三大主体思想

2020年7月6日
二 三大主体思想

三大主体思想は、文先生によって使用され始めた用語であるが、ここで三大主体とは、父母と師(先生)と主人をいう。三大主体は、言い換えれば、三大中心を意味する。父母は家庭の中心であり、師(先生)は学校の中心であり、主人は主管の中心である。ここで主管の中心とは、団体、企業体、会社、国家などの中心を意味しており、管理、統治の責任者を意味している。したがって団体の長(例:組合長、政党党首、連合会会長など)や、企業体や会社の社長、道知事、国家の大統領などが、みな総括的に主人の概念に含まれる。このような主体に関する理論が三大主体思想であって、この三大主体が神の真の愛を実践するという理論である。

神の真の愛

神の愛とは、要するに神の絶対愛をいう。神は絶対者であるために、神の愛は絶対的愛である。ここでいう絶対とは、世俗的な意味の絶対とは異なる。ここでの絶対は、永遠不変性、無限性、普遍性をいう。神は永遠的存在であり、存在しないところがない(無所不在)のであって、いつでも、どこでも存在されるのである。したがって神の愛もまた永遠であり、存在しないところがないのである。このような内容をもつ愛が絶対的愛であり、真の愛である。

例えていえば、真の愛は太陽光線のようである。太陽光線は地球上のどこでも照らさない所がなく、常に休みなく継続して永遠に照らしている。それと同じく、真の愛とは、包括的であり、全人類だけでなく、すべての万物に対してまでも、施し与えられる愛である。被造物全体が真の愛の対象である。真の愛の対象から除外される存在は、この宇宙にはない。普通、愛といえば、人間同士が与えて受ける愛のことをいうが、真の愛とは、人間同士はもちろん、敵までも、ひいては万物までも愛する、そのような愛である。

人間は上下、前後、左右にいろいろな階層の人々とつきあっている。上には父母、上司、年長者たち、下には子供、部下、年少者たち、前には先生、先輩、指導者たち、のちには弟子、後輩、追従者たち、右には兄弟姉妹、親友、同僚たち、左には自分と性格の合わない者、または自分に反対する者までも対しながら生活している。そのようないろいろな階層の人々をすべて愛するのが真なる愛である。そればかりでなく、自然万物までも愛するのが真なる愛である。そして、そのような神の真なる愛を実践に移そうとするのが三大主体思想である。

それでは愛とは何であろうか。愛とは、人間や万物に温情を施しながら、その対象を喜ばせることであり、対象のために与えることである。自分のためではない。世俗的な愛は、自分の利益を得るために他人を愛する利己的な愛であるが、文先生の教える愛とは、「愛において、何も得ようとするのではなく、ただ他人のために与えること」である。そのように、愛とは温情を他人に限りなく施すことであるが、いかなる方式で施すかといえば、「親しく話す」とか、「相手を理解する」とか、「物質や金銭を与える」、「協助する」、「奉仕する」、「助ける」、「苦境から救う」、「抱擁する」、「怨讐を許す」、「親切に教える」など、いろいろな愛の方式があるのである。そのような方式で、温情を施しながら、他のために与えて、また与えるのが真なる愛である。したがって、このような精神を利他主義、または為他主義という。

三大主体の真なる愛

そのように神の真なる愛とは、他のために与えて、また与える愛である。限りなく与えて、また与えるのである。ちょうど温泉の泉が限りなくわいてくるように、限りなく、また絶え間なく、他人に温情の泉を注ぐのである。そのような愛を三大主体が日常生活において実践するという思想が三大主体思想である。すなわち、父母がそのような神の真なる愛を子女に対して実践すること、また師がこのような神の真なる愛を弟子に対して実践すること、そして主人の立場にある者が部下や構成員たちに対して神の真なる愛を実践することである。

ところで、真の愛をいかに実践するのであろうか。主体の役割を通じて真の愛を実践するのである。父母の子供に対する役割は子供を養育することである。ここで「養」とは子供を育てること、すなわち食べさせ、着せ、寝かせ、住居を与えることである。そのような役割を通じて真の愛を施すのである。すなわち食べさせ、着せ、住ませながら、父母の愛すなわち温情を施すのである。食べさせるにも温情をもって食べさせ、着せるにも温情をもって着せ、寝かせるにも温かい心をもって寝かせるのである。次に、「育」とは教育することである。家法を立てて、礼儀作法や倫理、道徳を正しく教え、また必要な知識も教えるのである。ここにも父母の深い温情が必要である。

そのように父母が子女の養育を通じて、神の真なる愛を施すのである。子供を愛するのは、子供が成長したのちに父母が子供から利益を得ようとするためであってはいけない。子供を育て、学ばせて、将来、子供を通じて金もうけをするとか、権力を得ようというような考えを持ってはいけない。子供が善なる立派な人間、人格を備えた知識人、奉仕することを知る社会人になることをひたすら願いながら、温情に満ちた養育をするのが父母の役割である。そのような養育を通じた愛の実践が父母の真なる愛の実践である。

そして師の役割は教えることである。知識教育、技術教育、体育、芸育などがそうである。そのような教育を通じて、親切に、真心を込めて生徒を育てることである。生徒たちから質問があれば誠意をもって答え、生徒たちに難しい問題があれば可能な限りその難問を解決できるように助けながら神の真の愛を実践するのが、師の役割を通じた真の愛の実践である。ただ収入のために教えるのは、知識を売買することにほかならない。そのような方式では絶対に正しい教育となることはできない。そこには愛が宿るはずがないからである。金を得るのは二次的な問題として、真心を込めて学生に教えることを最優先の目標としなければならない。そしてその教えは、学生が成長したのち、社会に奉仕しうる人格の所有者になることのできる内容でなければならない。そのためには、先生自身が、まず人格的な姿勢、奉仕の姿勢をもたなければならない。そのような姿勢でもって、すべての真心と温情を施しながら、学生に教えるのが師の真なる愛である。すなわち師の真の愛とは、そのような師の役割を通じて愛を実現することである。

次は主人の役割を通じた主人の愛について説明する。主人の役割とは何であろうか。大統領の役割は、国民をよく治めて国民がよい生活をするようにすることであり、道知事の役割は道民のために道政を円満に行うことであり、企業体の長の役割は従業員や職員たちのためによく与えることである。ここで企業体の場合について、もう少し具体的に説明しよう。企業体の長は部下や従業員たちに仕事ばかりさせて、自分だけ金をたくさんもうけて蓄財しようという考えは捨てなければならない。企業体であるから、お金をもうけなければならないが、もうけてからは必ず与えなければならない。未来社会の企業は、与えるためにもうける精神が要求されるのである。 企業体の主人は利他主義の奉仕精神をもち、温情をもって各級の職員や従業員たちのために与え、愛さなければならないのであり、衣食住の問題において困難に直面していないかと、彼らの世話をしなければならない。それが愛による主管である。主管には部下に命令するという主管もある。命令それ自体は冷たいものであるが、温かい温情の心をもって命令すれば、命令を受ける部下は感謝の心でもって受け入れるのであり、命令は温かく感じられるのである。

ところで主管には建物や施設の管理も含まれる。聖書には、人間に対する神の三大祝福に関する記録があるが、その中の第三祝福は、愛でもって万物を主管せよという命令である。一次産業、二次産業、三次産業、そして物質を扱うすべての活動は万物主管の概念に含まれるが、主管は必ず愛でもって行うのである。したがって建物や施設も私の物である前に、公的なもの、神のものであると見なければならないのである。

それで財産や施設を真心を込めて管理し、維持、保存する精神も、「愛で万物を主管する」という主管精神であり、管理精神である。このごろ深刻に取り上げられている公害問題は、みなこのような本然の主管精神、管理精神が失われたために生じた必然的な結果である。そのような万物に対する愛の精神、すなわち主管精神、管理精神も、やはり主人の真なる愛である。

以上を要約すれば、三大主体がその役割を通じて神の真なる愛を実践するという理論が三大主体思想なのである。

一つの中心の三主体性、および三大主体思想

一つの中心の三主体性とは、一つの中心が父母、師、主人の三主体の役割と愛を同時に行うことをいう。父母と師と主人の機能はそれぞれ別のものであるが、父母は同時に師であり、主人で あるということである。

父母は、単独で三主体の役割を通じた真の愛を実践するのである。すなわち父母は、主として父母としての役割を果たしながら、師の役割、主人の役割まで果たしつつ、対象を温情をもって愛するのである。学校の先生は、主として先生の仕事を行いながら、父母として学生を子女のように養育し、また主人として部下のように治めなければならない。また主人は主管し、管理し、治めるなどを主にしながら、父母としての役割や師としての役割も果たし、部下や従業員に愛を施すのである。例えば管理者(主人)は、管理することのほかに、子供を養育するような心で、従業員に対して寝食をはじめとして、いろいろな便宜を図ることに常に関心を示しながら、温情を施さなくてはならないのである。また師の立場に立って、部下や従業員に規範や知識を教えることもなさなければならないのである。

そのように、一つの主体または一つの中心が三主体性を同時に遂行するということが三大主体思想である。すなわち、父母の三主体性、師の三主体性、主人の三主体性の実践に関する思想が三大主体思想である。

すでに述べたように、自己中心的に何かの利益を得ようとするのではなくて、他人に限りなく与えようとするのが真の愛である。そして真の愛のもう一つの特徴は「完全投入して忘れること」である。与えてまた与えるのであるが、そのとき与えたことを完全に忘れてしまうのである。どんなにたくさん愛したとしても、そのことを忘れてしまって、私が愛したという考えをしないのである。

忘れてしまえば、心が空になり、謙虚になるのである。私があの人をたくさん愛したのに、なぜ反応がないのか、けしからんというような心を抱けば、私は傲慢になってしまう。一度、心が傲慢になれば、次からは真なる愛を与えるのが難しくなる。それゆえ、愛を施しては忘れなければならないのであり、そうしてこそ、また愛したい思いがわき上がってくるというのである。神の真なる愛が、その空になった心を満たすからである。このようにして、いつも新しい気分で愛し、また愛するようになるのである。父母も先生も主人も、みなそのようにしなければならないというのが、すなわち真なる愛である。

愛の拡散

三主体の愛、すなわち父母の子女に対する愛、先生の学生に対する愛、主人の部下に対する愛は「下向性の愛」であるが、その下向性の愛が注がれれば、それは愛の誘発効果を引き起こす。

父母が子女に真の愛を与えるならば、子女はじっとしていない。子女は父母の愛に感銘して、感謝の心をもって、父母に孝行するようになる。父母が真心を込めて愛するので、子女は親に真心を込めて孝行したくなるのである。それは「上向性の愛」である。また子女が父母の真の愛を受ければ、父母に対する孝行の心はもちろんのこと、子女相互間、すなわち兄弟姉妹同士を互いに愛するようになる。これは「横的な愛」(水平の愛)である。そればかりでなく、息子と嫁すなわち夫婦同士も真の愛すなわち夫婦の愛を授受するようになるが、これも横的な愛である。したがって父母の愛によって、上向性の愛と横的な愛(水平の愛)が誘発されて、家庭が愛で満たされるようになる。したがって家庭において、父母の愛(下 向性の愛)が最も重要である。

学校における先生の愛も同じである。先生の真の愛(下向性の愛)を受ける学生たちは、自動的に先生を心から尊敬するようになる。「本当に私たちの先生は偉大で立派な方である」と考えて、先生の前に自然と頭が下がるようになるのである。学生たちは、知的な欲望が満たされて、先生の教えに感化される。そして先生を尊敬せざるをえなくなるが、それは上向性の愛である。そればかりでなく、先生の真なる愛に感銘して、学生同士が愛し合うようになる。すなわち横的な愛を授受するのである。このような誘発効果を起こすのが、また先生の愛(下向性の愛)である。

数年前、ある大学で学生が先生を殴るという、かんばしくない事件があった。そのとき、新聞はみな学生たちを非難した。それ自体は間違いではないが、問題の接近方式を知らない論評であった。学生の過ちは二次的な問題であり、一次的な責任は先生にあったのである。これは殴られた先生個人の問題ではない。一般的に、先生たちが平素から三主体性の役割と真の愛を実践し、師道を行っていたならば、学生たちが先生を殴るというようなことがありえたであろうか。その時の学生たちの暴行は、「先生はなぜ自分たちを正しく教えてくれなかったのか」という不満の表現形態であったといえるのである。

また、学生たちの父母にも責任がある。父母が子女に平素から下向性の愛を与えていなかったに違いないからである。だから、父母と同じような先生を尊敬したいという考えが出てくるはずがないのである。したがって「学生の教師に対する暴行」という問題の対処は、この三大主体思想でもってこそ、なされるのである。

すでに述べたように、三大主体の愛は、父母が子供に、師が弟子に、主人が部下に与える愛、すなわち下向性の愛であるが、この下向性の愛が原則的に先である。このような下向性の愛によって、二次的に誘発されて表れる愛が上向性の愛と水平の愛である。

愛は誘発効果と相互反応を起こすから、例えば下位者の上向性の愛がまずなされても、それに対する反応としてのちに上位者の下向性の愛が誘発されうるということはもちろんである。すなわち、子供が先に父母に孝行し、弟子が先に師を尊敬し、部下が先に上司(主人)を尊敬することによって、それぞれ父母の愛、師の愛、主人の愛が後次的に誘発されるのも事実である。しかし原則的に、下向性の愛が先次的であって、上向性の愛や横的な愛(水平の愛)は後次的である。なぜならば、下向性の愛が先である場合には、上向性の愛と水平の愛は一〇〇パーセント誘発されるが、上向性の愛が先の場合には、下向性の愛が一〇〇パーセント誘発されるという保証はないからである。それは、水平の愛においても同じである。そのように真なる愛の出発は下向性の愛にあるのである。真なる愛の根源が神であるからであり、神からは、すべてがまず下りてくるからである。

したがって例えば、一企業体の長が従業員たちを真に愛すれば、従業員たちは受けてだけいて、だまっているということはできない。必ず反応するようになる。すなわち企業主(社長)が温情をもって、多くもうけただけ、従業員たちにたくさん与えようと、たゆまず努力すれば、従業員たちは企業主を仰ぎ見て、感謝するようになる。そのような企業主がもし困難に直面したとする ならば、従業員たちは「自分たちの給料は上げなくてもよいです。その費用で工場をもっと発展させてください」というようになるのである。そのように企業主が真の愛を施しさえすれば、従業員たちは企業主を愛するようになり、従業員相互間にも愛がゆきわたる。そればかりでなく、従業員は工場の施設や器物までも愛するようになる。そのように主体の愛(下向性の愛)、すなわち父母の愛、師の愛、主人の愛がいつも先次的なのである。

そのようにして、真なる愛が家庭に拡散し、学校に拡散し、企業に拡散すれば、結局、このような愛が全国に拡散し、ひいては全世界にまで拡散するようになって、この地球村は神の愛で充満していくのである。そのとき、初めて地上のすべての犯罪は跡形もなく消えていき、真なる平和、永遠なる平和が実現されるのである。

三大主体の根源は神である

三大主体思想において、三大主体の根源はどこにあるのかという疑問が生じるであろう。それはまさに神である。すべての主体の根は神であるからである。主体の中で最も代表的な主体がこの三大主体であり、その根がまさに神である。

まず神は人間の父母である。われわれがお祈りするとき、神を父または天のお父様と呼ぶが、ある人は天のお母様と呼んだりする。神は陽陰の原理をもっておられるから、人間の父母なのである。そして神は、人間を息子・娘として造られたのである。堕落のために人間は罪人となったが、本来人間は決して罪人ではなく、神の息子・娘である。したがって神は、人間の父母であると同時に真なる愛の本体である。そして神は、ロゴスでもって宇宙を創造された。それは、ヨハネ福音書の一章一節以下に記されているとおりである。ロゴスは真理であり、言である。したがって神は、真理の主体である。真理の主体とは、師を意味する。すなわち神は、愛の主体であると同時に真理の先生でもあるのである。さらに神は、宇宙の創造主であるが、創造主は同時に主管の主人である。

最も根源となる父母、師、主人のことを韓国古来の表現でいえば、「君師父」である。君は国の主人、師は先生、父は父母に相当する。韓民族は、古来そのような君師父の思想をもっていたが、その君師父の根がまさに神である。神御自身が父母であり、師であり、主人であるために、 君師父は文字の順序が違うだけで、まさに三大主体と同じ意味の用語である。

韓国の愛国歌に「ハヌニムが保護されるわが国万歳!」という句があるが、ここでハヌニム(天)はまさにハナニム(神)と同じ意味の創造主である。神は何でもってこの国を保護してくださるのであろうか。父母の真なる愛、師の真なる愛、主人の真なる愛で保護されるのである。そのように父母、師、主人、すなわち君師父の根が神である。三大主体の愛は天道であり、天道は絶対的である。したがって三大主体思想は絶対的であり、絶対に滅びることはない。この天道に背いた者、この思想を守らなかった者があればかえって被害を受けるようになるのである。

今日、社会がこのように混乱しているのは何のためであろうか。三大主体の愛、すなわち天道を守らなかったからである。われわれは自然法則に逆らうと肉体の被害を受けるので、自然法則を守りながら生きている。それと同じように、心は天道に従って生きなければならない。そして三大主体思想は神に根をおく天道であるから、守らないわけにはいかない。守れば平和になり、守らなければ混乱が生じるのである。従来の宗教が愛を強調した理由はここにあったのである。

仏教は慈悲を行うように教えたのであり、儒教は仁を、キリスト教は愛を行うように教えたが、なぜそうしなければならないかということが、今日まで明らかにされなかった。それは、慈悲や仁や愛の根が神の真なる愛だからである。神の真なる愛であると同時に、三大主体の愛であるからである。父母と子女の関係を規定する儒教の三綱五倫も、三大主体思想の中にみな含まれる。仏教の修道に関する徳目も、キリスト教の愛の徳目もそうである。愛に関する聖賢たちのすべての主張や教えは、みな例外なく、三大主体の愛のカテゴリーの中に含まれるのである。

今日、従来の価値観が衰退するようになったのは、慈悲や仁や愛の根が神の真なる愛であることを知らなかったからであり、これらが三大主体の愛の形態として現れたものであることを知らなかったからである。言い換えれば、従来のすべての宗教の徳目の根が神の真なる愛であり、したがってすべての徳目の内容は三大主体の愛に基づいていることが明らかになるとき、従来のすべての徳目が活性化される。そして、今日の人類の心を指導することができる能力を再び回復できるようになるのである。

共生共栄共義主義および理想家庭の理念との関係

次は、三大主体思想と共生共栄共義主義の関係、および三大主体思想と理想家庭の理念の関係について説明する。共生共栄共義主義は、未来社会(理想社会)の経済的、政治的体制の特徴を表す用語である。すなわち共義主義(共同倫理)によって運営される経済体制であり、政治体制であるという点が未来社会体制の特性となっている。同時に、共義主義の実質的な内容は、三大主体思想の実践であり、三大主体思想の最も核心部分は理想家庭の理念なのである。したがって以上を要約すれば、未来社会は理想家庭の理念を基礎とし、三大主体思想を内容とする共義主義によって運営される経済および政治体制の社会なのである。

新しい価値観の定立

終わりに、このような三大主体思想を基礎として新しい価値観が立てられるという点について説明する。三大主体の真なる愛の行為と、その愛によって誘発されるすべての対象の愛の行為、すなわち下向性の愛の行為と、上向性の愛の行為、および横的愛の行為などを倫理的側面から見れば、それは真なる善となるのであり、知的、教育的側面から見るとき、その行為は真なる真となるのであり、芸術的側面から見るとき、その行為は真なる美となるのである。行為に関する限り、真、善、美は分かれているのではない。真なる愛の行為が、評価する角度によって真となり、善となり、美となるのである。そして従来のすべての徳目にこの新しい価値観、すなわち三大主体思想を注入すれば、それらの徳目が活性化され、蘇生するのである。