1原相論 従来の本体論と統一思想

三 従来の本体論と統一思想

神または宇宙の根源に関する理論、すなわち本体論は、一般的に思想体系の基礎を成すものとして知られている。したがって現実問題にいかに対処するかということも、大概、本体論によってその糸口を探すことができるのである。それではいくつかの本体論の要点を簡単に紹介しながら、それらと現実問題との関係を明らかにする。

アウグスティヌスおよびトマス・アクィナスの神観

アウグスティヌスは神を精神と見て、その神が無から質料をつくり出し、世界を創造したと主張した。アリストテレスの形相と質料の原理を継承したトマス・アクィナスは、質料をもたない純粋形相の中で最高のものを神とした。アウグスティヌスと同様に、トマスも神は世界を無から創造したと見た。

このような神に対する理解は、現実問題といかに連結するのであろうか。このような神観は、精神を根源的なもの、物質を二次的なものと見るから、物質的な現実世界を二次的なものとして軽視し、精神の世界、霊的な世界のみを重要視する傾向があった。そして、死後の世界における救いのみを重要視する救援観が長くキリスト教を支配してきたのである。ところが現実には、物質を無視した生活は不可能である。そのためにキリスト教徒の生活は、信仰上では物質生活を軽視しながら、現実的には物質生活を追求せざるをえないという相互矛盾の立場に立たざるをえなかった。そのように、キリスト教の神観では地上の現実問題の解決は初めから不可能であったのである。地上の問題は、大部分が物質問題と関係しているからである。

キリスト教の神観が現実問題の解決に失敗せざるをえなかった根本原因は、第一に、神を精神だけの存在と見て、物質の根源を無としたことにあり、第二に、創造の動機と目的が不明なことにあった。

理気説

宋代の新儒学において、周濂渓(1017-73)は宇宙の根源を太極であるといい、張横渠(1020-77)は太虚であるといった。これらはみな、陰陽の統一体としての気のことであった。気とは質料といってもよいものである。したがって、これは唯物論に近いものであった。

しかるに程伊川(1033-1107)によって、万物はすべて理と気から構成されているとする理気説が唱えられ、のちに朱子(1130-1200)によって大成された。理とは現象の背後にある無形の本体を意味し、気とは質料を意味した。朱子は、理と気のうち、理がより本質的なものであると見て、理は天地の法則であるのみならず、人間の内にある法則でもあると説いた。すなわち天地の従っている法則と人間社会の倫理法則は、同一の理の現れであると見たのである。

このような思想に基づいた現実生活の営みの方向は、天地の法則に合わせようとするために調和の維持に重点を置くようになり、社会的な倫理に基づいた秩序維持に偏重するようになった。またすべてを法則に委ねるあまり、自然や社会の変化や混乱に対して傍観的態度をとる傾向が生まれ、自然を支配し、社会を発展させようとする創造的、主管的な生き方、すなわち能動的な改革の方式は軽視される傾向が生じた。理気説においても現実問題を解決しえなかったのである。その失敗の根本原因は、なぜ太極や理気から万物が生まれるようになったのか、その動機と目的が明らかでなかったところにあるのである。

ヘーゲルの絶対精神

ヘーゲル(G.W.F. Hegel, 1770-1831)によれば、宇宙の根源は絶対精神としての神である。神は絶対精神でありながら、同時にロゴスであり概念であった。概念は矛盾を媒介としながら、正反合の三段階の弁証法的発展形式に従って自己発展していくとヘーゲルは考えた。概念が自己発展して理念の段階にまで至ると、自己を疎外(否定)して自然として現れる。やがて理念は弁証法的発展を通じて人間として現れるが、人間を通じて理念は自身を回復し、数多くの段階の発展過程を経たのちに、最後に絶対精神として自己を実現する。すなわち最初に出発した自己自身(絶対精神)に復帰する。したがって人間の歴史は概念(ロゴス)の自己実現の過程である。そして理性国家の段階に至ったとき、自由が最高度に実現され、人間社会は最も合理的な姿になると考えた。

このようなヘーゲルの哲学に従えば、世界と歴史はロゴスの自己実現の過程であるから、人間社会は弁証法的発展形式に従って必然的に合理的な姿になるようになっていた。彼はこのような方式に従ってプロシアに理性国家が実現すると信じていた。したがって結果的に、非合理的な現実を必然の法則に任せて、傍観してもよいという立場になってしまったのである。

また自然を理念の他在形式として見る彼の自然観は一種の汎神論になっているのであり(36)、現実問題の解決はいっそう難しくなっている。そればかりでなく、それはたやすく無神論的なヒューマニズムや唯物論に転換しうる素地をもっていた。さらに矛盾を発展の契機と見ることによって、マルクス主義のような闘争理論を生じせしめる素地をもっていたのである。つまり、ヘーゲルの哲学はプロシア社会の現実問題の解決に失敗したのであり、かえってマルクス主義のような無神論哲学を出現させる結果を招いてしまったのである。それは彼が神をロゴスと見て、創造を弁証法による自己発展であると見たところに原因があるのである。

ショーペンハウアーの盲目的意志

ショーペンハウアー(A. Schopenhauer, 1788-1860)は、ヘーゲルの合理主義・理性主義に反対して、世界の本質は非合理的なものであり、何の目的もなく盲目的に作用する意志であるといい、それを「盲目的な生への意志」(Blinder Wille zum Leben)と呼んだ。人間はこの盲目的な意志によって左右されながら、ただひたすら生きるべく強いられている。そのために人間は常に何かを求めながら、満足することなく生きているのである。満足と幸福はつかの間の経験にすぎず、真に存在するのは不満と苦痛であって、この世界は本質的に「苦の世界」であるといった。

このようなショーペンハウアーの観点から必然的に生じる思想が厭世主義(ペシミズム)であった。すなわち彼は芸術的観照や、宗教的禁欲生活によって、苦悩の世界からの救いを試みたが、それは現実問題の解決はおろか、かえって現実からの逃避の理論になってしまったのである。

ショーペンハウアーが現実問題の解決に失敗したのは、第一に、神の創造と救いの摂理の真の内容が分からなかったためであり、第二に、この世界が悪の支配する世界であることが分からなかったためである。

ニーチェの権力意志

ショーペンハウアーが世界の本質は盲目的な生への意志であるといって、生に対して悲観的態度を取ったのに対して、ニーチェ(F. Nietzsche, 1848-1900)は世界の本質を「権力への意志」(Wille zur Macht)であるとして、徹底的に生を肯定する態度を取った。ニーチェによれば、世界の本質は盲目的な意志ではなく、強くなろう、支配したいという強力な意志、すなわち権力への意志である。ニーチェは権力への意志を体現した理想像として「超 人」を立てて、人間は超人を目指して、生の苦痛に耐えながら、いかなる運命にも耐えていかなければならないと主張した。同時に彼は、「神は死んだ」と宣言して、キリスト教を根本的に否定した。キリスト教道徳は強者を否定する奴隷道徳であって、生の本質に敵対するものと考えたのである。

その結果、伝統的な価値観が全面的に否定された。そればかりでなく、ニーチェの権力意志の思想は、力による現実問題の解決へとつながった。それでのちに、ヒトラーやムッソリーニなどが、ニーチェの思想を権力維持のために利用することになったのである。つまり、ニーチェも現実問題の解決に失敗したのである。

ニーチェの失敗は、言うまでもなく、真の神を否定したことにある。彼が否定しなければならなかった神は、偽りの神であって真の神ではなかった。ところが彼が知っていた神は偽りの神であって真の神でなかったにもかかわらず、彼は真の神までも否定してしまったのである。結局、彼は初めから失敗せざるをえなかったのである。

マルクスの弁証法的唯物論

マルクス(K. Marx, 1818-83)は弁証法的唯物論の立場から、世界の本質は物質であり、事物の中にある矛盾(対立物)の闘争によって世界は発展していると主張した。したがって社会の変革は、宗教や正義の力によってではなく、階級闘争によって、暴力的に、物質的な生産関係を変革することによってなされると主張した。弁証法的唯物論による革命理論も、現実問題の解決の一つの方案であった。

マルクスによれば、人間は支配階級か被支配階級のどちらかに属する階級的存在であるとされた。そして人間は、被支配階級であるプロレタリアートの側に立って革命に参加するときにのみ、人格的価値が認められるのである。そこには人格を絶対的なものとして尊重する価値観はなかった。したがってマルクス主義の指導者は、革命において利用価値がない人間、あるいは革命に反対する人間を何ら良心の呵責なく虐殺することができたのである。

そして今日、マルクス主義に基づいた共産主義体制は、東ヨーロッパやソ連においてついに崩壊してしまった。マルクスの弁証法的唯物論による革命理論も現実問題の解決に完全に失敗したのである。その原因は、第一に真の神を知らず無条件に神を否定したためであり、第二に暴力は必ず暴力を生むという天理を無視して、暴力による改革を主張したためである。

統一思想の本体論

以上見たように、宇宙の根源をいかに把握するか、あるいは神の属性をいかに理解するかによって、人間観、社会観、歴史観が変わり、それによって現実問題の解決の方法が変わるのである。したがって正しい神観、正しい本体論を立てることによって、現実の人生問題、社会問題、歴史問題を正しく、そして根本的に解決することができるという結論になるのである。

統一思想の本体論すなわち原相論によれば、神の最も核心的な属性は心情である。心情を中心として、性相の内部で内的性相(知情意)と内的形状(観念、概念など)が授受作用を行い、さらに性相と形状(質料)が授受作用を行っている。そのようにして神は存在しているのである。そして心情によって目的が立てられると、授受作用は発展的に進行し、創造がなされるのである。

しかるに従来の本体論では、理性が中心であったり、意志が中心であったり、概念が中心であったり、物質が中心であったりした。そして精神または物質だけが実体であるという一元論が現れたり、精神と物質が両方とも宇宙の実体であるという二元論が現れたのであった。統一思想から見るとき、従来の本体論は神の属性の実相を正しく把握しえず、また属性相互間の関係を正しくとらえることができなかったのである。

統一思想の本体論によって、神の創造の動機と目的、神の属性の一つ一つの内容が詳細に明らかにされ、属性の構造まで正確にまた具体的に紹介されることによって、現実問題の根本的な解決の基準が確立されるようになった。今残されている問題は、世界の指導者たちがそのことを理解し実践することである。