内外に同時に形成されるのである。例えば人間の場合、誰でも考えながら生活しているが、考えるということは内的に内的性相と内的形状が授受作用をすること、すなわち内的四位基台の形成を意味する。そして生活するとは、外的に他人と授受作用をすること、すなわち外的四位基台の形成を意味するのである。

ここでの「考え」とは漠然とした非生産的な考えであって、その考えの結果はただ心の一つの状態であるだけである。すなわち内的性相と内的形状の合性体であるだけである。そのような合性体を成す四位基台が自同的四位基台であるが、それが内的に心の中で成されるので内的自同的四位基台となるのである。

被造物の内的自同的四位基台において、その中心は心情または創造目的であり(22)、主体と対象の授受作用は円満に調和的になされ、その結果は合性体(統一体)である。すべての被造物は例外なく他者と授受作用をしているが、そのとき必ず被造物の内部において授受作用が行われ、四位基台が形成される。そのような被造物の内的自同的四位基台の原型が、本性相内の内的自同的四位基台なのである。

(2) 外的自同的四位基台

外的自同的四位基台は、外的四位基台と自同的四位基台が一つに組み合わさったものである。すなわち本性相の外部の(本性相と本形状の)外的四位基台が自己同一性(不変性)を帯びるようになったものをいい、神が万物を創造する直前の属性の状態、すなわち性相と形状が中和を成した状態を意味するのである。われわれは家庭的にも社会的にも他人と関係を結んで助け合い、頼り合いながら生きている。そのときの四位基台がまさに外的自同的四位基台である。

ただし、その時、内的自同的四位基台が伴うようになる。その良い例が夫婦生活である。夫と妻がそれぞれ内的生活すなわち内的自同的四位基台を成しながら、その土台の上で互いに協助し和合して夫婦一体(合性体)を成しているのであり、それが外的自同的四位基台の形成である。そのように外的自同的四位基台は内的自同的四位基台と不可分の関係をもっており、内的自同的四位基台の土台の上に外的自同的四位基台が成立するのである。

次は、万物相互間の実例として太陽と地球の例を挙げてみよう。太陽と地球は万有原力(万有引力)を授け受けながら授受作用を行っている(23)。そのとき、太陽が主体であり地球は対象である。したがって太陽は地球に対して中心的であり、地球は太陽に対して依存的である。

被造世界において、授受作用は原則的に、対象が主体を中心として回る円環運動として現れる。それは、原相内の性相と形状の授受作用の円和性を象徴的に表現しているのである。言い換えれば、被造世界において一定の円環運動が起れば、そこには必ず主体と対象間の授受作用がなされているのである。

太陽と地球の関係において、地球は太陽を中心に回りながら(公転)、地球自体も回っている(自転)。これは地球と太陽系の自己同一性を維持するためなのである。すなわち地球は自転を通じて自体の存立(自己同一性)を維持し、公転を通じて太陽と共に太陽系全体の存立(自己同一性)を維持している。地球のこのような自転と公転は、内的に地球の内部で自己同一性の維持のための授受作用が行われ、外的に太陽との間に自己同一性の維持のための授受作用が行われていることを示しているのである。一方で太陽は、太陽として自転し自己の同一性を維持しながら、同時に地球に対しては主体として地球の中心となって地球を主管しているのである。すなわち地球に万有原力(万有引力)と光を与え、地球の公転を助けながら、地球上の生物を生かしているのである。それだけでなく、銀河系の中心に対しては対象となって銀河系の周辺を公転している。そのように太陽と地球の例を見るとき、そこに内的自同的四位基台と外的自同的四位基台が同時に造成されていることを知ることができる。それは両者が不可分の関係にあるからである。

このような内的自同性の維持と外的自同性の維持を現す円環運動、すなわち自転と公転は、本然の人間生活においても同じである。ただし人間生活は精神と精神の関係を中心とした生活であるために、円環運動は物理的な運動ではなくて、原相の場合と同じように愛を中心とした円満性、調和性、円滑性を帯びた授受作用を意味する。したがって内的な自己同一性(内的自同的四位基台)の維持は、愛を中心として他人と和解しながら、よりよく他人に奉仕しようとする心の姿勢として現れる。外的な自己同一性(外的自同的四位基台)の維持は、対象においては、主体を中心とする公転運動として現れる。すなわち、主体に対する感謝に満ちた従順さとして現れる。主体においては、対象に対する主管は真理の力と愛の光として現れる。すなわち、対象をよく教えながら継続して愛を施す姿として現れる。

以上は、本然の世界において造成される内的自同的四位基台と外的自同的四位基台に対する説明であるが、今日の堕落した社会では、その模範的な例をほとんど見いだすことができないようになった。そして価値観の総体的な崩壊と社会的犯罪の増大を招いているのである。言い換えれば、原相の内的および外的な自同的四位基台理論は現実問題の解決のまた一つの重要な基準となるのである(24)。

(3) 内的発展的四位基台

内的発展的四位基台は、内的四位基台と発展的四位基台が組み合わさったものである。すなわち本性相内の内的四位基台が発展性、運動性を帯びるようになったものをいう(25)。ここに発展的四位基台とは、創造目的を中心として主体と対象が授受作用を行い、新生体を生じるときの四位基台を意味する。

四位基台は内外において形成される。しかし自同的四位基台の場合とは違って、発展的四位基台の場合、同時的ではなくて継時的である。すなわち、まず内的な発展的四位基台が形成され、続いて外的な発展的四位基台が形成される。

内的発展的四位基台は創造において最初に形成される四位基台である。例えば人間が製品を作るとか作品を作るとき、まず心で構想し、計画を立てる。次にその構想や計画に従って道具や機械を使用して製品(作品)を製作(創作)する。そのように構想の段階が先であり、製作の段階が後である。構想は心で行うために内的であり、製作は道具や機械を使用しながら行うために外的である。構想も製作も授受作用による四位基台の造成である。そして構想した結果も新生体であり、製作した製品も新生体である。ここに構想は漠然たる構想でなく、一定の製品を製作しようとする明確な目標に基づいた構想である。製作の場合も同様である。

したがって構想段階の四位基台や製作段階の四位基台は、いずれも目的を中心とした四位基台である。そのように目的と新生体を伴った四位基台が発展的四位基台であるが、それが内外の二段階として形成される。初めの構想段階が内的発展的四位基台、次の製作段階が外的発展的四位基台である。

人間の製作活動において、まず構想が立てられるのは、その原型が「原相の構造」にあるからである。それがまさに本性相内の目的を中心とした内的性相と内的形状の授受作用であり、ロゴスを形成する内的発展的四位基台なのである。そのように、原相の内的発展的四位基台が被造物のすべての内的発展的四位基台の原型となっているのである(26)。

それでは本性相内の内的発展的四位基台に関して、さらに詳しく説明することにする。そのために「中心=目的」、「主体=内的性相」、「対象=内的形状」、「内的授受作用」、「結果=構想」などの項目に分けて説明する。

1 中心=目的

内的発展的四位基台の中心は目的(創造目的)であるが、それは心情、すなわち愛そうとする情的な衝動に基づいた創造目的である。そのように神の創造は心情を動機としているために、創造の目的は愛の対象を立てて、被造世界に愛を実現することである。そうすることによって神は喜びと慰めを得ようとされた。人間は神の直接的な愛の対象として造られ、万物は人間の愛の対象として造られた。したがって人間の被造目的は、人間が互いに愛し合い、万物を愛することによって、神に喜びと慰めを与えることにあり、万物の被造目的は、互いに調和しながら人間に美と喜びを与えることにあるのである。しかし、堕落のために人間は互いに愛し合うことができなくなり、万物も愛せなくなった。そして、万物の美しさも全面的には受け入れることができないようになった。そのため神を悲しませ、万物を苦しめるような結果となったのである(ローマ八・二二)。

人間は、創造の相似の法則に従って神に似るように造られた。創造目的においても同じである。すなわち人間のすべての創造活動(制作、生産、創作など)の目的は、神の創造目的に従って神の愛を実現することである。しかし、堕落によって人間は自己中心的になり、神の愛を実現することができなくなった。そして天道に背いた結果となり、人間社会は混乱に陥るようになった。したがって今日の世界的大混乱を収拾する方案の一つは、すべての創造活動において、その目的を神の創造目的に一致させるようにすることである。したがって内的発展的四位基台の中心である目的に関する理論も、現実問題解決のまた一つの基準となるのである。

2 主体=内的性相

内的性相とは何か

内的発展的四位基台において、主体の立場にある要素は内的性相である。内的性相とは知情意の機能であるが、この三つの機能はそれぞれ別個の独立した機能ではなく、互いに連結されている。知的機能にも情と意が含まれており、情的機能にも知と意が含まれており、意的機能にも知と情が含まれているのである。すなわち三つの機能は統一されていて、その統一体がある時は知的機能をより多く発揮し、ある時は情的機能をより多く発揮し、ある時は意的機能をより多く発揮するのである。知情意の機能というとき、このような性格の三機能として理解する必要がある。そして内的発展的四位基台形成において、神はこのような性格の三機能を発揮したと見られるのである。

そのように知情意の三機能の性格を理解するとき、現実世界において、知情意の三機能に対応する本然の真美善の価値も共通要素をもっていることが分かる。さらにこの真美善の三つの価値に対応する文化の三大領域(科学・哲学などの学問分野、芸術分野、宗教・道徳分野)も共通要素をもっており、それらの中間領域もあることが分かるのである。

この事実は創造と関連して現実的に重要な意味をもつ。すなわちそれは、神が創造において心情を動機として創造目的を立て、その目的を中心として知情意の三機能を総動員して、全力投入しながら創造をなされたことを意味するからである(文先生は「神は天地創造において自身を全力投入した」と語られている)。そればかりでなく、再創造においても知情意の機能をすべて集中させたことを意味するのである。さらには復帰歴史において、特に末世的な混乱が続く今日、知情意のそれぞれに対応する科学、哲学などの学問分野、音楽、舞踊、絵画、彫刻、文化、詩などの芸術分野、宗教、道徳、倫理などの規範分野の三大文化分野は、神の創造理想世界の実現、すなわち統一文化世界、心情文化世界の創建に総動員されなければならないことを意味するのである。

それにもかかわらず、今日、すべての文化領域は方向感覚を喪失しているだけでなく、次第により低俗な方向に堕ちていっている。ここに共産主義や金日成主体思想のような似非改革思想が浸透して、すべての文化領域、特に芸術分野に対して、プロレタリア芸術とか民衆芸術などと言いながら、より低俗化させ、不毛化させているのである。それは背後のサタンのなせるわざである。

したがって今日、文化領域に携わっているすべての知性人、学者たちの使命が明白になってくる。それは神の創造目的を正しく理解し、創造目的を実現し、創造理想世界を建設するために、すなわち統一文化(心情文化)世界を創建するために総決起し、総進軍しなければならないということである。このように見るとき、創造に際して、原相の内的発展的四位基台の形成において、内的性相である知情意の三機能が目的を中心に総動員されたという事実も、現実問題の解決の重要な基準になっていることが分かる。

内的性相は肉心と生心の統一体である

ここに付言したいことは、人間の知情意には肉身と霊人体の知情意が共に含まれているという事実である。人間は肉身と霊人体の二重体(統一体)であるために、人間の心(本心)も肉心と生心の統一体である。したがって内的性相においても、肉身の知情意の機能と生心の知情意の機能とが複合的に統一されているのである。

肉心の知的機能は感覚と知覚の程度であり、せいぜい若干の悟性的機能を現すにすぎない。しかし生心の知的機能は感性、悟性、理性をみなもっており、普遍的真理を体得することもできる。生心はまた自己を認識し反省する能力、すなわち自我意識をもっている。大脳生理学者のジョン・エックルスや生物学者のアンドレ・グド=ペロのような科学者が、人間にだけ自我意識があると言ったのは、人間には生心があるからなのである。

肉心の情的機能も生心の情的機能に比べれば低次元である。肉心の情的機能は生心と同じように喜怒哀楽を感じ、限られた範囲内では愛他心も発揮する。しかし生心の情的機能は高次元であって、それゆえ人間は芸術生活をすることができる。自己の命まで捧げて民族や人類を愛するのも人間が生心をもっているからなのである。

肉心の意的機能も生心の意的機能に比べれば低次元である。意的機能は意欲性であって、創造目的(個体目的と全体目的)を達成しようとする実践心(実践力)または決断心(決断力)をいう。動物の創造目的は主に物質生活(食べる、生きる、子を生むなど)を通じて達成されるが、人間の創造目的は肉身生活を基盤としながら精神生活(真美善の価値の生活)を通じて達成される。したがって意的機能においても、動物と人間の間には顕著な差異があるのである。すなわち動物の意的機能は衣食住と性に関するものであるが、人間の意的機能は肉心の意的機能と生心の意的機能が合わさったものである。しかも本然の人間においては生心の機能が肉心の機能より優位にあるために、人間の意的機能は先次的に価値(精神的価値)を追求し後次的に物質生活を追求するのである。

以上、人間の知情意の機能は、肉心の知情意と生心の知情意の統一されたものであるということを明らかにした。すなわち知的機能は二つの心(肉心と生心)の知的機能の統一であり、情的機能も、意的機能も、二つの心のそれぞれの機能の統一なのである。さらにこのように統一された知的機能、情的機能、意的機能の三つの機能までも、互いに分離されているのでなく、統一されているのである。統一思想の認識論においては、この内的性相の統一された側面を特に取り上げて、これを「霊的統覚」と呼んでいる。生心を中心として統一された認識能力という意味である。そして、このように内的性相を知情意の統一体と見る観点は、自由の問題に対して、伝統的な未解決の問題に解決を与えているのである(27)。

3 対象=内的形状

内的形状とは何か

次は内的発展的四位基台において、対象の立場にある内的形状について説明する。すでに述べたように、内的形状は本性相内にある形の部分であって、観念、概念、原則、数理などである。観念とは、すでに創造されたか、または将来、創造される被造物の一つ一つの具体的な表象(映像)である。概念は、一群の観念に共通した要素を心の中に映像化したものである。原則は、被造世界の自然法則と規範法則などの根本原因となる法則である。そして数理は、数的原理として自然界の数的現象の究極的原因である。

それでは内的形状を成している要素を創造と関連させてみよう。内的形状は、神の宇宙創造において、いかなる役割を果たしたのであろうか。比喩的に言えば、鋳型の役割を果たしたのである。鋳型とは、溶けた金属の液体(融解液)を注いで製品を造るときの型を意味する。創造において、融解液に相当するものが本形状、すなわち前エネルギーである。つまり、あたかも人間が鉄の融解液を鋳型に注いで鉄製品を造るように、神は内的形状という霊的鋳型に本形状という霊的液体を注ぎ入れるような方式で万物を造られたと見るのである(28)。

内的形状は一種の鋳型である

ところで、神の内的形状内の鋳型は人工の鋳型とは異なり、外見のみの鋳型ではない。それは内容、すなわち細密な内部構造までも備えた鋳型である。人間の創造に際しての鋳型は、五臓六腑をはじめ、各種の器官、組織、細胞に至るまでの細密な構造を備えた鋳型であり、創造においてそのような鋳型の役割をなしたのが内的形状内の観念、概念、原則、数理などであると見るのである。われわれが万物を見るとき、大小に限らず、種類別に限らず、万物は必ず一定の形をもっており、一定の種類に従って共通性をもっており、一定の法則が作用し、一定の数的内容をもっていることを見ることができる。これはあたかも鉄製品の形がその鋳型に似るように、万物はみな霊的鋳型である内的形状に似たものであると見るのである。

以上説明した内的形状は、創造に直接関連したもの、すなわち被造物の直接的模型となったものである。しかし、そのほかに創造の模型とは無関係な観念、概念、原則、数理はいくらでもあるということを明らかにしておきたい。例えば「神」、「私」、「父母」、「美」、「理想」、「目的」などの観念や概念は、時空の世界に万物として造られることはないのである。これらは創造と間接的に関連はあるが、直接的に被造物になることはできないものである。

4 内的授受作用

内的授受作用とは何か

本性相内において、新生体の形成のための授受作用によって内的発展的四位基台が形成されるが、そのときの授受作用が内的授受作用である。この授受作用もやはり主体と対象間の授受作用であって、それは内的性相である知情意の統一的機能と内的形状との授受作用を意味する。もちろん創造目的を中心とした授受作用である。この内的授受作用は要するに「考えること」、「思考すること」、「構想すること」を意味する。なぜならば本性相は神の心であり、その心の中でなされる授受作用であるからである。

ここで、「考えること」をなぜ授受作用と見るのであろうか。われわれが常識的に知っている考えとは、次のような機能を果たす心の作用である。すなわち記憶、回想、判断、関心、計画、意見、理解、想像、推測、推理、希望、思索、瞑想、解釈などの心の作用である。甚だしくは妄想までも心に現れる現象であるから、やはり考えの概念に含めることができるであろう。

このような心の現象(考え)は、過去に経験したことに対する考え、現在の状況に対する考え、そして未来のことに対する考えの三種類に区分することができる。過去に経験したことに対する考えとは、記憶に関することであり、現在の状況に対する考えとは、意見、推測、理解などに関することであり、未来のことに対する考えとは、計画、希望、理想などに関することである。ここで指摘すべきことは、いかなる考えも、あらかじめ心の中に一定量の観念(映像)が入っていなければ成立しないという事実である。そのような心の観念はひとえに経験を通じてのみ形成される。すなわち、われわれが目を閉じても、心の中で鳥を考え、花を考えることができるのは、実際に過去に鳥や花を見た経験があるからである。

観念の操作

考えるのに一定量の観念が必要であるということは何を意味するのであろうか。過去のことを思い出す考えだけでなく、現在のことを考察し、未来のことを見通す考えまでも、すべて過去に一度経験した観念をもつことによってのみ可能であるということを意味するのである。したがって過去の経験が豊かであるほど、すなわち経験した観念が多いほど、多く考えることができる。これはあたかも、貯蓄を多くしておけば、いつでも必要な時に引き出して生計を増やすことができるのと同じである。またわれわれが家財道具を多く倉庫に蓄えておけば、いつでも必要な時に引き出して使うことができるのと同じである。われわれが知識を学び見聞を広げるのも、結局は記憶の倉庫にいろいろな観念を多く貯蔵するためであり、実際、たくさん貯蔵されているのである。そのように、考えるとは、倉庫から貯蔵物を引き出して必要な時に適切に使用するように、記憶の倉庫から観念を取り出していろいろと扱うことを意味するのである。そのようなプロセスを統一思想では「観念の操作」という。

観念とは、心に保管されている表象または映像のことであるが、それぞれの事物に対する映像のような簡単なものを単純観念といい、単純観念が二つ以上複合されたものを複合観念という(ただし、これは比較上の相対的な概念である)。ここで操作とは、機械のようなものをあれこれ扱うことを意味する。すなわち、必要な部品や機械を貯蔵所から取り出すこと、必要な機械と機械を連結させること、必要に応じて機械を構成部分に分解すること、部品を集めて新しい機械を組み立てること、機械の母体はそのままにしておいて二つの部品の位置を交換すること、いろいろな機械を連結させて一つに統一することなどの作業を意味するのである。

観念の操作は授受作用である

機械の操作の場合と同様な方式で観念を扱うことが観念の操作である。すなわち、まず機械の取り出しに相当する観念の操作が「想起」であり、機械の連結の操作に相当するのが観念と観念の「連合」または「複合」であり、機械の分解に相当するのが観念の「分析」であり、新しい機械の組み立てに相当するのが新しい観念の「構成」であり、部品の位置の交換に相当するのが観念の「換位」であり、いろいろな機械の連結、統一に該当するのが観念の「総合」である。そのほかに、重要な観念操作の一つに、一定の観念を「そうでない」と否定することもあるが、これを「換質」という。要約すれば、観念の操作とは、過去に経験したいろいろな観念の中から必要なものを用いて、想起、連合、分析、構成、綜合、換位、換質などを行うことをいう。

想起は過去の経験の中から必要な観念を取り出すことであり、連合は一つの観念を考えるとき、それによって他の観念が連想されることである(例えば父を考える時に母が連想される)。いくつかの小さな観念が集まって大きな観念を成すのが構成である(例えば、土台、礎石、柱、桁、梁、大梁、たる木、屋根、部屋などの観念が集まって、家屋という大きな観念が構成される)。ある観念を小さい観念に区分するのが分析である(例えば、人体は神経系統、消化器系統、感覚器官、循環器系統、呼吸器系統、筋肉組織、秘尿器、内分泌腺、リンパ系統などから成っているという時の細分する方式)。分析したいろいろな観念を再び一つの大きな観念に総合する方式が総合である(例えば、神経系統、消化器系統、感覚器官、循環器系統、呼吸器、泌尿器などが合一したものが人体であるというときの思考方式)。一つの判断の意味を変えないようにしながら主語と述語を換える操作を換位という(例えば、「すべてのAはBである」を「あるBはAである」とすること)。そして一つの肯定判断を否定判断にするとき、その述語を矛盾概念に換えて意味が変らないようにする操作を換質という(例えば、「AはBである」を「Aは非Bでない」とすること)。

説明が少し長くなったが、「考え」が内的授受作用であることを理解するのに助けになるようにするためであった。

授受作用の類型

以上で、いろいろな種類の考え(回想、判断、意見、想像、理解、推理など)が、いろいろな方式の観念操作にすぎなかったことが理解できよう。そして観念操作とは、まさに授受作用のことである(図1—10参照)。そのことを具体的に説明する。

観念の操作が授受作用であるということを理解するためには、まず授受作用の類型を理解する必要がある。それは両側意識型(第一型)、片側意識型(第二型)、無自覚型(第三型)、他律型(第四型)、対比型(対照型:第五型)の五つの型の授受作用をいう。

両側意識型とは、主体と対象が共に意識をもって行う授受作用をいう。片側意識型とは、主体だけが意識をもっており、対象は無機物あるいは無生命の存在であるとき、その両者の間で行われる授受作用をいう。無自覚型とは、主体と対象の間で、無意識的に行われる授受作用(例えば、動物と植物間の二酸化炭素と酸素の交換)をいう。他律型とは、両者が共に無生命の存在であって、第三者から与えられた力によって行う授受作用(例えば、製作者の意志に従って動く機械)をいうのである。

そして対比型とは、認識または判断の場合に形成されるものである。そのとき片側意識型の場合と同様に主体だけが意識をもっているが、主体が複数の対象あるいは対象の複数の要素を比較しながら認識(判断)するのである。例えば、道を歩いている一組の男女を眺めて、二人の年齢や身ぶりなどを比較または対照してみて彼らが夫婦であると判断すること、店で商品を眺めて比較しながら良いものを選ぶこと、緑の森の中に赤い瓦屋根の家があるのを見て調和の美を感じることなどは、みな対比型の授受作用である。対比による判断は主体が一方的に行っているが、それが授受作用であるのは、主体は対象に関心をもち、対象は主体に自身の姿を見せることによって、授け受ける作用になるからである。

考え(思考)も対比型の授受作用である

先に考え(思考)は授受作用であると説明したが、実はこの対比型の授受作用であったのである。すなわち人間の場合、心の中で知情意の統一体である霊的統覚(内的性相)が主体となって、内的形状の中の経験から得られたいろいろな観念を対比しているのである。霊的統覚が対比するとき、二つの要素の中の一つを主体として、他の一つを対象として両者を対比するのであり、そこにおいて、霊的統覚の関心が両者の間を往来するために、内的形状内の対比される任意の二つの要素間の作用も一種の授受作用と見られるのである(それは狭い意味での対比型の授受作用である)。結局、霊的統覚と内的形状との授受作用も対比型の授受作用であり、内的形状内の対比される任意の二要素間の作用も対比型の授受作用なのである。

授受作用(対比)の結果はどうなるであろうか。両者が完全に一致する場合もあり、ただ似ている場合もあり、一致しない場合もある。時には正反対になる場合もある。また両者が対応関係になる場合もあり、そうでないこともある。そして授受作用は目的を中心としてなされるために、目的によっても結果は異なる。そのような多様な結果を予想しながら、霊的統覚はできるだけ一定の方向へ授受作用を調整していく。これがまさに考えるということの内容なのである。考えには、回想、理解、判断、推理、希望などいろいろあるが、それらは授受作用の目的と対比の方式の違いによるのである。そのようにして、多様な考えが水が流れるように継続的につながっていくのである。

ところでこの考えの流れは、いったんまとめられる。すなわち創造しようとする被造物の鋳型(模型)になる観念(単純観念と複合観念)が決められる。それを「鋳型性観念」と呼ぶことにする。これは対比型の授受作用によって新生体が形成されたことを意味する。すなわち創造に関する鋳型は新生体としての「新生観念」なのである。しかしこれはまだロゴス(構想)としての新生体ではなく、その前段階である。したがってこれを「前ロゴス」(Pre-logos)または「前構想」ということができよう。新生観念である鋳型性観念は、その観念に必要な概念、原則、数理などの要素をみな備えており、緻密な内部構造までも備えた具体的な観念なのである。そのように新生観念が形成される段階が内的授受作用の初期段階である。そして実際の被造物に対するロゴス(構想)は後期段階において立てられるのである。

目的が中心である

以上で、考えとは心の中で行われる内的授受作用であることを明らかにしたが、それは授受作用であるために目的が中心となっている。人間の考えには目的のない漠然としたものも少なくないが、神は創造の神であるから、神の考え(構想)には初めから目的があった。それがまさに心情に基づいた創造目的(全体目的と個体目的)であった。

神が創造を考える前段階、すなわち心情を中心とした四位基台(自同的四位基台)だけの段階もあったが、心情は抑えがたい情的な衝動であるために、自同的四位基台の上に必然的に創造目的が立てられ、発展的四位基台が形成されたと見なければならない。創造後にも自同的四位基台(神の不変性、絶対性)が発展的四位基台の土台となっているという事実がそのことを裏づけている。そのように神の構想は、目的があって立てられたのである。

これは、とても重要な事実を示している。なぜならば、これもまた現実問題解決の重要な一つの基準となるからである。すなわち人間は、いかなる考えでもするようにはなっていないこと、本然の人間においては、必ず心情を動機として、創造目的の達成のために考えるようになっていることを意味するのである。したがって今日の社会的混乱を収拾するためには、自己中心的な恣意的な思考パターンを捨てて、本然の思考パターンに戻り、愛を動機とした創造目的の実現すなわち地上天国実現のために考え、行動しなければならないのである(29)。

5 結果=構想

結果とは何か

次は結果、すなわち構想について説明する。内的発展的四位基台の結果の位置に立てられる構想とは、具体的にいかなるものであろうか。すでに「内的授受作用」においても構想を扱ったが、その構想は「考える」という意味の構想、すなわち内的授受作用と同じ意味の構想であった。しかし、ここでいう構想は、考えた結果としての構想であって、ヨハネによる福音書一章一節にある言すなわちロゴスを意味する。それは神性の一つであるロゴスのことである。神性のロゴスのところですでに構想と理法に関して説明した。それにもかかわらず、ここで再び論ずるのは、そこで扱ったのは構想(言)としてのロゴスというよりは理法としてのロゴスであって、ここで少し説明を補充する必要があるからである。そこでロゴスに関して要点を再び紹介し、続いて若干の補充を行うことにする。

『原理講論』によればロゴスは言または理法であるが、言は構想、思考、計画などであり、理法は理性と法則の統一である。理性には自由性と目的性があり、法則性には必然性と機械性がある。したがって理性と法則の統一である理法は、自由性と必然性の統一、目的性と機械性の統一でもある。そのような理法によって宇宙万物が創造されたために、万物の中に理法が入っており、万物相互間にも、理法が作用している。そして自然界に作用している理法が自然法則であり、人間生活で守られなければならない理法が価値法則(規範)なのである。

自由性と必然性の統一が理法であるということは、自由は必然つまり法則の中での自由であり原理の中での自由であること、すなわち原理の中での理性の選択の自由であることを意味する。したがって原理や法則を無視した自由は実は放縦である。すでに述べたように、言も理法も共にロゴスであるが、言の一部が理法なのである。また理法は言と共に、神の二性性相に似た神の対象であるから(『原理講論』二六五頁)、一種の新生体であり、被造物である。そして創造は心情を動機としているから、理法も愛が土台となっているということ、したがって自然法則や価値法則の背後にも愛が作用しているということも明らかにしたのである。さらに、日常生活において理法は必ず守られなければならないが、温かい愛の中で理法が守られる生活であってこそ、そこに初めて百花が咲き乱れる春の園のような平和が訪れるということも明らかにしたのである。

構想としてのロゴス

以上が神性で扱ったロゴスの要点である。しかし、そこでは主として理法としてのロゴスを扱ったのであり、言すなわち構想としてのロゴスのことは詳細には扱わなかった。そこで構想としてのロゴスに関して具体的に説明することにする。

すでに内的授受作用の説明の中でも構想を扱ったが、それは新生体(結果物)としての構想ではなく、主として考えるという意味の構想、すなわち授受作用としての構想、観念の操作としての構想であった。そのとき、観念の操作の意味をもつ構想のほかに、新生体の意味をもつ「前構想」という概念についても、すでに触れた。すなわち創造を目的とした対比型の授受作用の結果、形成された新生体としての、概念、原則、数理などを備えた、緻密な内部構造をもった、よりいっそう具体化された鋳型(霊的鋳型)、つまり模型としての新生観念(鋳型性観念)について述べた。

しかしそのような構想は、神が宇宙を創造した言としての構想ではなくて、ただその前段階にすぎないのである。それは写真と同じような静的映像にすぎず、映画のような生動感のある動的映像ではない。それは文字どおりの設計図である。しかし、神が宇宙を創造した言であるロゴスは生命が入っている生きた新生体であり、生きた構想なのである。ヨハネによる福音書一章にはその事実が次のように書かれている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものはこれによってできた。……この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ一・一—四)。

ロゴスは構想体である

そのように万物を創造した言は、生命をもった生動する構想体であった。それは観念の操作の段階で形成された新生体としての緻密な内部構造を備えた新生観念(鋳型性観念)に生命が与えられて、動的性格を帯びるようになったものである。では、いかにして静的な性格をもった新生観念が動的性格を帯びるようになったのであろうか。内的授受作用における初期と後期の二段階の過程によってそうなったのである。すなわち霊的統覚(知情意の統一体)と内的形状との授受作用に初期段階と後期段階の二つの段階があるのである。その初期段階において、観念の操作によって新生観念(前構想)が形成される。そして後期段階において、心情(愛)の力によって知情意の機能が注入され、新生観念が活力すなわち生命を得るようになって、完成された構想として現れるのである。

ここで明らかにしなければならないことは、知情意の中に可能性として含まれていた陽性と陰性が、後期段階において表面化されて、知情意の機能の発現に調和的な変化を起こすという事実である。そのようにして完成された構想が神の対象であるロゴスであり、二性性相を統一的にもったロゴス、つまり「ロゴスの二性性相」(『原理講論』二六五頁)なのである。それがまさに宇宙を創造した言としてのロゴスであり、内的発展的四位基台の結果である構想なのである。

ロゴスの二性性相とは、内的性相と内的形状の二要素がロゴスの次元と種類によって、必要なだけ内包されていることを意味する。すなわち内的性相である知情意の機能と、内的形状である観念、概念、原則(法則)、数理などが、創造される万物の次元と種類に従って、それぞれ各様にロゴスの中に含まれている。それは内的授受作用の後期の段階において、すでに観念の操作によって形成された前構想の中に、心情の衝動力によって知情意の機能がそれぞれ次元を異にしながら注入され、前構想を活性化させたということである(30)。

6 内的発展的四位基台説明の要約

以上で内的発展的四位基台に関する説明をひとまず終える。しかし説明が長すぎたり、滑らかでなかった点がなきにしもあらずである。そこで理解を助けるために、その内容を要約して再び紹介することにする。

内的発展的四位基台の中心

内的発展的四位基台は、創造において外的発展的四位基台の前に造られる四位基台である。四位基台の中心である目的は心情に基づいて立てられるが、それは愛の対象として人間をつくり、人間を通じて愛を実現しようとすることである。したがって人間の被造目的は互いに愛し合うのはもちろん、神を愛し万物を愛することにあるのである。しかし堕落することによって、そのような人間になれなかったために、今日の大混乱が引き起こされているのである。したがってこのような混乱を収拾する道は、すべての人間の目的を本然の被造目的に一致させることである。

内的発展的四位基台の主体

内的発展的四位基台の主体の位置に立つのは内的性相である知情意の三機能であるが、その三機能は統一を成している。そしてその三機能に対応して真美善の三価値が立てられ、三価値に対応して三大文化領域が立てられる。神は宇宙創造において創造目的を実現しようと知情意のすべての機能を投入し、全力投入された。それゆえ今日の危機に瀕している文化を救い、新文化を創造するためには、三大文化領域の知性人や学者たちは統一された理念を中心として立ち上がらなければならない。人間の知情意は肉心の知情意と生心の知情意が統一された統一心である。同時に、知情意も統一されており、その統一の面を特に強調した場合、知情意の統一体を霊的統覚という。それが人間をして霊的存在たらしめ、同時に、自我意識をもつようにせしめているのである。肉心の機能は衣食住および性の生活すなわち物質生活を追求するものであり、生心の機能は真美善の価値生活を追求するものである。そこにおいて、生心による価値生活の追求を先次的にし、肉心による物質生活の追求を後次的にするのが本然の人間の生活の姿勢なのである。

内的発展的四位基台の対象

内的発展的四位基台の対象の位置にあるのは内的形状である。すなわち観念、概念、原則、数理などの形の要素である。その中で概念、原則、数理などは創造において、みな観念の中に統一されている。そしてその観念は鋳型のような役割をしている。そのとき、単純観念が鋳型になったり、複合観念が鋳型になったりする。創造において、鋳型(霊的鋳型)は緻密な内部構造をもっている。そして鋳型に注がれる融液(霊的融液)に相当するものが前エネルギーすなわち本形状である。創造に関連する鋳型の数は無数にあり、それぞれ形が異なっている。その一つ一つが個別相なのである。個別相は人間においては個人ごとの個別相であるから、鋳型の役割は一回限りで終わる。しかし万物の個別相は種ごとのものであるから、一つの鋳型は一つの種全体の創造を網羅しているのである。

内的授受作用

内的発展的四位基台の内的授受作用は、目的を中心とした内的性相と内的形状との授受作用であるが、それは考えること、構想することを意味する。考えにはいろいろな種類があるが、大きく分けて、過去に関する考え(記憶、回想など)、現在に関連した考え(意見、判断、推理など)、未来に関する考え(計画、希望、理想など)に類別することができる。考えの最も基本要素は観念すなわち心の中に蓄えられた映像であって、考えとはこの観念をいろいろ操作する過程なのである。観念の操作には、想起、連合(複合)、分析、総合、構成、換位、換質などのいろいろな方式がある。

内的発展的四位基台における内的授受作用とは、要するに観念操作のことである。授受作用は主体である内的性相(霊的統覚)と対象である内的形状との間で行われるが、それは対象内のいろいろな観念をいろいろな方式で操作することである。観念の操作は観念と観念の対比を通じて行われる。すなわち内的授受作用には観念と観念の対比が伴っている。したがって、これは主体(霊的統覚)と対象(内的形状)間の授受作用であるが、対比的性格を帯びた片側意識型の授受作用であり、一種の対比型の授受作用なのである。

内的発展的四位基台の結果

最後に、結果の位置に立てられる構想について要約する。結果としての構想は内的授受作用で扱った構想とは異なっている。後者は考えるということ、すなわち作用を意味し、前者は授受作用の結果として現れた新生体を意味するのである。その新生体としての構想がまさにロゴスであり、万物を創造した神の言である。

内的授受作用には初期と後期の二段階があるが、初期の段階では内的形状内の観念の操作によって新生観念が形成される。それは一種の新生体であり構想であるが、それは構想の前段階としての前構想であって、生動性のない静的映像にすぎない。宇宙を創造した言としての構想は生命が入っている生きた新生体である。それは内的授受作用の後期段階において、心情の衝動力によって霊的統覚である知情意の機能が新生観念に注入されることによって、その観念が活性化され、生命を得るようになり、完成された構想として現れたものである。その構想がまさに二性性相をもったロゴスなのである。その構想の中には理法の要素も含まれている。理法は理性と法則の統一であり、自由性と必然性の統一であるが、それに関しては神性のロゴスのところで比較的詳細に扱ったので、ここでは省略することにする。

(4) 外的発展的四位基台

1 外的発展的四位基台とは何か

これは、外的四位基台と発展的四位基台を組み合わせたものであって、本性相の外部での授受作用すなわち本性相と本形状の授受作用の土台となっている外的四位基台が発展性、運動性を帯びるようになったものをいう。

すでに述べたように、発展とは、新しい性質をもつ個体すなわち新生体が生まれることをいう(発展は創造を結果の面から把握した概念である)。したがって発展的四位基台とは、創造目的を中心として主体と対象が授受作用を行い新生体を生じる時の四位基台を意味するのである。そのように外的発展的四位基台は、本性相の外部に形成された外的四位基台が発展性を帯びることによって、発展的四位基台になったものである。

先に述べたように外的発展的四位基台は、内的発展的四位基台に続いて形成される。すなわち本性相を中心として見るとき、自同的四位基台の場合と同じように、発展的四位基台も本性相の内外で形成されるが、自同的四位基台の場合のように同時的ではなく継続的である。まず内的な基台が形成され、次に外的な基台が形成されるのである。

2 内的発展的四位基台の基盤の上に形成される

四位基台とは、要するに心情または目的を中心として授受作用を行い、結果が生じる現象を空間的概念として表現したものである。したがって、内的および外的発展的四位基台も授受作用として理解すればよい。発展とは、創造を結果の面から把握した概念であるから、発展的四位基台を理解するためには、創造や製作がいかになされるかを調べればよいのである。そのことを人間の場合を例に取って説明する。

人間は何かを造ろうとするとき、まず心において構想する。例えば家を建てようとすれば、一定の目的を立てて、構想し、計画書や青写真を作る。計画書や青写真は構想を忘れないように紙面に表しただけで、やはり構想なのである。それが先に述べた内的授受作用、すなわち創造の第一段階である。

次に、創造の第二段階が始まる。これは構想に従って建築資材を用いて建築工事を行うことである。そして一定の時間ののちに、目的とした建物を完成する。そのように建築資材を用いて、構想どおりに家を建てることも授受作用であるが、これは心の外で行われる授受作用であるから外的授受作用である。

考えられた構想も以前にはなかった新しいものであり、造られた建物も以前にはなかった新しいものであって、いずれも新生体である。そのような新生体の出現は動機から見れば創造であり、結果から見れば発展である。外的授受作用において、主体は構想(実際は構想をもった人間、またはその人間を代理した他の人間)であり、対象は建築資材などである。そして主体と対象の授受作用が建築工事の遂行であり、授受作用の結果が完成された建物である。

画家が絵を描く場合を例に挙げよう。画家はまず一定の目的を立てて、構想する。時にはその構想を素描として表すこともある。それが第一段階である。構想が終われば、第二段階の作業が開始される。すなわち画幅、筆、絵の具、画架などの画具を使いながら、画家は構想したとおりの絵を描く。そして絵が完成する。

ここにおいて第一段階の構想も授受作用であり、第二段階の絵を描くことも授受作用である。そして第一段階の構想も、第二段階の絵も、いずれも以前にはなかった新しい結果であるから新生体である。そのように、絵を描くことも創造であり発展なのである。

3 すべての創造は二段階の発展的四位基台によってなされる

ここで、次のような事実が明らかになる。第一に、創造には必ず二段階の過程があるということである。第二に、第一段階は内的な構想の段階であり、第二段階は外的な作業の段階であるということである。第三に、二段階の授受作用がいずれも同一の目的を中心として成され、必ずその結果として新生体を造るということである。ここで、第一段階は内的発展的授受作用の段階であり、第二段階は外的発展的授受作用の段階である。

このような一連の原則はすべての創造活動に適用される。すなわち生産、製作、発明、芸術など、いかなる種類の創造活動にも例外なく適用される。それは、その基準が神の原相にあったからである。それが本性相の内外の授受作用、すなわち内的発展的授受作用と外的発展的授受作用である。神はまず一定の目的を立てて、万物の創造を構想したあと、材料に相当する形状(前エネルギー)を用いて、構想したとおりに万物を造られた。ここで神が構想する段階が内的発展的授受作用の段階であり、実際に万物を造る段階が外的発展的授受作用の段階である。

以上、人間の創造や製作には必ずその前に構想がなければならないということ、したがって外的発展的授受作用には必ずその前に内的発展的授受作用がなければならないということを明らかにした。そして人間の構想の時の授受作用の原型は、神の原相内の授受作用であったのである。

原相内の授受作用は、必ず四位基台を土台として行われる。それゆえ四位基台の別名が授受作用であり、授受作用の別名が四位基台である。したがって神の創造において、内的発展的授受作用が必ず外的発展的授受作用に先行するということは、内的発展的四位基台が必ず外的発展的四位基台に先行して形成されることを意味するのである。言い換えれば、創造においては必ず内的発展的四位基台と外的発展的四位基台が連続的に形成されるのである。これを「原相の創造の二段構造」という。これを図に表せば図1—11のようになる。人間の場合、現実的な創造活動の時にも、内的および外的な四位基台が連続的に形成される。そして人間の創造活動において、連続的に形成される二段階の四位基台を「現実的な創造の二段構造」というのである。

ここで次のような疑問が生ずるかもしれない。すなわち「創造には必ずまず構想が立てられなければならない」というように、分かりやすく表現すればよいのに、なぜ内的発展的四位基台とか、外的発展的四位基台とか、二段構造などの難しい表現を使うのか、統一思想はなぜ分かりやすい言葉も難しく表現しようとするのか、という疑問である。結論から言えば、それは統一思想が天宙の根本原理を扱っているからである。

根本原理とは、霊界と地上界を問わず、存在世界に現れるすべての現象に共通に適用される根本理致をいう。この根本理致すなわち原理は深くて広い内容を含んでいるが、それを表す用語はできるだけ簡単なものでなくてはならない。その例の一つが「二性性相」すなわち「性相と形状」である。この用語は人間の心と体を表す用語であるだけでなく、動物、植物、鉱物、さらには霊人体や霊界のすべての存在がもっている相対的属性を表す用語である。そのように二性性相の意味は大変深くて広いのである。しかし二性性相の用語はそのままでは理解しがたいので、易しく詳細に説明する必要があるのである。そして時には例えや比喩も必要である。統一思想において扱う根本原理は五官で感じられない神と霊的世界に関するものが大部分であるから、なおさらそうである。

ところで、例えや比喩を挙げながら行う説明は、ただ根本原理を明らかにする手段にすぎず、根本原理それ自体ではない。根本原理それ自体はあくまでも神の「二性性相」または「性相と形状」なのである。同様に、「授受作用」、「四位基台」、「二段構造」なども根本原理に関する概念すなわち基本概念であるので、それらの用語を取り除くことはできない。「内的発展的四位基台」、「外的発展的四位基台」、「創造の二段構造」なども、そのような根本原理を含んだ概念である。

さらには「一分一秒を惜しみながら生きなければならないこの忙しい時に、そのような難しい概念をわれわれが学ばなくてはならない必要がどこにあるのか」という疑問もありうるであろう。それは、そのような基本概念を正しく把握することによってのみ、現実のいろいろな難問題を根本的に解決することのできる基準が明らかになるからである。

4 外的発展的四位基台の構成要素

次は、再び本論に戻って、「外的発展的四位基台」の説明を継続する。先に人間の創造活動において、外的発展的四位基台は必ず内的発展的四位基台の次の段階として形成されるので、そのような二段階過程を「現実的な創造の二段構造」といったが、神の創造においても、同様な創造の二段構造が形成される。本性相の内外において形成される内的発展的四位基台と外的発展的四位基台がそれである。これは原相内において創造の時に形成される四位基台であるから、「原相の創造の二段構造」という。

原相内の内的発展的四位基台については、すでに「内的発展的四位基台」の項目で詳細に説明したので、ここでは説明を省略する。ただ内的発展的四位基台の四つの位置において、中心の位置には目的が立てられ、主体の位置には内的性相(霊的統覚)、対象の位置には内的形状、結果の位置には構想が新生体として立てられるということと、主体と対象の授受作用は考える過程すなわち観念の操作の過程であるということを想起するだけにする。

原相内の外的発展的四位基台も四つの位置、すなわち中心、主体、対象、結果から成るのはもちろんであるが、そのとき中心は内的な四位基台の場合と同様に心情に基づいた創造目的であり、主体は本性相であり、対象は本形状である。そして授受作用によって形成される結果は新生体としての被造物である。次にこの四つの位置、すなわち中心、主体、対象、結果の位置にそれぞれ立てられるところの、目的、本性相、本形状および被造物に関して具体的に説明することにする。目的は、内的発展的授受作用の場合の目的すなわち創造目的と同じであるから、ここでは省略し、主体=本性相、対象=本形状、外的授受作用、結果=被造物の項目に分けて説明する。

主体=本性相

原相の外的発展的四位基台は本性相と本形状との授受作用の基台である。ここに本性相が主体の立場にあるのは言うまでもないが、本性相は、具体的にいかなるものであろうか。それはまさに、内的発展的四位基台の結果の立場にある構想である。すなわち目的を中心として内的性相と内的形状が内的授受作用を行って、新生体として現れたみ言であり、ロゴスであり、構想である。ここに内的授受作用は考えること、すなわち思考の過程である。

すでに述べたように、内的授受作用の過程には前段階と後段階の二段階がある。前段階は観念の操作が進行する過程であって、そこにおいて前構想が形成される。そしてあとの段階では霊的統覚から知情意の機能が、その属性である陽性・陰性の影響を受けながら前構想に注入されて、前構想が生命をもつ完成した構想として現れるようになるのである。そのようにして完成した構想がまさに二性性相をもつロゴスなのである。そのようにしてロゴスは新生体として本性相の内部に形成されたものであるが、主体(本性相)と対象(本形状)の授受作用において、霊的統覚に保持されながら、主体として作用するのである。

ここで明らかにしておきたいことは、内的授受作用によって内的性相である霊的統覚(知情意の統一体)が内的形状内に形成された新生観念に注入されるとしても、霊的統覚自体は本来無限性を帯びた機能であるから、その一部が新生観念の中に注入されたのちにも、依然として内的性相としての知情意の統一的機能はそのまま維持しているということである。したがって本性相と本形状間の授受作用において、主体としての本性相は霊的統覚に保持された状態にあるロゴスなのである。

対象=本形状

すでに「神相」のところで説明したように、本形状は無限応形性の究極的な質料的要素である。質料的要素とは、被造物の有形的要素の根本原因を意味し、無限応形性とは、あたかも水の場合と同じように、いかなる形態でも取ることのできる可能性を意味するのである。

質料的要素は物質の根本原因であるが、科学の限界を超えた究極的原因なので、統一思想ではこれを前段階エネルギー、または簡単に前エネルギーと呼んでいる。次に述べるように、水が容器に注がれれば容器の形態を取るように、本形状が本性相の構想の鋳型(霊的鋳型)の中に注入されて、現実的な万物として造られるようになるのである。

外的授受作用

次は、外的授受作用について説明する。神の性相と形状の授受作用によって万物が創造されたという統一原理や統一思想の主張が正しいことを明らかにしようとするのである(31)。外的授受作用も四位基台を土台として行われる。そのとき分かれていた主体と対象が再び合わさって一つの新生体、すなわち万物になるというように説明したが、それはあくまでも理解を助けるための方便的な説明であった。神は時間と空間を超越しているから、神の世界には内外、上下、遠近、広狭がない。大中小もなく無限大と無限小が同じである。また先後がないので過去、現在、未来がなく、永遠と瞬間が同じである。

時空を超越した神の世界で授受作用が行われているのであるが、その授受作用を説明の便宜上(理解の便宜上)、主体と対象が同一空間を重 畳的に占めながら授受作用を行っていると見ることができる。例えば、人間の霊人体(主体)と肉身(対象)は、空間的に離れていたものが一つになったというのではなく、本来から同一の空間を重畳的に占めていながら授受作用をしているが、それと同じだということができよう。そのような観点から、原相内の外的授受作用を同一空間を重畳的に占めている主体と対象間の授受作用と見て、また授受作用によって生じた新生体である被造物もやはり同一空間を重畳的に占めていると見て、論理を展開することにする。

すでに述べたように、外的発展的四位基台の主体である本性相は霊的統覚に保持された状態にある新生体としてのロゴスであり、対象である本形状は無限応形性をもった前エネルギーである。このような主体と対象が重畳して同一空間を占めたまま授受作用を行い、新生体である被造物(例えば、馬のような動物)を産出(創造)するようになるが、そのとき産出された被造物も同一の空間を重畳的に占めると見るのである。以上で授受作用が行われる四位基台の四つの位置は、分かれている四つの位置ではなく、四つの定着物を重ねている一つの位置である。その一つの位置において、互いに重なったまま、目的を中心として主体と対象が授受作用を行い、その結果物として被造物が生じたと見るのである。

それでは授受作用の具体的な内容を説明することにする。重畳した状態での授受作用とは、本形状である前エネルギーが本性相内に形成された構想(ロゴス)の鋳型(霊的鋳型)の中にしみ込むということである。先に述べたように、本性相内の内的授受作用の初段階において形成された緻密な内部構造を備えた新生観念としての鋳型性観念が、次の段階で心情の衝動によって生命を賦与されて現れたものが完成した構想であった。この完成した構想は生命をもつ鋳型性観念であり、生きている鋳型である(32)。この鋳型は初期段階の緻密な内部構造を備えた鋳型性観念が後期段階で活力を与えられたものである。しかしいくら活力を与えられたとしても、そしていくら内部構造が緻密であるとしても、鋳型(霊的鋳型)であることには違いない。したがって実際の鋳型に鉄の融解液を注入して鉄製品を造る場合と同じく、この鋳型性観念の中にも必ず融解液に相当する本形状の質料(前エネルギー)が注入されうる空間があるようになっているのである。

言い換えれば、鋳型の空間は必ず融解液が入って満たされるようになっているのである。本性相と本形状の間にこのような現象が行われるとき、それがまさに授受作用なのである。すなわち本性相の鋳型性観念内の緻密な空間に、本形状の質料的要素が浸透して満たすのが授受作用なのである(そのとき、本形状の中に可能性として潜在していた属性である陽性と陰性が表面化され、質料的要素の浸透の流れに調和的な変化を起こす)。なぜこのような現象が授受作用になるかといえば、本性相は鋳型の空間でもって本形状に質料の浸透の機会を提供し、本形状は質料でもって空間を満たすことによって、その空間の存在目的を果たすようになるからである。

以上、理解を助けるためにいささか模型的に表現したが、このような作用が同一の位置において、主体と対象が重畳した状態でなされたのである。これが神の宇宙創造において、原相の内部でなされた外的発展的授受作用の真の内容であったのである。

ここで一つ付け加えることは、この授受作用は片側意識型の授受作用であるということである。なぜならこの授受作用において、主体は知情意の統一体である霊的統覚(鋳型性観念を含む)であり、対象は本形状(質料)であるからである。

結果=被造物

結果としての被造物は、創造目的を中心として本性相と本形状が授受作用をすることによって形成された新生体である。それが『原理解説』(一九五七年、韓国語版)に書かれた「被造世界は二性性相の主体としておられる神の本性相と本形状が創造原理によって形象的または象徴的な実体として展開された……神の実体対象である」(二五頁)という文章の中の「実体対象」であり、「神の二性性相をかたどった個性真理体」(同上、二五頁)であり、「主体と対象の二性性相の実体的展開によって創造された被造物」(同上、二四頁)なのである。そして『原理講論』に書かれた「被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に分立された、神の実体対象である」(四七—四八頁)というときの「実体対象」なのであり、「このような実体対象を我々は個性真理体と称する」(同上、四八頁)というときの「個性真理体」なのである。

そこにおいて統一原理(『原理解説』および『原理講論』)でいう「実体対象」や「個性真理体」という概念は、被造物を見る観点によって表現を異にする概念である。「実体対象」は、客観的、物質的側面を浮き上がらせた概念であり、ロゴスのように心に描かれた観念的な対象ではなくて、三次元の空間的要素を備えた客観的、物質的な対象であるという意味である。それに対して「個性真理体」は、被造物が神の二性性相に似たものであるという側面を浮き上がらせた概念である。被造物はすべて相似の法則によって創造されたために、例外なく個性真理体なのである。

相似と外的授受作用

被造物が神の二性性相をかたどったというとき、外的授受作用の観点から見て、その相似の内容は具体的にいかなるものであろうか。すでに説明したように、被造物は本性相と本形状が創造目的を中心として授受作用をした結果として現れた新生体であった。そのとき、本性相は生きている鋳型性観念を保持した霊的統覚、または霊的統覚に保持された生きている鋳型性観念であり、本形状は質料的要素である。そして生きている鋳型性観念がロゴス、すなわち二性性相を帯びたロゴスである。

ロゴスの二性性相とは内的性相と内的形状の二要素をいうが、そこにおいて内的性相は知情意の機能であり、内的形状は観念の操作によって形成された新生観念としての鋳型性観念を意味する。すなわちロゴスは知情意の機能と鋳型性観念が複合された新生体なのである。したがって最終の新生体である被造物の中に含まれた本性相の部分は、内的性相に相当する霊的統覚の一部としての知情意の機能と、内的形状に相当する鋳型性観念である。そして本形状の質料的要素はそのまますべて被造物に含まれている。それが「鋳型性観念の緻密な空間の中に本形状の質料的要素が浸透した」ということの意味なのである。そのように外的授受作用によって、本性相の要素と本形状の要素が被造物を構成したのである。

ここで一つ明らかにしておきたいことは、本性相と本形状はその属性である陽性(本陽性)と陰性(本陰性)を帯びながら被造物を構成したという事実である。そうして被造物はすべて、神の本性相と本形状の要素と、本陽性と本陰性の要素を帯びるようになったのである。

そして、本性相の中に含まれた鋳型性観念はそのまま個別相でもあった。結局、被造物は神の属性(本性相と本形状、本陽性と本陰性、個別相)をみな引き受けたという結論になる。そのような被造物(個体)を個性真理体という。それが統一原理でいう「被造物は神の二性性相をかたどった個性真理体である」ということの内容なのである。

ロゴスと被造物の関係

次は、ロゴスと被造物の関係について述べる。聖書には、神が万物を言でもって造られたと記録されているが(ヨハネ一・一—三)、その言がまさにロゴスであった(『原理講論』二六五頁)。ところが『原理講論』には、「ロゴスは神の対象」であり、「ロゴスの主体である神が、二性性相としておられるので、その対象であるロゴスも、やはり二性性相とならざるを得ない」(同上、二六五頁)、「もし、ロゴスが二性性相になっていないならば、ロゴスで創造された被造物も、二性性相になっているはずがない」(同上、二六五頁)とある。これは被造物の二性性相はロゴスの二性性相に似ており、ロゴスの二性性相は神の二性性相に似ているということを意味する。したがってロゴスの二性性相と神の二性性相が完全に同一なものであるかのような印象を受ける。

しかし統一思想から見るとき、神の二性性相は本性相と本形状であるが、ロゴスの二性性相は内的性相と内的形状である。すなわち神の二性性相とロゴスの二性性相は同じではない。したがって被造物が神の二性性相に似るというのは、神の本性相と本形状に似るという意味であり、ロゴスの二性性相に似るということは、ロゴスの内的性相と内的形状に似るという意味なのである。ここで万物が似ているロゴスの内的性相と内的形状とは、具体的にいかなるものであろうか。

すでに述べたように、ロゴスは、内的授受作用の後期段階において霊的統覚の一部が前段階で形成された新生観念(鋳型性観念)に注入されることによって生じた完成した構想であり、生きた構想であった。したがってロゴスの内的性相は、鋳型性観念の中に注入された一部の知情意の機能であり、内的形状は鋳型性観念それ自体なのである(33)。そのような内容をもつ内的性相と内的形状がロゴスの二性性相である。『原理講論』において、被造物の二性性相はロゴスの二性性相に似ているというときのロゴスの二性性相とは、まさにそのような内容の二性性相であったのである。

ここで指摘するのは、空間的な三次元の実体である被造物の姿がそのままロゴスの二性性相に似ているのではないということである。ロゴスは生きた構想であり、活力を帯びた観念にすぎない。それは動く映像のようなものであり、夢の中で会うようなものである。人間や万物がロゴスの二性性相に似ているということは、そのような生きた映像に似ていることを意味する。夢の中の人間や万物は物質的な体をもっていないが、その他の面では現実の人間や万物と似ている。それが物質的な体まで備えた存在になるためには、神の二性性相に似なければならない。すなわち神の本性相と本形状に似なければならないのである。

それでは、いかにすれば神の本性相と本形状に似るようになるのであろうか。それは外的授受作用によって、本形状である質料的要素(前エネルギー)が本性相である生きた鋳型の緻密な空間の中へ浸透することによって、似るようになるのである。そのような授受作用を通じて、動く映像が物質的な体を備えるようになり、現実的な実体となるのである。そしてそのとき被造物は、神の二性性相に似た被造物となるのである。

以上で神の二性性相とロゴスの二性性相が具体的にどのように違うか、明らかにされたと思う。それと同時に、被造物が神の二性性相に似ているという場合と、ロゴスの二性性相に似ているという場合の、その違いも明らかになったと思う。次は、授受作用に関連した正分合作用について説明する。