価値論

第四章 価値論

今日の時代は大混乱の時代であり、大喪失の時代であると規定することができる。戦
争と紛争は絶えることなく、テロ、破壊、放火、拉致、殺人、麻薬中毒、アルコール中毒、
性道徳の退廃、家庭の崩壊、不正腐敗、搾取、抑圧、謀略、詐欺、中傷など、数え切れ
ない悪徳現象が世界を覆っている。このような大混乱の渦中において、人類の貴重な精
神的財産がほとんど失われつつある。人格の尊厳性の喪失、伝統の喪失、生命の尊貴
性の喪失、人間相互間の信頼性の喪失、父母や教師の権威の喪失などがそうである。

このような混乱と喪失をもたらした根本原因は何であろうか。それがまさに伝統的な価
値観が崩壊したということである。つまり真、善、美に対する伝統的な観点が失われてし
まったのである。中でも特に善に対する観念が消え失せて、倫理観、道徳観が急速に崩
壊しているのである。それではこのような価値観の崩壊の原因は何であろうか。

第一に、経済、政治、社会、教育、芸術など、すべての分野において、神を排除し、宗
教を軽視してきたためである。伝統的価値観のほとんどが、宗教的基盤の上に成立して
いるために、この基盤が崩れた価値観は必然的に崩壊するしかないのである。

第二に、唯物論や無神論、特に共産主義理論の浸透による価値観の破壊のためであ
る。共産主義は人間を二つの階級に分けて、人と人の間の対立を煽り、不信感を増大せ
しめ、徹底的な敵愾心を起こさせようとした。そのとき、共産主義は伝統的な価値観を封
建的であるとか、体制維持のための道具だといって批判し、価値観の崩壊を図ったので
ある。

第三に、宗教相互間の対立や思想相互間の対立のためである。そのような対立が価
値観の崩壊を加速せしめたのである。価値観は宗教や思想の基盤の上に立てられるの
で、宗教や思想に対立があれば、人々は価値観を相対的なものと見るようになる。した
がって、必ずしも一定の価値観に従わなくてもよいというような考え方が広がったのであ
る。

第四に、中世以後伝わってきた伝統的な宗教(儒教、仏教、キリスト教、イスラム教)の
徳目が、科学的な思考方式をもっている現代人を説得するのに失敗したためである。伝
統的な宗教の教えの中には、非科学的な内容が少なくはなく、したがって科学に対して
絶対的な信頼をもっている現代人には、そのような宗教的価値観は受け入れがたいので
ある。
伝統的価値観の崩壊の原因をこのように分析するとき、ここに必然的に新しい価値観
の定立が要求される。というのは新しい価値観の定立なしには、やがて到来する未来の
理想世界に備えることができないからである。それでは、新しい価値観はいかなるもので
なければならないであろうか。それはまず、すべての既存の宗教の根本的な教えと、す
べての思想の価値観を包容しうるものでなくてはならない。それはまた、唯物論や無神論
を克服しうる価値観でなくてはならないし、科学をも包容し、科学を指導しうる価値観でな
くてはならない。そのような内容をもつ価値観とは、絶対者である神の真の愛を中心とし
た絶対的価値観である。それがまさに未来社会に対備するために、今日、切に要求され
る新しい価値観である。

それでは、われわれが対備しなくてはならない未来社会は、具体的にどのような社会な
のか考察してみよう。未来社会は本来の人間によって建設される社会であるが、本来の
人間とは、神の心情、神の愛をもった人格の完成者のことである。ここで人格とは、心情
を中心として知情意の機能が均衡的に発達した品格のことである。したがって未来社会
は、神の心情を中心として、知情意の機能が調和的に発達した人間によって構成される
社会である。ここに新しい価値とは、本来の知情意の機能に対応する価値のことである。

知情意の機能はそれぞれ真美善の価値を追求するが、それによって真実社会、芸術
社会、倫理社会が実現される。ここで真実社会は真の価値を追求することによって実現
される偽りのない真なる社会をいい、芸術社会は美の価値を追求することによって実現
される美の社会をいい、倫理社会は善の価値を追求することによって実現される善の社
会をいう。真実社会を実現するための理論として必要なのが教育論であり、芸術社会を
実現するための理論として必要なのが芸術論であり、倫理社会を実現するための理論と
して必要なのが倫理論である。価値論は真美善の価値を総合的に扱う部門であって、こ
れら三つの理論の総論となる。

未来社会はそのような真美善の価値が実現する社会となるだけでなく、科学の発達に
よって経済は高度の成長を成し遂げ、経済問題は完全に解決された豊かな社会が実現
される。したがって、そのような社会に住む人々の生活は、価値を実現しながら価値を楽
しむ生活になるのである。心情を中心として真美善の価値が実現した社会が、すなわち
心情文化の社会であり、統一文化の社会である。

以上で未来社会に備えるために新しい価値観が必要であることについて説明した。とこ
ろが新しい価値観は未来社会に備えるために必要であるだけでなく、今日の現実世界の
混乱を収拾するためにも必要である。すでに述べたように、今日の現実世界は様々な要
因によって、価値観が総体的に崩壊しつつあるが、これを収拾するためには健全な価値
観の再定立が切に要求されるのである。

新しい価値観は文化の統一のためにも必要とされる。今日の世界の混乱を究極的に
収拾するためには、いろいろな伝統文化の統一が必要である。ところが様々な文化はそ
れぞれ一定の宗教または思想を土台としている。そしてそのような宗教や思想は一定の
価値観をもっている。したがって文化の統一のためには、様々な価値観の統一、例えば
キリスト教価値観、仏教価値観、儒教価値観などの統一が要求されるし、また東洋と西
洋の文化的価値観の統一が必要である。したがって、ここにおいても、すべての価値観
を包容しうる新しい価値観の提示が要求されるのである。

一価値論および価値の意味

新しい価値観を提示する前に、まず価値論と価値の意味が何であるかについて説明す
る。

価値論の意味

価値論は一般に経済学、倫理学などの分野においても扱われるが、哲学においては
主として価値哲学のことをいう。すなわち価値一般に関する理論を扱う哲学部門である。
価値論は近代に至って哲学体系の一部門となったが、あとで述べるように、その内容は
たとえ断片的であっても古代においても発見されるのであり、カントが事実問題と価値問
題を区別したのち、価値論は哲学上の重要な課題として提起されるようになった。
特にロッツェ(Rudolph H. Lotze, 1817-1881)が存在と価値を分離したのち、存在の世界
に価値の世界を対置させると同時に、存在の世界は知性によって把握されるが価値の
世界は感情によって把握されると主張し、哲学に価値概念を取り入れることによって、価
値哲学の始祖となった。

価値とは何か

価値という言葉は本来は経済生活から出たものであるため、主に経済的価値を意味す
るが、今日に至って、この言葉が一般化し、社会、政治、法律、道徳、芸術、学問、宗教
など人間生活のほぼ全般にわたって使われている。統一思想では、価値を大きくは物質
的価値と精神的価値に区分する。物質的価値とは、商品価値のように生活資料の価値
を意味し、精神価値は知情意の機能に対応する真美善の価値をいう。本価値論では、そ
のうち精神的価値を扱っている。

一般的に価値という概念を正確に定義するのは不可能であるとして、価値現象を通じ
て分析するほかないとされるが、本価値論では、価値は主体(主観)の欲望を充足させる
対象の性質であると規定する。すなわち、ある対象があって、それが主体の欲望や願い
を充足させる性質をもつとき、その主体が認める対象の性質を価値という。つまり価値は
主体が認める対象価値であって、主体に認められなければ、それは現実のものとはなら
ないのである。例えば、ここに美しい花があったとしよう。主体がこの花の美しさを認めな
かったならば、その花の価値は現れないのである。そのように価値が現れるためには、
主体が対象の性質を認めて評価する過程が必要である。

欲望

価値とは、すでに述べたように、主体の欲望を充足させる対象の性質をいうのであるが、
ここで価値を論ずるためには、まず主体のもっている欲望について分析しなければなら
ない。ところが今日まで、価値(物質的価値を含めて)を扱った思想家たちは、人間の欲
望の問題を排除して、価値現象だけを客観的に扱ってきた。しかしそれは根のない木、
または土台のない建築のようなものであって脆弱さを免れなかった。根のない木は枯れ
るしかなく、土台のない建築物は倒れるしかないからである。ゆえに今日、既存の思想体
系はいろいろな社会問題の解決において、その無力さを露呈しているのである。
例えば物質的価値を扱う経済理論においても、現在の経済の混乱を解決するのに、ほ
とんど役立たなくなってしまった。そして労使関係が企業実績に及ぼす影響など、これま
での経済学者が予想もできなかった多くの問題が、続々と起きているのである。なぜそ
のような結果になったのであろうか。それは従来の経済学者たちが人間の欲望を正しく
分析しなかったからである。経済学者たちは経済活動の動機が欲望であることを知りな
がら、その欲望を分析しなかったので、結局、彼らの理論は土台のない建物のようになっ
てしまったのである。したがって、ここでは現れた現象を正しく理解するために、欲望の分
析から始めるのであるが、それに先立ってまず価値論の統一原理的な根拠を扱うことに
する。

二価値論の原理的根拠

統一原理によれば、人間は性相と形状の統一体であって、目的と欲望をもっている。欲
望はもちろん神から賦与された創造本性(『原理講論』一一八頁)である。そして目的も欲
望もそれぞれ二重性を帯びている。こうした事実を根拠として統一価値論が成立するの
である。

性相・形状と二性目的

創造された人間には一定の被造目的(神の創造目的)が与えられている。こうした被造
目的をもつ人間は二性性相の統一体である(すなわち霊人体と肉身の二重体であり、生
心と肉心の二重心的存在である)。人間に被造目的が与えられているということは、人間
の性相にも目的が与えられており、形状にも目的が与えられていることを意味する。前者
を性相的目的といい、後者を形状的目的という。この両者を合わせて「二性目的」とも呼
ぶ。二性性相に対応する目的という意味である。

性相は生心を意味し形状は肉心を意味するために、性相的目的とは生心がもっている
目的であり、形状的目的とは肉心がもっている目的である。したがって性相的目的とは、
生心の目的である真善美愛の生活を営むことを意味し、形状的目的とは肉心の目的で
ある衣食住性の生活を営むことを意味するのである。

性相・形状と二性欲望

人間は性相と形状の統一体であり、生心と肉心の二重心的存在であるために、目的と
同様に、欲望にも性相的欲望と形状的欲望がある。これを「二性欲望」と呼ぶことにする。
「二性目的」と同様に、二性性相に対応する欲望という意味である。性相的欲望とは、生
心の欲望としての真善美愛の生活に関する欲望であり、形状的欲望とは、肉心の欲望と
しての衣食住性の生活に関する欲望である。

二重目的と二重欲望

統一原理によれば、人間はまた全体目的と個体目的という二重目的をもつ連体である
(『原理講論』六五頁)。これは性相(生心)も全体目的と個体目的をもっており、形状(肉
心)も全体目的と個体目的をもっていることを意味する。すなわち性相的目的にも全体目
的と個体目的があり、形状的目的にも全体目的と個体目的があることを意味する。

ところで欲望とは、与えられた目的を達成しようとする心の衝動である。したがって欲望
には、全体目的を達成しようとする欲望と個体目的を達成しようとする欲望がある。前者
を価値実現欲といい、後者を価値追求欲という。この両者を合わせて「二重価値欲」と呼
ぶ。これは性相的欲望と形状的欲望が、それぞれ二重目的を実現するための二重欲望、
すなわち価値実現欲と価値追求欲をもっていることを意味する。それゆえ性相的欲望に
も価値実現欲と価値追求欲があり、形状的欲望にも価値実現欲と価値追求欲があるの
である。

ここで二重目的および二重欲望と関連して、二重価値について説明する。目的に二重
目的があり、欲望に二重欲望があるように、価値にも二重価値がある。それが実現価値
と追求価値である。価値実現欲によって実現しようとする価値、または実現された価値が
「実現価値」であり、価値追求欲によって追求しようとする価値、または追求された価値
が「追求価値」である。このような二重目的と二重欲望と二重価値は、互いに対応関係に
あるのである。

欲望の由来と創造目的

ところで、人間の欲望は何のためにあるのだろうか。それはすでに述べたように、創造
目的を実現するためにあるのである。神の創造目的とは、神においては、対象(人間と万
物)から喜びを得るということである。しかし被造物の立場から見れば、その創造目的は
被造目的のことである。特に人間は、神に美を返し、神を喜ばせるということにその目的
があるので、人間の創造された目的すなわち人間の被造目的は、人間が、生育し、繁殖
し、万物を主管するという三大祝福を成就することによって達成される。したがって人間
の創造目的(被造目的)とは、とりもなおさず三大祝福を完成するということを意味するの
である。

神が人間を創造されたとき、人間に目的だけを与えて欲望を与えなければ、人間は、
せいぜい、ただ「創造目的がある」、「三大祝福がある」ということが分かるだけで、実践
の当為性を感じることはできなかったはずである。だから神は、人間にその目的を実現し
ていくための衝動的な意欲——やってみたい、得てみたいという心の衝動性——を与えな
ければならなかった。その衝動性が欲望である。したがって人間は、生まれながらに創
造目的(被造目的)、すなわち三大祝福を達成しようとする内的な衝動を感じながら、成
長していくのである。そしてこのような欲望の基盤になっているのが心情である。

人間は、全体目的と個体目的の二重目的をもつ連体である。したがって創造目的の実
現は、全体目的と個体目的を実現することである。人間の全体目的とは、真の愛を実現
すること、すなわち家庭、社会、民族、国家、世界、そして究極的には人類の父母である
神に奉仕することであり、人類と神を喜ばせようとすることである。そして個体目的とは、
個体が自己の成長のために生き、自己の喜びを求めようとすることである。人間のみな
らず、万物もすべて、全体のための目的と個体のための目的という二重目的をもってい
る。それが創造目的の二重性、すなわち被造目的の二重性である。

万物と人間では創造目的の達成の仕方が異なっている。無機物は法則に従って、植物
は自律性(生命)に従って、動物は本能に従って、それぞれの創造目的を達成する。しか
し人間の場合は、神から与えられた欲望に従って、自由意志をもって自らの責任で創造
目的を達成するのである。すでに述べたように、欲望とは与えられた目的を達成しようと
する心の衝動のことである。

目的に全体目的と個体目的の二重目的があるように、それに対応して欲望にも価値実
現欲と価値追求欲の二重欲望がある。そしてこの二重目的と二重欲望に対応する価値
が実現価値と追求価値の二重価値である。以上のことを二性目的、二性欲望、二性価
値と関連づけて、その相互関係を表すと、表4—1のようになる。

三 価値の種類

性相的価値

価値とは、主体の欲望を充足させる対象の性質である。性相と形状の二重的存在であ
る人間の欲望に性相的欲望と形状的欲望があるから、価値にも性相的欲望を充足させ
る性相的価値と形状的欲望を充足させる形状的価値がある(表4—1)。性相的欲望を充
足させる性相的価値は真善美と愛であるが、実は、愛は価値そのものというよりは真善
美の価値の基盤である。真善美は、心の三機能である知情意に対応する価値である。
すなわち主体が対象のもつ価値的要素を評価するとき、知情意の三機能に従って、それ
ぞれ異なるものとして判断するのが真美善の価値なのである。

形状的価値

一方、形状的欲望を充足させる価値とは、衣食住の生活資料の価値、すなわち物質的
価値(商品価値)のことをいう。物質的価値は肉身生活のための価値であり、肉心の欲
望を充足させる価値である。肉身の生活は、霊人体を成長せしめ、三大祝福を完成せし
めるための土台となっているために、形状的価値は性相的価値の実現に際して必要条
件となっている。

ここで愛は真善美の価値の基盤であるということについて、具体的に述べる。主体が対
象を愛すれば愛するほど、また対象が主体を愛すれば愛するほど、主体にとって対象は、
いっそう真に、美しく、善に見える。例えば父母が子女を愛するほど、また子女が父母を
愛するほど、父母にとって子女は美しく見える。そして子女が美しく見えれば、父母は子
女をもっと愛したくなるのである。真と善においても同じである。父母が子女を愛するほど、
また子女が父母を愛するほど、子女はもっと真に、また善に見える。すなわち愛を土台に
して真善美が成立するのである。もちろん愛なしに真善美が感じられるときもある。しかし、
厳密にいえば、そのときにも実は無意識のうちに、主体の潜在意識の中に愛が宿ってい
るのである。

そのように愛は価値の源泉であり、基盤である。愛がなければ真なる価値は現れない。
したがって、われわれが神の心情を体恤し、愛の生活をするならば、今までに経験した
ものより、はるかに輝かしい価値を体験し、実現することができるようになるのである。
以上、価値には性相的価値と形状的価値があるということを明らかにしたが、本価値論
では、主として性相的価値を扱うのである。

四 価値の本質

価値の本質的要素と現実的価値

価値には対象がもっている性質としての価値と、主体と対象の間で決定される価値の
二つの価値がある。前者を潜在的価値、後者を現実的価値という。先に価値とは主体の
欲望を充足させる対象の性質であるといったのは、潜在的価値のことである。価値は必
ず現実的に評価されるものであり、評価は主体と対象の間の授受作用によってなされる。
その評価(授受作用)によって決定される価値が現実的価値である。
潜在的価値、すなわち対象がもっている性質とは、価値の本質的要素であり、対象が
もっている内容、属性、条件などをいう。真善美の価値それ自体が対象に与えられてい
るのではなく、そのような価値となりうる要素(本質的要素)として対象の中に潜在してい
るのである。それが対象がもっている潜在的価値である。

潜在的価値(本質的要素)

それでは価値の本質、すなわち価値の本質的要素とは、具体的にいかなるものであろ
うか。それは対象のもっている創造目的と、対象の中にある相対的要素の相互間の調和
である。すべての被造物には、必ず創造目的(被造目的)がある。例えば、花には美でも
って人間を喜ばせようという創造目的がある。人間が造った芸術作品や商品の場合でも、
必ず造られた目的がある。

それから相対的要素の調和とは、主体的要素と対象的要素の調和のことである。万物
は個性真理体であるために、原相に似て必ずその内部に性相と形状、陽性と陰性、主要
素と従要素などの、主体的要素と対象的要素の相対的要素が宿っている。この相対的
要素の間には、必ず授受作用による調和が現れる。その時の授受作用は、対比型の授
受作用である。そのように、創造目的を中心として相対的要素が調和している状態、それ
がまさに価値の本質である。

五 現実的価値の決定と価値基準

価値の決定

価値は、主体である人間と対象である万物との相対的関係において、つまり授受作用
によって決定または評価されるのであるが、対象の備えるべき条件(対象的条件)は、す
でに述べたように、創造目的を中心とした相対的要素相互間の調和である。一方、主体
にも備えなければならない条件(主体的条件)がある。まず主体が、価値追求欲と対象へ
の関心をもつことが価値決定の前提条件となっている。そして価値の決定を左右するの
が、主観的要因として、主体のもっている思想、趣味、個性、教養、人生観、歴史観、世
界観などである。主体のもつべきこのような関心、価値追求欲、および主観的要素が主
体的条件である。現実的価値は、この主体的条件と対象的条件の相対関係において決
定されるのである(図4—1)。

すなわち主体的条件と対象的条件が成立するとき、そこに授受作用が行われ、具体的
な価値が決定される。具体的な価値が決定されるとは、価値の量と質が決定されるとい
う意味である。価値の量とは、花の場合、「とても美しい」とか「あまり美しくない」というよ
うな、価値評価の量的な側面をいう。また価値には質的な側面もある。例えば、芸術論で
述べるように、美には、優雅美とか、畏敬美、荘厳美、滑稽美などいろいろなニュアンス
の美があるが、それが質的な側面から見た美の価値である。

主観作用

すでに述べたように、価値を決定するのに主観的要因が大きく作用する。すなわち主
体の思想、世界観、趣味、個性、教養などの主体的条件が対象に反映されて(対象的条
件につけ加えられて)、主体だけが感じる特有な現実的価値が決定されるのである。
例えば同じ月を見ても、ある人には悲しく見え、またある人には美しく見えることがある。
また同じ人が見ても、悲しい時に見れば月も悲しく見え、気分が良い時に見れば月も美し
く見える。主体の心のもち方によって美に差異が生ずるのである。それは美に関してだけ
でなく、善や真の価値に関しても同様である。そしてそれは商品価値に関しても言えるこ
とである。そのように主観が対象に反映することによって、量的にも質的にも価値の差異
が生ずるのであるが、そのような主体的条件の作用を「主観作用」という。つまり主体の
主観が対象に反映される作用である。

これは美学におけるリップス(T. Lipps, 1851-1914)の「感情移入」に相当する。感情移
入とは、自然風景を見るときや芸術作品を鑑賞するとき、自己の感情や構想を対象に投
射し、それを鑑賞することをいう。このような主観作用の例を二三挙げてみよう。まず文
先生のみ言の中から例を挙げよう。

神の子があなたにハンカチーフを与えたと考えてみよう。そのハンカチーフは金よりも
価値が多く、生命よりも価値が多い。またその他のどのようなものよりも価値が大きい。
もしもあなたが本当に神の子であるならば、あなたがどのようにみすぼらしい所に住んで
いようとも、そこは宮殿である。その時は衣服は問題ではない。われわれの寝ているその
場所も問題ではない。なぜならば、われわれはすでに富者となっているからである。われ
われは神の王子たちである(2)。

このみ言は、心の中で神の子であるという自覚をもつならば、粗末な小屋も、そのまま
宮殿のように立派に見えるという意味であり、主観作用の適切な例である。聖書には「神
の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七・二一)という聖句があるが、こ
れもまた主観作用の例である。また仏教には三界唯心所現という言葉がある。これは三
界、すなわち世界全体のあらゆる現象は、心の現れ出たものであるという意味である(3)。
これも主観作用の例である。

価値の基準

㈰ 相対的基準

主観作用のために、価値の決定(評価)は人によって異なるものとして現れる。しかし主
体的条件に共通性が多い時には、価値評価にも一致点が多くなり、同じ宗教や同じ思想
をもつ人たちの間での価値評価の結果はほとんど一致する。例えば儒教の徳目である
「父母への孝行」は、儒教社会ではいつも一致した評価であり、普遍的な善である。
このことは宗教や思想が同じ社会では、価値観の統一が可能であることを意味する。
ローマの平和(Pax Romana)の時代には、ストア哲学が一般化したために、克己的精神
と世界市民主義が支配的な統一的な価値観であった。また中国の唐の時代や韓半島の
統一新羅の時代には、仏教が国教であったために仏教的な道徳が中心的な価値観であ
った。またキリスト教国家であるアメリカ合衆国においては、キリスト教(新教)の道徳観
が国民の統一的な価値観となっているのである。

ところが互いに異なる宗教や異なる文化の背景をもつ社会の間には、価値観の差異が
現れる。例えばヒンドゥー教では、牛肉を食べることは禁じられているが、イスラム教では
豚肉を食べることが禁じられている。また共産主義のいう平和観と自由主義世界のいう
平和観は、その概念が全く違っていた。

そのように共通の宗教や思想をもっている地域や社会における価値観は、国民の間で
ほとんど一致しているが、宗教や思想が異なるときには、価値観は一致しなくなる場合が
あり、そのとき価値観の一致は一定の範囲にとどまる。そして共通の価値評価の基準が
一定の範囲に限られるとき、そのような価値評価の基準を相対的基準というのである。

㈪ 絶対的基準

価値の相対的基準でもっては全人類の価値観を統一することはできない。価値観の相
違による対立や闘争をなくすことはできないからである。したがって全人類の真の平和が
定着するためには、宗教的な差異、文化的な差異、思想的な差異、民族的な差異などを
克服することのできる評価基準、すなわち全人類に共通な価値評価の基準が立てられ
なくてはならない。そのような価値評価の基準が絶対的基準である。

それでは、そのような絶対的基準はいかにして立てることができるであろうか。そのた
めにはすべての宗教、すべての文化、すべての思想、すべての民族などを存在せしめた
根源者が一つであることを明らかにし、その根源者に由来するいろいろな共通性を発見
すればよい。存在論で述べたように、宇宙万物は千態万象であるが、一定の法則によっ
て秩序整然と運行しており、またすべての万物は共通した属性をもっている。それは宇宙
万物が神に似せて造られているからである。地球上の数多くの宗教、文化、思想、民族
は、それぞれ価値観が異なっているのが普通であるとしても、それらを生じせしめた根源
者は一つしかないとすれば、そこには根源者に由来する共通性が必ずあるはずである。
今日まで数多くの宗教が現れたが、決して、それぞれの教祖たちが自分勝手に宗教を
つくりあげたのではなかった。神は最終的に全人類を救うために、一定の時代に、一定
の地域に、一定の教祖を立てて、まずもって、その時代、その地域の人々を善なる方向
へ導こうとされたのである。すなわち神は時や場所によって、言語、習慣、環境の異なる
人々に対して、その時代、その地域に適した宗教を立てて救いの摂理を展開されたので
ある。

そこで各宗教の共通性を発見するためには、すべての宗教を立てた根源者がまさに唯
一の神であることを明らかにしなければならない。宇宙万物の根源者をユダヤ教ではヤ
ーウェ、イスラム教ではアッラー、ヒンドゥー教ではブラフマン、仏教では真如、儒教では
天といっているが、これはキリスト教でいう神と同一の存在である。ところがこれらの各宗
教は、根源者の属性について明らかにしていない。例えば儒教では天が具体的にいか
なるものであるか、明らかにできていないし、仏教における真如においても、ヒンドゥー教
のブラフマンにおいてもそうである。またキリスト教の神にしても、ユダヤ教のヤーウェ、
イスラム教のアッラーにおいても、同様である。

そればかりでなく、これらの各宗教の根源者がなぜ人間と宇宙を創造されたのか明ら
かにされていないし、悲惨な人類社会をなぜ一日も早く、一時に救うことができなかった
のかということも明らかにされていない。そのように各宗教の根源者はベールに包まれて
いて、漠然と認識されてきたのである。そして各宗教の根源者に関する説明はその根源
者の一面だけをとらえたにすぎなかったために、各宗教の根源者が互いに異なるように
見えたのである。

これらの各宗教の根源者が、結局は同一なる存在であることを証明するためには、そ
の根源者がいかなる方か、正確に知らなくてはならない。すなわち神の属性、創造目的、
宇宙創造の法則(ロゴス)などを正しく理解しなくてはならない。そうすれば、各宗教は同
一なる神によって立てられた兄弟の宗教であることが分かるようになる。そして長い間の
対立と闘争の関係を清算して、互いに和解し、愛し合うようになるのである。結局、神が
いかなる方かを正確に知ることが、問題解決の鍵となるのである。文化、思想、民族に関
しても同様である。すべての文化、思想、民族を発生せしめた根源者が同一の存在であ
ることが分かれば、文化の共通性、思想の共通性、民族の共通性なども明らかになって
くるのである。

それでは価値評価の絶対的基準となりうる共通性とは、具体的にいかなるものであろう
か。それがすなわち神の真の愛(絶対的愛)と神の真の真理(絶対的真理)である。神は
愛を通じて喜びを得るために人間を創造されたのである。そのような神の愛は、キリスト
教のアガペー、仏教の慈悲、儒教の仁、イスラム教の慈愛などとして表現される。結局、
すべての宗教の愛の教えは一なる神の愛に由来するのである。神の愛は人間において、
家庭を通じて、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛という三対象の愛として現れる(子女の愛
を子女の父母に対する愛と子女相互間の愛に分けると四対象の愛になる)。キリスト教
の隣人愛の実践、仏教の慈悲の実践、儒教における仁の実践、イスラム教における慈
愛の実践などは、みなこの三対象の愛の実現であったのである。

そして永遠性をもつ神が宇宙を創造されたために、宇宙の運行を支配する真理(理法)
は永遠普遍である。宇宙における共通な普遍的事実とは、宇宙のすべての存在者は、
自分のために存在しているのではなく、他のため、全体のため、そして神のために存在し
ているということである。すなわち「ために生きる存在」であるということである。したがって
普遍的な善悪の基準は、他人(人類)のために生きるか、自己中心的に生きるかというこ
とである。

㈫ 絶対的基準と人間の個性

このようにして神の真の愛と真の真理によって、価値決定の絶対的基準が立てられ、
世界万民の価値判断(決定)が一致するようになる。それではそのとき人間の個性はどう
なるのであろうか。価値判断は個人の主観的な要因によってなされるのだから、個性に
よって価値評価に必ず差異が生じるはずなのに、ここに絶対的基準のもとに価値評価が
一致するとすれば、個人の個性は無視されるのではないかという疑問が生じるであろう。
しかし、絶対的基準において価値判断が一致化されるとしても、個性が無視されるとか、
なくなるのではなく、そのまま生かされるのである。

人間は個性真理体であるために、神の普遍相(共通性)と個別相(特殊性)に似ており、
また連体であるために、全体目的と個体目的をもっている。したがって、価値評価の絶対
的基準は普遍相(性相、生心、心情、ロゴス)と全体目的に基づいた評価基準であり、主
観作用は個別相および個体目的に基づいた評価基準なのである。

したがって、いくら絶対的基準によって絶対的価値が決められるとしても、主観作用に
よる個人差は当然あるのである。言い換えれば、絶対価値とは個人差を含んだ普遍価
値である。それは、あたかも個性真理体が個別相を含んだ普遍相をもつ個体であるのと
同じである。そして全体目的を優先させながら個体目的を追求し、普遍相をもちながら個
別相を現すのが人間である。

絶対的基準における価値評価においても、このような人間の個性に基づいた主観作用
を免れることはできない。しかし、あくまでも共通性を基盤としての差異性である。そして、
そこには差異性による価値観の混乱はありえない。なぜならば、その時の差異は質的な
差異ではなく量的な差異だからである。

例えば善の判断の場合、「貧しい人を助ける」というのは、宗教や思想を問わず善とし
て判断される。それを悪と判断(質的判断)する人は理想世界にはありえない。しかし判
断する人によっては、その善が「大いに善である」、「中程度の善である」、「普通の善で
ある」などのように、量的な評価の差異がありうるのである。美や真の判断においても同
じである。

価値評価の絶対的基準とは、要するに質的判断の一致をいうのである。ところが堕落
社会は利己主義の社会であるために、質的判断の差異すら生じるようになり、その結果、
しばしば価値観に混乱が生じるのである。

ここに、新しい価値観の定立ならびに価値観の統一が可能になる。すなわち価値観の
個別性を生かしながら、価値評価の基準を絶対的愛と絶対真理を中心として一致化させ
るのである。新しい価値観とは、そのような神の絶対的愛と絶対的真理を基盤とした価
値観である。この新しい価値観における価値がまさに絶対的価値である(5)。そのような
絶対的価値をもって、すべての価値観を和合し、調和せしめることができる。それがまさ
に価値観の統一である。このような価値観の統一には、神の属性、創造目的、心情、愛、
ロゴスなどに関する正確な理解が前提にされなければならない。宗教統一、思想統一は、
そのような価値観の統一をもって可能になるのである。

六 従来の価値観の脆弱性

すでに述べたように、今日の価値観の崩壊の原因の一つは従来の価値観——主として
宗教的価値観——が説得力を失ったことにある。それでは、いかにして従来の価値観は
説得力を失ったのであろうか。

キリスト教の価値観の脆弱性

キリスト教には、次のような聖句に表される立派な徳目がある。
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22 ・39)
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5 ・44)
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」
(マタイ7 ・12)

「こころの貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちはさいわいである。彼らはなぐさめられるであろう。
柔和な人たちはさいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちはさいわいである。彼らは飽きたりるようになるであろう。
あわれみ深い人たちはさいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちはさいわいである。彼らは神を見るであろう。
平和をつくりだす人たちはさいわいである。彼らは神の子とよばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」
(山上の垂訓、マタイ5 章)

「このようにいつまでも存続するものは信仰と希望と愛とこの三つである。このうちで
最も大いなるものは愛である」(第一コリント13 ・13)
「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これら
を否定する立法はない」(ガラテヤ5 ・22—23)

ところで「愛は人の徳を高める」(第1 コリント8 ・1)とあるように、徳目の基礎になってい
るのが愛である。そして「愛は神から出たものである。……神は愛である」(第1 ヨハネ4 ・
7—8)とあるように、愛の基礎になっているのが神である。
ところが近代に至って、ニーチェ、フォイエルバッハ、マルクス、ラッセル、サルトルなど
によって、神の存在が否定された。そして神を否定するそのような思想に対して、キリスト
教は有効的に対処できなかった。すなわち有神論と無神論の理論的対決において、キリ
スト教は敗北を重ねてきたのである。その結果、多くの若者たちが無神論のとりこになっ
てしまった。

さらにキリスト教価値観に対する共産主義の意図的な挑戦があった。共産主義は、キリ
スト教のいう絶対的愛とか人類愛を否定し、真の愛は階級愛または同志愛であると主張
した。利害が対立している社会において、階級を越える愛はありえないと見るからである。
人間はプロレタリアートの側に立つか、ブルジョアジーの側に立つか、二者択一である。
したがって、人類愛といっても、それは言葉だけのことであって、実際には階級社会にお
いて人類愛を実践することはできないと主張したのである。

このような主張を聞けば、確かに階級愛のほうが現実的であり、キリスト教の愛は観念
的であるかのように思われる。ことに愛の源泉である神の存在に確信がもてないというよ
うな状態では、従来のキリスト教の神観または愛観に説得力がありえないのは、あまりに
も当然である。

また今日、第三世界において解放神学や従属理論が台頭したのも無理のないことであ
った。解放神学によれば、イエスはその時代の抑圧された人々、貧しい人々を救うため
に来られた方であり、革命家であった。したがって真のキリスト者は社会革命のために立
ち上がらなくてはならないと説いた。そしてキリスト者の貧民への同情が、共産主義の階
級愛と符合して、現実問題の解決において共産主義と提携する必要さえあるという主張
までなされたのである。

従属理論によれば、第三世界の貧困は先進諸国と第三世界との構造的矛盾からくる
必然的な結果であって、第三世界が貧困から解放されるためには、第三世界は先進諸
国すなわち資本主義諸国と対決しなければならないと説いた。そして解放神学と同様に、
従属理論も共産主義との提携を図ったのである。

解放神学や従属理論には、共産主義のような確固たる哲学、歴史観、経済理論がない。
したがって、結局は共産主義に引き込まれていかざるをえない。ところがキリスト教は、こ
のような事態に対して、何ら適切な処置を講ずることができなかったのである。

儒教の価値観の脆弱性

儒教には次のような徳目がある。
① 五倫…古来、「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」の五つは人倫の基礎とされ、
孟子によってさらに強調された。

② 四徳…孟子は仁義礼智の四徳を説いた。のちに漢の董仲舒はこれに信を加え
て、仁義礼智信という五常の道を立てた。

③ 四端…孟子によれば、惻隠の心(他人を思いやる心)、羞悪の心(不義を憎む心)、
辞譲の心(譲り合う心)、是非の心(善悪を分別する心)を四端というが、
それぞれが仁義礼智の基本であると見なした。

④ 八条目…格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下(8)
⑤ 忠孝

これらの徳目の基礎となっているのは仁であり、仁の基礎になっているのが天であった
(9)。ところが儒教において、天とは何か、明確に説明されていないのである。
共産主義者は、「土台と上部構造」の理論を適用して、儒教の教えは封建時代におい
て、支配階級が一般大衆を従順に従わしめるために作り上げた階級支配の合理化のた
めの手段にすぎず、したがって今日の権利の平等と多数決の原則を旨とする民主主義
社会には合わないといって、儒教を批判した。その結果、儒教の徳目は今日ほとんど顧
みられなくなった。しかも社会が都市化し、家庭が核家族化するにつれて、儒教的価値
観はいっそう崩壊しつつあり、その結果、社会の無秩序と混乱が加重されたのである。

仏教の価値観の脆弱性

仏教の根本的な徳目は慈悲であるが、慈悲を実践するためには、修行生活が必要で
ある。人間は修行生活を通じて声聞(仏陀の説法を聞き四諦の道理を悟り、自ら修行完
成者である阿羅漢の弟子となることを理想とする仏道修行者)、縁覚(仏陀の教えによら
ないで、自ら不生不滅の真理を悟り、自由の境地に到達した聖者)を通過し、菩薩(成仏
するために修行に励む人の総称として、上に対しては仏陀に従い、下に対しては一切の
衆生を教化する仏陀に次ぐ聖人)、仏陀(自ら仏教の大道を悟った聖人)に至るのであ
るが、菩薩、仏陀の段階で慈悲を実践するようになる。声聞、縁覚では、まだ慈悲を実践
するような段階ではない。

人間は、世の中のすべての事物が変化すること、すなわち無常であることを自覚せず、
現実の生活に執着している。それが苦の原因である。したがって苦しみを滅するために
は、修行生活を通じて執着を去らなくてはならない。執着から離れ、苦しみから解き放た
れることがすなわち解脱である。そのように解脱して無我の境地に入って、初めて真に慈
悲を実践することができるというのである。

釈 の思想を体系化したのが四諦八正道の教えである。四諦とは、苦諦、集諦、滅
諦、道諦をいう。苦諦とは、現世の生はみな苦しみであるという教えである。集諦とは、苦
しみの原因は執着(渇愛)であるという教えである。滅諦は、涅槃の境地(悟りの境地)を
理想とする内容であり、苦しみから脱するためには執着を捨て去らなければならないとい
う教えである。そして道諦は、涅槃に至る正しい修行の道があるという教えである。その
道が八正道であるが、そこには次のような八つの徳目がある。

①正見………すべての偏見を捨てて、万物の真相を正しく判断せよ。
②正思………正しく考えなさい。
③正語………正しく話しなさい。
④正業………殺生や盗みをしてはならない。
⑤正命…… 正法に従って正しい生活を行いなさい。
⑥正精進………一心に努力して、まだ起きていない悪を生じさせないようにして善
を生じさせるようにしなさい。
⑦正念………雑念を離れて真理を求める心をいつも忘れてはならない。
⑧正定…… 煩悩による乱れた考えを捨てて、精神を正しく集中させ心を安定さ
せなさい。

人間に苦しみが生じてきた原因を追求し、十二項目の系列を立てたのが十二因縁(十
二縁起)の教えである。それによれば、人間の苦しみの根本原因は渇愛であり、渇愛の
奥に無明があるという。無明とは、真如に対する無知であり、苦痛や煩悩は本来のもの
ではないということを悟らないことである。この無明から一切の煩悩が生ずるというので
ある。

大乗仏教において、菩薩になるために守らなくてはならない六つの徳目があるが、それ
が次のような六波羅蜜(六波羅蜜多)である。

①布施………慈悲心をもって、他人に無条件に施すこと。
②持戒………戒律を守ること。
③忍辱………迫害を耐えること。
④精進………仏道をたゆまず実践すること。
⑤禅定………精神を統一すること。
⑥智慧………正しいこと正しくないこと、善悪、是非を判断すること。

以上の八正道や六波羅蜜などの徳目の根本になっているのが慈悲である。そして慈悲
の基礎になっているのが、宇宙の本体としての真如である(10)。ところが今日、仏教の価
値観も説得力を失っている。その原因は、仏教の教理に次のような問題点があるからで
ある。すなわち、宇宙の本体であるという真如が具体的にいかなるものか明らかでないこ
と、諸法(宇宙万象)がいかにして生成(縁起)したか不明であること、無明はなぜ生じた
かということに対する根本的解明がないこと、現実問題(人生問題、社会問題、歴史問
題)の根本的解決は修道だけでは不可能であること、修行生活が現実問題の解決につ
ながっていないことなどである。

その上に、共産主義による挑戦があった。共産主義者たちは次のように攻撃した。「現
実社会には搾取、抑圧、貧富の格差、社会悪が充満しているが、その原因は無明にある
のではなくて、資本主義社会の体制的矛盾にあるのだ。仏教の修行は個人の救済のた
めであり、それは現実からの逃避、問題解決の回避ではないか。現実の問題を解決しな
いで修行するのは偽善でしかない」。そのように攻撃されると、仏教は他の宗教と同様、
有効的な反論を提示できなかったのである。

イスラム教の価値観の脆弱性

イスラム教では、預言者の中ではマホメットが最も偉大であり、経典の中ではコーラン
が最も完全だと信じているが、アブラハム、モーセ、イエスなどをマホメットと共に預言者
として信じている。そして、コーラン以外に、モーセ五書、ダビデの詩篇、イエスの福音書
も経典としている。したがってイスラム教の徳目には、ユダヤ教やキリスト教の徳目と共
通する点が多いのである(11)。

イスラム教には、六信と五行という信仰と実践の教えがある。六信とは、神、天使、経
典、預言者、来世、天命に対する信仰をいい、五行とは、信仰告白、礼拝、断食、喜捨、
巡礼を行うことをいう。

信仰の対象はアッラーの神であって、アッラーは絶対、唯一であり、創造主であり、支
配者である。アッラーはいかなる神であるかという問いに対して、イスラム教の神学者た
ちは九十九の属性を挙げているが、その中で最も基本的な属性としては「慈悲ぶかい」、
「慈愛あまねき」を挙げることができる(12)。したがって、イスラム教の徳目の中で最も基
本的なものは慈悲または慈愛であるということができる。

このようにイスラム教の価値観には、本来、他宗教の価値観との共通性、調和性をもっ
ているのであるが、現実においては、今日までイスラム教派内での教派間の争い、他宗
派との戦いなど深刻な対立が多く見られた。そしてそのような対立に乗じながら、共産主
義が浸透してきたのである。共産主義者たちは次のように批判した。「イスラム教のいう
人類愛は現実的にはありえない。イスラム教派間の争いがそれを証明しているではない
か。階級社会においては階級愛があるだけである」。こうして共産主義者たちは、イスラ
ム教と他宗教との対立を利用しながら、一部のイスラム教国家を親共または容共に導い
たのである。

そのようにイスラム教は内的に教派間において対立が見られるのみならず、外的に他
の宗教(例えばユダヤ教、キリスト教)とも昔から深刻な対立関係にあったのである。同じ
宗教の教派同士で、そして、共に神の創造と摂理を信ずる他の宗教とも深刻な対立を呈
することは、それ自体、他の人々に対してイスラム教の価値観の説得力を喪失させてい
るのである。

人道主義価値観の脆弱性

人道主義(humanitarianism)はヒューマニズム(humanism 、人本主義)と同じ意味で用
いられる場合が多い。しかし厳密にいえば、人道主義とヒューマニズムは区別される。ヒ
ューマニズムが人間の解放を目標として、人格の自主性を追求した思潮であったのに対
して、人道主義には倫理的な色彩が強く、人間の尊重、博愛主義、四海同胞主義などを
主張している。人間には動物とは異なって人間らしさがある。したがってすべての人間は
尊重されなければならない、といった漠然とした考え方が人道主義である。しかし、人道
主義において人間は何かという基本問題が明確に解明されていないのである。

したがって人道主義は、共産主義の攻撃に対して弱点を現してきた。例えば人道主義
的な経済人がいるとする。共産主義者は彼に次のようにいう。「あなたは自分が知らない
うちに労働者を搾取しているのだ。すべての人々がともに喜ぶことのできる豊かな社会を
つくるべきではないか」。また人間として何より大切なことは、知識をもつことだと考えてい
る青年がいるとする。すると共産主義者がやって来て彼にいう。「あなたは何のために勉
強しているのか。自分の出世ばかり考えてはいけない。

それは結局、ブルジョアジーのために奉仕する結果になるのだ。われわれは人民のた
めに生きるべきではないか」。そのように批判されれば、良心的な青年であれば反論する
のが難しく、共産主義者にはならないにしても、心の中では、共産主義理論には一理あ
ると考えるようになるのである。そのように、人道主義的な価値観をもっている人たちは、
共産主義者の攻撃に対してなすべきところがなかった。そして、今まで多くの人道主義者
たちが共産主義にあざむかれたのであった。しかし、共産主義が崩壊した今日に至り、
彼らは結局、共産主義が誤りであったことを悟ったのである。

以上、従来の価値観が今日、説得力を失ってしまった経緯が明らかになったと思う。そ
れゆえ伝統的な価値観を回復する道は、確固とした神観の上に新しい価値観を定立す
ることである。