4価値論 従来の価値論の脆弱性

六 従来の価値観の脆 弱 性

すでに述べたように、今日の価値観の崩壊の原因の一つは従来の価値観——主として宗教的価値観——が説得力を失ったことにある。それでは、いかにして従来の価値観は説得力を失ったのであろうか。

キリスト教の価値観の脆 弱 性
キリスト教には、次のような聖句に表される立派な徳目がある。

「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・三九)
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ五・四四)
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」
(マタイ七・一二)
「こころの貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちはさいわいである。彼らはなぐさめられるであろう。
柔和な人たちはさいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちはさいわいである。彼らは飽きたりるようになるであろう。
あわれみ深い人たちはさいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちはさいわいである。彼らは神を見るであろう。
平和をつくりだす人たちはさいわいである。彼らは神の子とよばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」
(山上の垂訓、マタイ五章)
「このようにいつまでも存続するものは信仰と希望と愛とこの三つである。このうちで最も大いなるものは愛である」(第一コリント一三・一三)
「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する立法はない」(ガラテヤ五・二二—二三)

ところで「愛は人の徳を高める」(第一コリント八・一)とあるように、徳目の基礎になっているのが愛である。そして「愛は神から出たものである。……神は愛である」(第一ヨハネ四・七—八)とあるように、愛の基礎になっているのが神である。

ところが近代に至って、ニーチェ、フォイエルバッハ、マルクス、ラッセル、サルトルなどによって、神の存在が否定された。そして神を否定するそのような思想に対して、キリスト教は有効的に対処できなかった。すなわち有神論と無神論の理論的対決において、キリスト教は敗北を重ねてきたのである。その結果、多くの若者たちが無神論のとりこになってしまった。

さらにキリスト教価値観に対する共産主義の意図的な挑戦があった。共産主義は、キリスト教のいう絶対的愛とか人類愛を否定し、真の愛は階級愛または同志愛であると主張した。利害が対立している社会において、階級を越える愛はありえないと見るからである。人間はプロレタリアートの側に立つか、ブルジョアジーの側に立つか、二者択一である。したがって、人類愛といっても、それは言葉だけのことであって、実際には階級社会において人類愛を実践することはできないと主張したのである。

このような主張を聞けば、確かに階級愛のほうが現実的であり、キリスト教の愛は観念的であるかのように思われる。ことに愛の源泉である神の存在に確信がもてないというような状態では、従来のキリスト教の神観または愛観に説得力がありえないのは、あまりにも当然である。

また今日、第三世界において解放神学や従属理論が台頭したのも無理のないことであった。解放神学によれば、イエスはその時代の抑圧された人々、貧しい人々を救うために来られた方であり、革命家であった。したがって真のキリスト者は社会革命のために立ち上がらなくてはならないと説いた。そしてキリスト者の貧民への同情が、共産主義の階級愛と符合して、現実問題の解決において共産主義と提携する必要さえあるという主張までなされたのである。

従属理論によれば、第三世界の貧困は先進諸国と第三世界との構造的矛盾からくる必然的な結果であって、第三世界が貧困から解放されるためには、第三世界は先進諸国すなわち資本主義諸国と対決しなければならないと説いた。そして解放神学と同様に、従属理論も共産主義との提携を図ったのである。

解放神学や従属理論には、共産主義のような確固たる哲学、歴史観、経済理論がない。したがって、結局は共産主義に引き込まれていかざるをえない。ところがキリスト教は、このような事態に対して、何ら適切な処置を講ずることができなかったのである。

儒教の価値観の脆 弱 性
儒教には次のような徳目がある。

① 五 倫…古来、「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」の五つは人倫の基礎とされ、孟子によってさらに強調された。
② 四 徳…孟子は仁義礼智の四徳を説いた。のちに漢の董 仲 舒はこれに信を加えて、仁義礼智信という五常の道を立てた。
③ 四 端…孟子によれば、惻隠の心(他人を思いやる心)、羞悪の心(不義を憎む心)、辞譲の心(譲り合う心)、是非の心(善悪を分別する心)を四端というが、それぞれが仁義礼智の基本であると見なした。
④ 八条目…格物、致知、誠意、正心、修 身、斉家、治国、平天下
⑤ 忠 孝

これらの徳目の基礎となっているのは仁であり、仁の基礎になっているのが天であった。ところが儒教において、天とは何か、明確に説明されていないのである。

共産主義者は、「土台と上部構造」の理論を適用して、儒教の教えは封建時代において、支配階級が一般大衆を従順に従わしめるために作り上げた階級支配の合理化のための手段にすぎず、したがって今日の権利の平等と多数決の原則を旨とする民主主義社会には合わないといって、儒教を批判した。その結果、儒教の徳目は今日ほとんど顧みられなくなった。しかも社会が都市化し、家庭が核家族化するにつれて、儒教的価値観はいっそう崩壊しつつあり、その結果、社会の無秩序と混乱が加重されたのである。

仏教の価値観の脆 弱 性
仏教の根本的な徳目は慈悲であるが、慈悲を実践するためには、修行生活が必要である。人間は修行生活を通じて声 聞(仏陀の説法を聞き四諦の道理を悟り、自ら修行完成者である阿羅漢の弟子となることを理想とする仏道修行者)、縁覚(仏陀の教えによらないで、自ら不生不滅の真理を悟り、自由の境地に到達した聖者)を通過し、菩薩(成仏するために修行に励む人の総称として、上に対しては仏陀に従い、下に対しては一切の衆 生を教化する仏陀に次ぐ聖人)、仏陀(自ら仏教の大道を悟った聖人)に至るのであるが、菩薩、仏陀の段階で慈悲を実践するようになる。声聞、縁覚では、まだ慈悲を実践するような段階ではない。

人間は、世の中のすべての事物が変化すること、すなわち無常であることを自覚せず、現実の生活に執 着している。それが苦の原因である。したがって苦しみを滅するためには、修行生活を通じて執着を去らなくてはならない。執着から離れ、苦しみから解き放たれることがすなわち解脱である。そのように解脱して無我の境地に入って、初めて真に慈悲を実践することができるというのである。

釈迦の思想を体系化したのが四諦八正道の教えである。四諦とは、苦諦、集諦、滅諦、道諦をいう。苦諦とは、現世の生はみな苦しみであるという教えである。集諦とは、苦しみの原因は執着(渇愛)であるという教えである。滅諦は、涅槃の境地(悟りの境地)を理想とする内容であり、苦しみから脱するためには執着を捨て去らなければならないという教えである。そして道諦は、涅槃に至る正しい修行の道があるという教えである。その道が八正道であるが、そこには次のような八つの徳目がある

①正   見………すべての偏見を捨てて、万物の真相を正しく判断せよ。
②正   思………正しく考えなさい。
③正   語………正しく話しなさい。
④正   業………殺生や盗みをしてはならない。
⑤正   命…… 正法に従って正しい生活を行いなさい。
⑥正 精 進………一心に努力して、まだ起きていない悪を生じさせないようにして善を生じさせるようにしなさい。
⑦正   念………雑念を離れて真理を求める心をいつも忘れてはならない。
⑧正   定…… 煩悩による乱れた考えを捨てて、精神を正しく集中させ心を安定させなさい。

人間に苦しみが生じてきた原因を追求し、十二項目の系列を立てたのが十二因縁(十二縁起)の教えである。それによれば、人間の苦しみの根本原因は渇愛であり、渇愛の奥に無明があるという。無明とは、真如に対する無知であり、苦痛や煩悩は本来のものではないということを悟らないことである。この無明から一切の煩悩が生ずるというのである。

大乗仏教において、菩薩になるために守らなくてはならない六つの徳目があるが、それが次のような六波羅蜜(六波羅蜜多)である。

①布 施………慈悲心をもって、他人に無条件に施すこと。
②持 戒………戒律を守ること。
③忍 辱………迫害を耐えること。
④精 進………仏道をたゆまず実践すること。
⑤禅 定………精神を統一すること。
⑥智 慧………正しいこと正しくないこと、善悪、是非を判断すること。

以上の八正道や六波羅蜜などの徳目の根本になっているのが慈悲である。そして慈悲の基礎になっているのが、宇宙の本体としての真如である。ところが今日、仏教の価値観も説得力を失っている。その原因は、仏教の教理に次のような問題点があるからである。すなわち、宇宙の本体であるという真如が具体的にいかなるものか明らかでないこと、諸法(宇宙万象)がいかにして生成(縁起)したか不明であること、無明はなぜ生じたかということに対する根本的解明がないこと、現実問題(人生問題、社会問題、歴史問題)の根本的解決は修道だけでは不可能であること、修行生活が現実問題の解決につながっていないことなどである。

その上に、共産主義による挑戦があった。共産主義者たちは次のように攻撃した。「現実社会には搾取、抑圧、貧富の格差、社会悪が充満しているが、その原因は無明にあるのではなくて、資本主義社会の体制的矛盾にあるのだ。仏教の修行は個人の救済のためであり、それは現実からの逃避、問題解決の回避ではないか。現実の問題を解決しないで修行するのは偽善でしかない」。そのように攻撃されると、仏教は他の宗教と同様、有効的な反論を提示できなかったのである。

イスラム教の価値観の脆 弱 性
イスラム教では、預言者の中ではマホメットが最も偉大であり、経典の中ではコーランが最も完全だと信じているが、アブラハム、モーセ、イエスなどをマホメットと共に預言者として信じている。そして、コーラン以外に、モーセ五書、ダビデの詩篇、イエスの福音書も経典としている。したがってイスラム教の徳目には、ユダヤ教やキリスト教の徳目と共通する点が多いのである。

イスラム教には、六信と五行という信仰と実践の教えがある。六信とは、神、天使、経典、預言者、来世、天命に対する信仰をいい、五行とは、信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼を行うことをいう。

信仰の対象はアッラーの神であって、アッラーは絶対、唯一であり、創造主であり、支配者である。アッラーはいかなる神であるかという問いに対して、イスラム教の神学者たちは九十九の属性を挙げているが、その中で最も基本的な属性としては「慈悲ぶかい」、「慈愛あまねき」を挙げることができる。したがって、イスラム教の徳目の中で最も基本的なものは慈悲または慈愛であるということができる。

このようにイスラム教の価値観には、本来、他宗教の価値観との共通性、調和性をもっているのであるが、現実においては、今日までイスラム教派内での教派間の争い、他宗派との戦いなど深刻な対立が多く見られた。そしてそのような対立に乗じながら、共産主義が浸透してきたのである。共産主義者たちは次のように批判した。「イスラム教のいう人類愛は現実的にはありえない。イスラム教派間の争いがそれを証明しているではないか。階級社会においては階級愛があるだけである」。こうして共産主義者たちは、イスラム教と他宗教との対立を利用しながら、一部のイスラム教国家を親共または容共に導いたのである。

そのようにイスラム教は内的に教派間において対立が見られるのみならず、外的に他の宗教(例えばユダヤ教、キリスト教)とも昔から深刻な対立関係にあったのである。同じ宗教の教派同士で、そして、共に神の創造と摂理を信ずる他の宗教とも深刻な対立を呈することは、それ自体、他の人々に対してイスラム教の価値観の説得力を喪失させているのである。

人道主義価値観の脆 弱 性
人道主義(humanitarianism)はヒューマニズム(humanism 、人本主義)と同じ意味で用いられる場合が多い。しかし厳密にいえば、人道主義とヒューマニズムは区別される。ヒューマニズムが人間の解放を目標として、人格の自主性を追求した思潮であったのに対して、人道主義には倫理的な色彩が強く、人間の尊重、博愛主義、四海同胞主義などを主張している。人間には動物とは異なって人間らしさがある。したがってすべての人間は尊重されなければならない、といった漠然とした考え方が人道主義である。しかし、人道主義において人間は何かという基本問題が明確に解明されていないのである。

したがって人道主義は、共産主義の攻撃に対して弱点を現してきた。例えば人道主義的な経済人がいるとする。共産主義者は彼に次のようにいう。「あなたは自分が知らないうちに労働者を搾取しているのだ。すべての人々がともに喜ぶことのできる豊かな社会をつくるべきではないか」。また人間として何より大切なことは、知識をもつことだと考えている青年がいるとする。すると共産主義者がやって来て彼にいう。「あなたは何のために勉強しているのか。自分の出世ばかり考えてはいけない。それは結局、ブルジョアジーのために奉仕する結果になるのだ。われわれは人民のために生きるべきではないか」。そのように批判されれば、良心的な青年であれば反論するのが難しく、共産主義者にはならないにしても、心の中では、共産主義理論には一理あると考えるようになるのである。そのように、人道主義的な価値観をもっている人たちは、共産主義者の攻撃に対してなすべきところがなかった。そして、今まで多くの人道主義者たちが共産主義にあざむかれたのであった。しかし、共産主義が崩壊した今日に至り、彼らは結局、共産主義が誤りであったことを悟ったのである。

以上、従来の価値観が今日、説得力を失ってしまった経緯が明らかになったと思う。それゆえ伝統的な価値観を回復する道は、確固とした神観の上に新しい価値観を定立することである。