9認識論 概要

(一) 統一認識論の概要

統一認識論は、従来の認識論に対する代案としての性格も持っている。そこで、従来の認識論が扱った問題、例えば認識の起源、認識の対象、認識の方法などを扱いながら統一認識論を紹介することにする。

認識の起源
すでに述べたように、十七世紀から十八世紀にかけて、認識の根源が経験にあると見る経験論と理性にあると見る理性論(合理論)が形成されたが、経験論はヒュームに至って懐疑論に陥り、合理論はヴォルフに至って独断論に陥った。そのような問題を解決するために、カントは先験的方法によって、経験論と合理論の統一を図った。しかしカントは、物自体を不可知の世界に残してしまった。それに対して統一認識論の立場を紹介することにする。

今日までの認識論は、認識の主体(人間)と認識の対象(万物)の関係が明らかでなかった。そして人間と万物の関係が明らかでなかったために、理性論のように、認識の主体に重点を置いて、理性(あるいは悟性)が推論するままに認識はなされると主張したり、経験論のように、対象に重点を置いて、感覚を通じて対象をそのままとらえることによって、認識はなされると主張したのである。

カントは、対象から来る感性的要素と主体のもつ思惟形式が構想力によって総合・統一され、認識の対象が構成されることによって、認識が成立すると見た。これは主体(人間)のもつ要素と対象(万物)のもつ要素との総合によって、認識はなされることを意味する。しかし彼は両者(主体と対象)の必然的な関係が分かっていなかったために、主体のカテゴリーの枠内でしか認識できないという論理になり、結局、物自体は不可知になったのである。

ヘーゲルは、絶対精神の自己展開において、理念が自己を外部に疎外して自然となるが、のちに人間の精神を通じて本来の自己を回復するといった。そこでは自然は、人間の精神を生じるまでの一つの過程的存在にすぎず、恒久的な存在としての積極的な意味をもてなかった。そしてマルクス主義においては、人間と自然は互いに対立し合う偶然的な関係に置かれているのである。

このように見るとき、認識の主体(人間)と認識の対象(万物)の関係をいかに正しくとらえることができるかが問題となるのである。無神論の立場から見るとき、人間と万物の間には必然的な関係は成立しない。また宇宙はおのずから生じたとする宇宙生成説の立場から見ても、人間と万物は互いに偶然的な存在でしかない。神によって人間と万物が創造された事実が明らかになるとき、初めて人間と万物の必然的関係が確認されるようになるのである。

統一思想から見るとき、人間と万物はいずれも被造物として主体と対象の関係にある。すなわち人間は万物の主管主、主管の主体であり、万物は人間に対して喜びの対象、美の対象であり、主管の対象である。主体と対象は不可分の関係にある。例えていえば、機械における原動機と作業機の関係と同じである。原動機のない作業機は存在する必要がなく、また作業機のない原動機も存在することはできない。両者は主体と対象という必然的な関係を結ぶように制作されているからである。同様に、人間と万物も主体と対象という必然的な関係を結ぶように創造されているのである。

認識とは、主体である人間が喜びの対象であり、美の対象であり、主管の対象である万物を判断する行為である。そのとき、認識すなわち判断には「経験」を伴うと同時に、判断自体は「理性」の働きによってなされる。したがって認識には経験と理性が同時に必要である。このように統一認識論において、経験と理性は両者が共に必須のものであり、両者が統一されることによって、認識が成立すると見るのである。そして人間と万物は主体と対象の関係にあるから、人間は万物を完全にそして正確に認識することができるのである。

認識の対象
統一思想はまず、人間の外部に万物が存在していること、すなわち実在論を認める。人間は万物に対して主体であるから、万物を主管し——万物を栽培、養育したり、取り扱い、加工し、利用したりすること——万物を認識するのである。そのために万物は認識の対象として、また主管の対象として、人間と独立して人間の外部に存在しなければならないのである。

統一認識論はまた、人間は万物の総合実体相として、宇宙の縮小体すなわち小宇宙であるために、人間は万物の構造、要素、素性をことごとく備えていると見る。言い換えれば、人間の体を標本として象徴的に人間に似せて創造されたのが万物である。したがって、人間の体と万物は相似性をなしているのである。さらに、人間において、体は心に似せて造られているのである。

認識は必ず判断を伴うが、判断とは一種の測定作用であると見ることができる。測定には基準(尺度)が必要であるが、認識における基準となっているのが、人間の心の中にある観念であり、それを「原型」という。原型は心の中にある映像であり、内的な対象である。この心の中の映像(内的映像)と外界の対象から来る映像(外的映像)が照合されて、認識がなされるのである。

今日まで実在論は、人間のなかにある先在的な観念を無視して外界の存在だけを主張した。反映論を唱えるマルクス主義は、その代表である。またその反対に、人間の意識の中の観念だけが認識の対象になると主張したのが、バークリによって代表される主観的観念論である。ところが統一認識論においては、実在論と観念論(主観的観念論)が統一されているのである。

認識の方法
統一認識論の方法は、カントの先験的方法やマルクスの弁証法的方法とは異なっている。授受法、すなわち主体と対象の授受作用の原理が統一認識論の方法である。したがって方法から見るとき、統一認識論は授受法的認識論となるのである。

認識は主体(人間)と対象(万物)の授受作用によってなされるが、主体と対象にはそれぞれもたなくてはならない条件がある。あたかも芸術の鑑賞において、主体と対象がそれぞれ備えるべき条件があるのと同じである。作品を鑑賞するとき、主体が備えるべき条件は対象への関心と価値追求欲および主観的要素などであり、対象が備えるべき条件は創造目的と相対的要素の調和である。それと同様に、認識においても主体と対象に条件が必要になる。主体的条件とは、主体が「原型」と「関心」をもつことであり、対象的条件とは、対象が「属性(内容)」と「形式」をもつということである。

ところで授受作用には、存在の二段構造の原則に従って内的授受作用と外的授受作用がある。まず外的授受作用が行われ、続いて内的授受作用が行われることによって認識は成立する。そのように、授受作用によって認識がなされるという理論を授受法的認識論という。

関心をもつ主体(人間)と、対象的条件を備えた万物との間に授受作用が行われる。そのとき、まず感性的段階の心(感性)に対象の属性(内容)と形式(存在形式)が反映されて、映像としての内容(感性的内容)と形式(感性的形式)が形成される。これを「外的映像」という。外的授受作用(または外的四位基台)から現れる映像であるからである。この内容と形式(外的映像)と、主体が前から持っている原型(内容と形式:内的映像)との間にまた授受作用(対比型の授受作用)が行われる。それが内的授受作用(または内的四位基台の形成)である。この授受作用によって初めて認識が成立するのである。

ここで、統一認識論の方法とカントの先験的方法およびマルクス主義の弁証法的方法との差異について述べる。カントにおいて、内容(感性的内容)は外界(対象)から受け入れるものであり、形式つまり直観形式と思惟形式は主体が持っている先天的かつ主観的な要素である。したがって内容は対象に属し、形式は主体に属しているといえる。ところで、カントは物自体を不可知の世界に渡してしまったために、その感性的内容は実体のない内容、つまり主体(主観)のみに属する内容となってしまったのである。そして結局、カントにおいては内容も形式もすべて主体に属するということができる。カントがよく観念論者と呼ばれるのは、そのためである。しかるに授受法的方法においては、内容と形式は主体にも対象にも属する。すなわち、主体も内容と形式を備えており、対象も内容と形式を備えている。

マルクス主義の弁証法的方法においては、内容と形式はすべて客観的実在である対象にだけ属するものであり、主体の意識はただ、これを反映しているにすぎないのである。このように見るとき、統一思想の授受法的方法は先験的方法と弁証法的方法を共に備える立場にあるということができる。すなわち統一認識論においては、外的授受作用に反映論的要素があり、内的授受作用に先験的要素があるのであり、弁証法的方法(反映論)と先験的方法が統一されているのである。