芸術論

第七章 芸術論

一般的に広い意味で、文化とは政治、経済、教育、宗教、思想、哲学、科学、芸術など
のあらゆる人間活動の総合したものというのであるが、その中で最も中心的なものが芸
術である。すなわち芸術は文化の精髄である。ところが今日、自由主義社会、旧共産主
義社会を問わず、先進国、後進国を問わず、世界的に芸術はどんどん低俗化していく傾
向を示している。退廃した芸術は退廃した文化を生む。今日の低俗化の状態がこのまま
継続すれば、世界の文化は一大危機に直面せざるをえない。したがって新文化創建の
ためには、真なる芸術社会を建設しなくてはならず、そのためには新しい芸術論が切に
必要とされるのである。

過去の歴史を振り返って見るとき、新しい時代が到来する度に、芸術は常に指導的役
割を果たしてきた。例えば十五世紀ごろのルネサンス時代においても、その時代の先駆
者的な役割を果たしたのは芸術家たちであった。また、かつて共産主義革命においても、
芸術家たちの貢献が少なくなかった。特に、ロシア革命においては、ゴーリキーの作品が、
また中国革命においては、魯迅の作品が革命運動に大きく寄与したことはよく知られて
いる事実である。したがって、これからの新文化創建に際しても、真なる芸術活動が展開
されなくてはならないのである。

ソ連を中心とした共産主義の芸術は、社会主義リアリズムと呼ばれた。共産主義者た
ちは芸術を革命のための重要な武器の一つと見ており、芸術を通じて資本主義社会の
矛盾を暴露し、人々を革命へと駆り立てようとしたのであった。今日、共産主義社会の消
滅とともに、否それ以前にすでに社会主義リアリズムは消え去っていたのであるが、一時
は共産主義社会の芸術界を風靡していた。社会主義リアリズムは、唯物弁証法と唯物史
観という確固たる信念に基づいた芸術論であった。それに対して、哲学的根拠の希薄な
自由主義社会の芸術論は、脆弱性を露呈してきたのである。

したがって今日、たとえ社会主義リアリズムが消え去ったとしても、それが克服されない
まま消えたために、その消滅は表面上の消滅であり、再び現れる可能性を全く排除する
ことはできない。したがってその再現の可能性までも完全に一掃するためには、徹底した
克服が要求されるのである。すなわち社会主義リアリズムを克服するために、新しい芸
術論が必要となるのである。

このような立場から、ここに新しい芸術論として、統一思想の芸術論、すなわち統一芸
術論を提示しようとするのである。言い換えれば、統一芸術論は今日の芸術の低俗化現
象を阻止しようとするものであるだけでなく、過去の社会主義リアリズムを批判克服しな
がら、新しい哲学に基づいた代案を提示しようとするのである。それは新文化社会の創
建に貢献するためである。神の摂理から見るとき、未来社会は真実社会であり、倫理社
会であるだけでなく、芸術社会でもあるために、新しい芸術論の提示はなおさら必要なの
である。

一芸術論の原理的根拠

新しい芸術論は、もちろん統一原理を根拠としている。その原理的根拠の中で最も重
要なのは、神の創造目的と創造性、喜びと相似の創造、授受作用などに関する理論であ
る。

まず神の創造目的と創造性について説明する。神の宇宙創造の目的は、愛を通じて喜
びを実現することであった。そのために神は、喜びの対象として宇宙を造られたのである。
神が宇宙を創造されたということは、神は偉大な芸術家であって、宇宙は神の作品であ
るということを意味する。さらに具体的に表現すれば、神が喜びを得るために宇宙を造ら
れたということは、直接的には人間を喜びの対象として造られたのであり、人間を喜ばせ
るために人間の喜びの対象として万物を造られたということを意味するのである。

人間に対する神の創造目的を人間を中心として見るときには、造られた目的すなわち
被造目的となるが、それが全体目的と個体目的である。全体目的は神または全体(民族、
国家、人類など個人に対する全体)に喜びを与えるということであり、個体目的は他人や
全体から自分の喜びを得ることである。神は、人間がそのような被造目的を達成するよう
に、人間に欲望を与えたのである。したがって人間は、神または全体を喜ばせながら自
身も喜ぼうとする衝動(欲望)を常にもっている。人間の芸術活動は神の宇宙創造に由来
しているが、創作活動は全体目的すなわち他者を喜ばせようとする欲望から出発し、鑑
賞活動は個体目的すなわち自身の喜びを得ようとする欲望から出発しているのである。

神の創造性は原相における内的発展的四位基台と外的発展的四位基台の形成能力
すなわち創造の二段構造の形成能力である。内的発展的四位基台の形成とは、ロゴス
(構想)を形成することであり、外的発展的四位基台の形成とは、ロゴスに基づいて形状
である質料を用いて万物を造るということである。神のそのような創造過程がそのまま人
間の芸術活動における創作の二段構造の形成として現れる。すなわち、まず構想を立て、
次に材料を用いて構想を実体化して作品をつくるのである。

次は喜びと相似の創造について説明する。すでに述べたように、神は喜びの対象とし
て人間と万物を造られた。主体の喜びは自己の性相と形状に似た対象からくる刺激によ
って得られる(1)。したがって神は、神の二性性相に似るように形象的実体対象として人
間を造られ、また象徴的実体対象として万物を造られたのである(2)。これを芸術論に適
用すれば、芸術家は喜びを得るために、自己の性相と形状に似せて作品を作るのであり、
鑑賞者は作品を通じて自己の性相と形状を相対的に感知して喜ぶという論理になる。

最後に授受作用について説明する。神において性相と形状は、主体と対象の相対的関
係のもとで授受作用を行って合性体または繁殖体を成している(3)。繁殖体を成すとは、
万物を創造するということである。神の原相内のこのような授受作用を芸術論に適用す
れば、創作は主体(芸術家)と対象(素材)の授受作用によって行われ、鑑賞も主体(鑑
賞者)と対象(作品)の授受作用によって行われるということになる。したがって創作にお
いても鑑賞においても、主体のもつべき条件と対象のもつべき条件が必要となるのであ
る。価値論において述べたように、価値(真善美)は主体的条件と対象的条件との相対
関係によって決定されるからである。

二芸術と美

芸術とは何か

人間の心には知情意の三つの機能があるが、それぞれの機能に対応した活動によっ
て、文化活動の様々の分野が形成される。知的な活動によって、哲学・科学などの分野
が形成され、意的な活動によって道徳・倫理などの実践的分野が形成され、情的な活動
によって芸術分野が立てられる。したがって芸術とは、「美を創造し鑑賞する情的な活
動」であるといえる。

それでは芸術の目的は何であろうか。神が人間と宇宙を創造された目的は、対象を愛
することによって喜びを得るためであった。同様に、芸術家の対象である作品を創作ある
いは鑑賞するのも喜びを得るためである。したがって芸術とは、「美の創作と鑑賞による
喜びの創造活動」ということができる。

イギリスの美術評論家、ハーバート・リード(H. Read, 1893-1968)は、「すべての芸術家
は……人を喜ばせたいという意欲をもっているのである。したがって芸術とは心楽しい形
式をつくる試みである(4)」といっている。これは、統一思想の芸術の定義とよく似た芸術
観である。

芸術と喜び

すでに述べたように、芸術とは美の創造すなわち喜びの創造である。それでは喜びと
はいかなるものであろうか。

『原理講論』に「無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展
開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感じる
とき、ここに初めて喜びが生ずるのである」(六五頁)と書かれているように、対象の性相
と形状が、主体の性相と形状と互いに似ているとき、喜びが生じるのである。

存在論と認識論において述べるように、人間は宇宙を総合した実体相であるから、人
体の中には宇宙のすべての性相と形状が潜在的にある。それゆえ、例えば花の場合、
その花の色、形、やわらかさなどの原型がわれわれに備わっているのであり、その原型
と現実の花が授受作用を通じて一致する体験がまさに認識であって、その一致から喜び
の感情が生まれるのである。したがって対象の美を感知しようとすれば、まずその原型
が心の中に浮かんでこなければならない。

それでは原型はいかにして浮かんでくるだろうか。第一に必要なのは、心霊の清さであ
る。心霊が清ければ原型は自ら直観的に浮かんでくる。次は、教養である。美の様々な
形態を体験的に理論的に学ぶことによって、認識に際して、潜在意識の中にあった原型
がたやすく刺激され表面化されやすいのである。

性相の相似性

主体と対象が性相的に似るということは、思想、構想、個性、趣味、教養、心情などの
一部分または全部が主体および対象間で互いに似ることを意味する。その中で、特に重
要なものは思想である。対象の中に自分と同じような思想を発見するとき、美しく見える。
したがって思想を豊富に、深くもっているならば、それだけ喜びの範囲が広がり、深い感
動を受けるようになる。

そのように性相の相似性とは、対象(作品)の中にある作者の心情、思想などの性相的
な側面と主体(鑑賞者)の心情、思想などの性相的な側面が互いに似ていることを意味
するのである。

形状の相似性

次は、形状の相似性である。対象の形状に属するものは事物の形態、色、音、匂い、
香りなど五官で感じる要素である。それらが主体である、われわれの中にある原型と一
致するとき、美しさが感じられ、喜びの感情がわいてくる。

認識論において述べるように、外的世界は人間の心を拡大させ、展開したものである
から、外界のすべての要素は原型的に人間に備えられている。すなわち事物(万物、作
品)の形態、色、音、匂いなどの形状的要素は、原型的に、縮小された形態として、われ
われの中にすでに備わっているのであり、それがすなわち形状の相似性である。その似
ている要素が、認識において互いに一致しながら情を刺激するとき、喜びが得られるの
である。

相補性

さらに喜びの内容である相似性には、相補性という一面もある。つまり、主体は対象の
中に自分に不足している特性を見て喜ぶのである。例えば、男性は女性の中に、自分に
不足しているやわらかさや美しさを見て喜ぶのである。

それは第一に、人間は単独では全一者にはなりえず、神の陽性を属性としてもつ男性
と、神の陰性を属性としてもつ女性として分立され、両者が合性一体化することによって、
神の二性性相の中和の姿に完全に似るように造られたからである。

ところで、この相補性を一種の相似性として見るのは、人間は誰でも、心の潜在意識の
中に自己に不足している部分が満たされることを願う映像をもっているので、現実的にそ
の映像どおりの対象に対するとき、不足した部分が実際に満たされ(相補性)、喜びを感
じるようになるからである。そのとき、その対象は鑑賞者の心の中にあった映像と同じで
あるために、その点において相補性は相似性の性格をもつようになるのである。

そして第二に、神は人間が神の一つ一つの個別相を分けもって、自己に不足した面を
互いに他人を通じて発見し、互いに授受することによって喜ぶように創造されたからであ
る。美のこうした側面も相補性といい、広義の意味で相似性に含まれる概念である。それ
は本来、人間が神において一つであったものが二つ(陽と陰)あるいは多数の個別性に
分立、展開されたものであって、彼らが合一してより完全なものとなるからである。

机と椅子のように、互いに相補って、二つのものが一つの完全なものになる場合も多い。
より完全なものになるということは、それだけ創造目的がより多く実現することを意味し、
そこに満足と喜びが生じるのである。ただし、そのような相補性が成立するためには、そ
の根底により深い次元における相似性がなくてはならない。共通目的や相似性のような
共通性のない、単純な差異からは、美や喜びは生じえないのである(5)。

美とは何か

『原理講論』によれば、愛とは「主体が対象に授ける情的な力」(72 頁)であり、美とは
「対象が主体に与える情的な力」(72 頁)である。対象が鉱物や植物の場合、対象からく
るのは物質的な力であるが、主体(人間)はそれを情的な刺激として受け止めることがで
きる。ところがたとえ対象が主体に刺激(力)を与えたとしても、主体がそれを情的に受け
止めない場合がある。その場合、そのような刺激は情的な刺激とはなりえない。問題は、
主体が対象からくる要素を情的なものとして受け取るかどうかという点にある。対象から
くる要素を主体が情的に受け取れば、その刺激は情的な刺激となるのである。したがっ
て美とは「対象が主体に与える情的な力であると同時に情的な刺激」であるということが
できる。美は真や善とともに価値の一つである。したがって、別の表現でいえば、美とは
「情的刺激として感じられるところの対象価値」である。

先に主体が対象に与える情的な力を愛とし、対象が主体に与える情的な刺激を美とし
たが、実際には、人間同士では、主体と対象が共に愛と美を与え合い、受け合うのであ
る。すなわち対象も主体を愛するのであり、また主体も対象に美を与えるのである。なぜ
かといえば「主体と対象とが合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包される」
(『原理講論』72 頁)からである。主体から対象に、あるいは対象から主体に、情的な力が
送られるとき、送る側ではそれを愛として送り、受ける側では情的な刺激すなわち美とし
て受け止めるのである。

以上、統一思想の立場から美を定義したが、従来の哲学者たちによる美の定義は次の
ようなものであった。プラトンは、対象の中に存在する「美そのもの」すなわち美のイデア
を美の本質と見て、「美とは聴覚と視覚とを通じて与えられる快感である(6)」といった。カ
ントは美を「対象の主観的合目的性」あるいは「対象の合目的性の形式」であると説明し
た(7)。これは自然の対象には作られた目的はないとしても、人間が主観的に、そこに目
的があるように考えて、それによって快感が得られれば、人間にその快感をもたらすもの
が美であるという意味である。

美の決定

美はいかにして決定されるのであろうか。『原理講論』には次のように書かれている。
ある個性体の創造本然の価値は、それ自体の内に絶対的なものとして内在するもの
ではなく、その個性体が、神の創造理想を中心として、ある対象として存在する目的と、
それに対する人間主体の創造本然の価値追求欲が相対的関係を結ぶことによって決定
される。……例を挙げれば、花の美はいかにして決定されるのだろうか。それは、神がそ
の花を創造された目的と、その花の美を求める、人間の美に対する創造本然の追求欲
が合致するとき、言い換えれば、神の創造目的に立脚した人間の美に対する追求欲が、
その花からくる情的な刺激によって満たされ、人間が完全な喜びを感ずるとき、その創造
本然の美が決定される(70—71 頁)。

美は客観的にあるものではなくて、価値追求欲をもった主体が対象と授受作用するとき
に決定される。すなわち対象からくる情的な刺激を、主体が情的に、主観的に、判断する
ことによって、美は決定されるのである。

美の要素

美は客観的に「ある」ものではなく、「感じられる」ものである。対象の中にある要素が主
体に情的な刺激を与えて、それが美として感じられるのである。それでは主体を情的に
刺激する要因になったもの、すなわち美の要素は何であろうか。それは対象の創造目的
と物理的諸要素の調和である。すなわち絵画における線、形、色彩、空間、音楽におけ
る音の高低、長短などの物理的諸要素が、創造目的を中心としてよく調和しているとき、
目的を中心とした調和が主体に情的な刺激を与えるならば、主体はそれを主観的に判
断し、美として感じるのである。そして主体によって判断された美が現実的美である。

調和には、空間的調和と時間的調和がある。空間的調和とは、空間的な配置における
調和であり、時間的調和とは、時間的流れを通じて生じる調和である。空間的調和をもつ
芸術には、絵画、建築、彫刻、工芸などがある。また時間的調和をもつ芸術としては、文
芸、音楽などがある。これらをそれぞれ空間芸術、時間芸術という。その外にも、演劇、
舞踊などの芸術があるが、これらの芸術は時間的調和と空間的調和を共に表すので、
時空間的芸術または総合芸術ともいう。いずれにせよ、調和が美の感情を起こす要因で
ある。

アリストテレスは『形而上学』において、美とは、秩序と均衡と被限定性(限定された大
きさをもつこと)の中にあるといった(8)。またリードは「芸術作品には重力の中心にたとえ
られるような、想像上のある照合点があって、この点をめぐって線、面、量塊が完全な均
衡をもって安定するように分配されている。すべてこうした方式の構成上の目的は調和と
いうことであり、調和はすなわち我々の美感の満足である(9)」といった。両者共に、美の
要素が調和にあるという立場において一致している。

三芸術活動の二重目的と創作および鑑賞

芸術活動には創作と鑑賞の二つの側面がある。芸術活動のこのような二側面は分離
された別々の活動ではなくて、統一的な一つの活動の二つの側面である。すなわち創作
においても鑑賞しながら行うのであり、鑑賞においても主観作用による付加創造(後述)
が加えられるのである。すなわち創造と鑑賞は分けられない不可分の関係にあるのであ
る。

それでは、なぜ芸術活動には創作と鑑賞の二側面があるのだろうか。創作は何のため
に、鑑賞は何のために必要なのだろうか。創作と鑑賞はなぜ不可分の関係にあるのだろ
うか。そのことについて考えてみよう。

統一思想から見れば、創作と鑑賞は二つの欲望に基づいてなされる実践活動である。
すなわち創作は価値実現欲に基づいて、鑑賞は価値追求欲に基づいて行われる。それ
では人間は何のために、二つの欲望をもつようになったのであろうか。それは二重目的
を達成するためである。すなわち価値実現欲は全体目的を達成するために、価値追求
欲は個体目的を達成するために、人間に与えられたのである。つまり神は、人間をして
創造目的を達成させるのに必要な推進力、衝動力として、人間に欲望を与えたのである。

全体目的は、たとえ自覚されないにしても、人間の潜在意識の中にある。そして全体目
的を実現するのに必要な欲望が共に、潜在意識の中に与えられているのである。だから
人間は真実に生き、善の行為をなし、美の創造をして、人類に奉仕し、神を喜ばせようと
するのである。そのように創作は全体目的を遂行しようとする欲望(価値実現欲)に基づ
いているのである。人間はまた自分自身のためにも生きている。したがって人間は、対象
から価値を見いだすことによって喜びを得ようとするのである。それが価値追求欲である。
鑑賞はこの価値追求欲に基づいている。そのように鑑賞は、個体目的を遂行しようとす
る欲望に起因しているのである。

ところで全体目的と個体目的は、神の創造目的からきている。神は喜びを得るために
人間を創造された。それは神の側から見れば創造目的であるが、人間の側から見れば
被造目的である。その目的には、神と全体を喜ばせようとする全体目的と自分も喜ぼうと
する個体目的の二つがあるのである。

このように創作は、作者が対象の立場において、主体すなわち神と人類などの全体の
ために価値(美)を表す行為であり、鑑賞は鑑賞者が主体の立場において、対象である
作品から価値(美)を享受する行為である。いずれも究極的には、神の創造目的に由来
するものである。ところが今日、多くの芸術家はそのような本来の立場から離れて、自己
中心的な芸術に陥っているのである。それは実に嘆かわしい現状であるといわざるをえ
ない。しかし、創作と鑑賞の真の意味が明らかになれば、芸術家は使命感をもって本来
の芸術活動を行うようになるであろう。

四創作の要件

芸術における創作活動の側面を理解しようとすれば、創作の要件を明らかにする必要
がある。創作には、主体(作者)が備えるべき要件すなわち主体の要件と、対象(作品)
が備えるべき要件すなわち対象の要件がある。さらに創作の技巧、素材、様式なども、
創作において重要な要件である。まず主体の要件を説明する。

(一) 主体の要件

主体の要件としてはモチーフ、主題、構想、対象意識、個性などが扱われる。
モチーフ、主題、構想
芸術作品の創作において、まず創作の動機すなわちモチーフがあるが、そのモチーフ
に基づいて、一定の作品を造ろうという創作目的が立てられる。次に主題(テーマ)と構
想が立てられる。主題とは、創作において扱う中心的な課題をいい、構想はその主題に
合うように作品が備える内容や形式に対する具体的な計画をいう。

例えばある画家が秋の景色を見て、美しさに感動して、絵を描く場合を考えてみよう。
そのときの感動がモチーフとなり、その動機から秋の景色を描こうという目的が立てられ、
その目的をもとにして主題が立てられる。そして特に、もみじの木から受けた印象が強く
て、それを中心にして秋を表現しようとすれば、「秋のもみじ」というような主題が決定され
るであろう。主題が決まれば、次は山、木、川、空、雲などの配置や色はどうするかなど、
具体的な構想が立てられるのである。

神の被造世界の創造も、芸術家の創作と同じように表現することができる。すなわち、
まず創造の動機としてのモチーフがある。それが「愛して喜びたい」という情的な衝動、つ
まり神の心情であった。そして御自身に似た愛の対象を創造しようという創造目的が生じ
た。次に人間「アダムとエバ」という主題が定められた。それから具体的な人間と万物に
対する構想、すなわちロゴスが立てられたというように表現できるのである。

神の創造に際して、神の性相の内部において、心情を土台とした目的を中心として内
的性相(知情意)と内的形状(観念、概念、法則など)が授受作用を行って、構想(ロゴス)
が形成されたのであるが、この四位基台形成はそのまま創作の場合にも適用される。す
なわち芸術家たちは、モチーフ(目的)を中心として主題を立て、その主題を実現する方
向に内的性相と内的形状の授受作用を行って構想を立てるのである。これは神の創造
における内的発展的四位基台の形成に該当する(図7—1)。

ロダン( Rodin, 1840-1917 ) の作品の一つである「考える人」は、ダンテ( Dante,
1265-1321 )の『神曲』の中の「地獄編」に基づいて構想された「地獄の門」の、上段の中
央に座している詩人の像である。これは、不安と恐怖と激高のなかに呻吟する地獄の
人々を見つめながら暝想にふけっている一人の詩人の姿である。「考える人」を造る時の
ロダンのモチーフは、ダンテの神曲(地獄編)を読んだときに受けた、地獄の苦痛を免れ
るためには、地上において人間は誰でも善なる生活をしなければならないという強い衝
動であったに違いない。そして主題は「考える人」にほかならず、うずくまって深く暝想して
いる男の姿は、まさに彼の構想の産物である。

ところで主題が同じ「考える人」である、韓国の新羅時代の作品として知られている弥勒
菩薩半跏思惟像がある。しかし、それはロダンの作品とは全く異なる姿として現れている。
弥勒菩薩半跏思惟像は、釈 の最も優秀な弟子であったといわれる弥勒が、衆生を救
うために再び来られるのを待ちわびる民衆の心が、そのモチーフとなっている。その口も
とには衆生の救いに対する自信感に満ちた微笑が漂っている。ロダンの「考える人」の場
合は知的な苦悶の面を強く漂わせているが、弥勒菩薩の場合は浄化された情が中心と
なっており、非常に尊く聖なる像として表現されている。同一の主題のもとでのこのような
両者の差異は、動機と構想の内容が異なるところに基因しているのである。

対象意識

創作とは、芸術家が対象の立場に立って美の価値を表すことによって、主体である神
や全体(人類、国家、民族)を喜ばせる活動であるから、作者はまず対象意識を確立しな
ければならない。そのとき、最高の主体である神を喜ばせ、神の栄光を表す姿勢が対象
意識の極致となる。その内容を見てみよう。

第一に、人類歴史を通じて悲しんでこられた神の心情を慰める姿勢をもたなくてはなら
ない。神は喜びを得るために人間と宇宙を創造され、人間に創造性までも与えられた。し
たがって人間の本来の目的は何よりも神を喜ばせようとすることであり、創造活動も、ま
ず神を喜ばせるために行われるべきであった。ところが人間は神から離れ、神を喜ばせ
ようという意識をなくしてしまった。それが今日まで、神の悲しみとして残されてきたので
ある。それゆえ芸術家は、まず何よりも、神の歴史的な悲しみを慰める立場に立たなくて
はならない。

第二に、芸術家は神とともに復帰の道を歩まれた、イエスをはじめとする多くの聖人や
義人たちを慰める姿勢をもたなくてはならない。彼らを慰めることは、彼らと苦しみと悲し
みを共にされた神を慰めることになるのである。

第三に、芸術家は過去と現在の善なる人々、義なる人々の行為を表現しようという姿
勢をもたなくてはならない。すなわち芸術家は、罪悪世界の人々によって迫害され、今も
迫害され続けている人々の行いを作品に描くことによって、神の摂理に協助しようという
姿勢をもたなくてはならない。

第四に、芸術家は来たるべき理想世界の到来を人々に知らせなくてはならない。したが
って芸術家は未来に対する希望と確信をもって作品を作らなくてはならない。そういう行
為を通じて神の栄光が表現されるのである。

第五に、芸術家は自然の美と神秘を描くことによって、創造主たる神を讃美する姿勢を
もたなくてはならない。神は人間の喜びのために自然を造られたのであるが、人間は堕
落によって自然の美を通じて喜びを得ることが少なくなってしまった。だから芸術家は神
の属性の表れである自然に対して畏敬の念を抱きながら、自然の深くて玄妙なる美を
発見して、神の創造の神秘を讃美し、人々を喜ばせなくてはならない。

芸術家がこのような対象意識をもち、創作に全力を投入するとき、神からの恩恵と霊界
からの協助を受けることができる。そしてそこに真なる芸術作品が生まれるのである。そ
のとき、その作品は芸術家と神との共同作品ともいうことができる。

実際、ルネサンス時代の芸術家たちの中には、そのような対象意識をもって創作活動
を行った者が少なくはなかった。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチ( Leonardo da Vinci,
1452-1519 ) 、ラファエロ( Raffaello, 1483-1520 ) 、ミケランジェロ( Michelangelo,
1475-1564)などがそうであった。古典主義音楽の完成者ベートーヴェン( Beethoven,
1770-1827)もそのような対象意識をもって作曲を行った(10)。それゆえ彼らの作品は不
朽の名作となったのである。

個性

人間は神の個別相の一つ一つに似せて造られた個性体である。したがって創作におい
ても、芸術家の個性が作品を通じて表現されなければならない。創作は作者の個性——
神来性の個別相——の芸術的表現であるからである。そして芸術家は個性を発揮するこ
とによって、神を喜ばせ人を喜ばせるのである。実際、偉大な芸術作品には作者の個性
が十分に現れている。だから作品には、ベートーヴェンの田園交響曲とか、シューベルト
の未完成交響曲というように、作者の名前がついているのである。

(二) 対象の要件

作者のモチーフ(目的)、主題、構想などの性相的条件が作品の中によく反映されてい
るということが、対象である作品のもつべき要件である。そのためにはその性相的条件を
表すのに最も適した材料を用いる必要がある。そしてその材料を用いて創作するとき、
作品において物理的要素(構成要素)が最高の調和を表すようにしなくてはならない。そ
れが形状的条件である。

芸術作品において物理的要素(構成要素)がよく調和していなくてはならないということ
は、すでに述べたように、多くの芸術家や美学者たちが共通にいっていることである。物
理的要素の調和とは、線の律動、形態の集合の調和、空間の調和、明暗の調和、色彩
の調和、音律の調和、絵画における量感の調和、線分分割の調和、舞踊における動作
の調和などをいう。

例を挙げれば、線分分割の調和には、古くから知られている黄金分割というのがある。
それは、与えられた線分を短い辺と長い辺の比が、長い辺と全体の比に等しくなるように
切ることであって、およそ五対八の比に分けることである。この比例を用いれば、形態的
に安定して美が感じられるというのである。例えば絵画において、地平線の上下の空間
の関係、前景と背景の関係をそのような比にすれば調和がもたらされる。ピラミッド、ゴシ
ック寺院の尖塔においても、そのような分割が適用されている。