三大王権の表現が必要な理由

(三)三大王権の表現が必要な理由

ここで、次のような疑問が生じうる。すなわち慣例に従って、そのまま祖父母、父母、子女といえばよいのに、なぜ王といわなくてはならないのか、ということである。それは、王といえば最高に尊貴な位置であるからである。今まで、われわれは祖父母や父母や子女の概念をもっていたが、それらは創造本然の概念とは全く異なっていた。今までわれわれは原理を学んで、家庭の貴さや、父母、夫婦、子女の貴さを知っているが、神が見られる父母、夫婦、子女と、われわれが原理的に知っているものとは、まだとても大きな違いがあるのである。

王や王子などの用語は、最高の貴さを表している。すべての人間は、王のように最高に尊貴な存在である。われわれは原理を聞いたといっても、人間がどれほど貴いのか、実感をもって感じることはできなかった。その貴さは、ぼろの着物を着て、 賤民の中に隠れている王子に例えてみることができる。

逆臣の謀反によって王位を失い、父王のもとを離れて、みすぼらしい着物を着て、遠く山中の僻地に身を隠して住んでいる一人の不運な王子がいるとしよう。のちに、村の長老たちがこの事実を知って、「万乗の貴き方が、どうしたことでしょうか。われわれはつゆ知らず、お仕えすることができず、大罪を犯しました。不忠をお許しください」と謝りながら、それからは、王子に最高の真心を尽くし、最高の高い位置に立てて、最高に気持ちよく侍ったとしよう。そのとき、その王子が受ける最高の真心、最高の高い位置、最高の侍奉は、その王子の尊貴さを表すのである。それと同じように、神が見られる人間の価値はそのように、いやそれ以上に貴いのである。

父母も同じであり、祖父母も同じである。今までわれわれが知っていたような概念の祖父母や父母や子女では決してない。非常に貴い概念の祖父母であり、父母であり、子女である。そのように貴くて、尊厳で、栄光なることを表現するためには、「王」という概念を用いるしかない。地上において王は、地位や身分において最高だからである。それゆえ理想世界において、人間はそのように貴い存在であって、そこに祖父母と父母と子女がいるので、三大王という概念で表現したのである。

したがって、いくら子供であっても、父母は彼らをむやみに扱ってはいけない。王が王子に対するように、自分の子供に対さなければならない。この世の王も、自分の息子を世継ぎに定めたなら、王子がいくら幼くても、その言葉をいたずらに無視したりしない。たとえ息子の言葉が理屈に合わないようであっても、その言葉に耳を傾けるのである。そのように、未来社会において子供をいたずらに無視してはならない。そして子供たちは、父母を王や王女として、祖父母を大王と大妃(霊界の王と王女)として侍らなくてはならないのはもちろんである。

王権とその概念
王には王が持つべき権勢すなわち王権が与えられているので、祖父母、父母、子女の王権を三大王権という。三大王に与えられた権限という意味である。そのような観点で、われわれは自分の家族や他人の家族を再認識しなければならない。家族は王のように貴いのであり、家庭はまさに王宮となるのである。

王宮において、王は地上の王位を子供に譲ってからは、祖父母となり、大王として、霊界と神を代表する家庭の中心の位置にとどまるようになる。そして家庭は、王宮のように尊貴な場所となるのである。したがって、家法は王宮の法となる。真の父母の家庭がまさにその標本となる。そして理想世界になれば、すべての家庭は真の父母の家庭に似るようになる。

最後に、王権における権力の概念について説明する。権力とは、主管の対象に対して一種の恐ろしさを与えて、対象を主管の主体に服従させようとする力のことをいう。世俗的な権力(主権)は物理的な拘束力である。例を挙げれば、警察力や軍事力などを用いて国民を強制的に主権の前に服従させる権威である。しかし天国の権力は、対象が自ら感謝の心をもって主体に従うようにさせる力のことであって、そのような力はまさに神の真の愛の力なのである。

ところで、天国の権力すなわち真の愛も、対象に恐ろしさを与える権威をもっている。それは神の真の愛に背いたり、逆らう時の生命の死に対する予感からくる恐ろしさである。愛は生命の源泉であり、愛の喪失は生命の喪失すなわち生命の死とつながるために、主体の愛を無視したり、逆らう時には、その結果(生命の死)を潜在意識が感知して、恐ろしさを感じるようになるのである。神の愛を限りなく喜びながらも、恐ろしさを感じるのはそのためである。

そこに共産世界における主体(独裁者)に対する人民の服従と、天国における主体に対する国民の服従との差異があるのである。共産世界の独裁者は恐怖の手段でもって人々の生命を脅かしながら、人民を強制的に服従させてきたが、神の国においては、真の愛によって、国民が喜んで自ら主体に服従するようになるのである。そこに、両世界の根本的な差異があるのである。

しかし、服従しなかったとき、生命に不利益を受けるという点においてはどちらも同じである。共産世界では、独裁者に服従しなければ、すぐさま地上で生命が脅かされたり、粛清されたりするが、天国では主体の愛の命令に従わなければ、その程度によって、軽くあるいは重く、そしてまた、その場であるいは一定の期間ののちに、生命の萎縮あるいは脅威を感じるようになるのである。このように、愛にも権威があることが分かるのである。

神の権威に対する聖書の記録を見れば、アブラハムが献祭の失敗により、その蕩減として、ひとり子のイサクを供えものとして捧げるとき、神が「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」(創世記二二・一二)といわれた聖句がある。これは神の愛に威厳(恐しさ)が伴っていることを表す聖句である。

このように、世俗的な権力は強制性をもつ拘束力であるが、神の国の権力は自発的な従順を誘発する真の愛の力である。王権は行使されるものである。三大王権の行使とは、祖父母と父母と子女が、それぞれこのような真の愛の力を絶えず対象に施すことを意味するのである。