9認識論 原意識、原意識像および範疇 

2020年7月2日
(三)原意識、原意識像および範疇

原意識

『原理講論』には「被造物は原理自体の主管性または自律性によって成長する」(七九頁)とある。ここにいう主管性や自律性は生命力の特徴のことである。生命とは、生物体の細胞や組織に入っている潜在意識であって、潜在している感知力、覚知力、合目的的な能力である。言い換えれば、生命とは、感知性、覚知性、合目的性をもつ潜在意識である。ここに感知性とは、事物に関する情報を直観的に分かる能力をいい、覚知性は分かった状態を持続する能力をいい、合目的性は一定の目的をもちながらその目的を実現しようとする意志力をいう。原意識とは、根本となる意識という意味であるが、それは細胞や組織の中に入っている宇宙意識(生命)のことである。心の機能から見るとき、原意識は低次元の心である。したがってそれは、細胞の中に入った低次元の宇宙心、または低次元の神の心であるということができる。

原意識は同時にまた生命である。宇宙意識が細胞や組織に入って個別化されたものが原意識であり、生命である。つまり細胞や組織の中に入った宇宙意識が生命である。あたかも電波がラジオに入って音声を出すように、宇宙意識が細胞や組織に入り込んで、それらを生かしているのである。結局、原意識とは生命であって、それは感知性、覚知性、合目的性をもつ潜在意識である。

統一思想によれば、神はロゴスでもって宇宙を創造されるとき、生物の各個体の継代のために、すなわち繁殖によって種族を保存するために、その個体に固有なすべての情報(ロゴス)を物質的形態の記録(暗号)として細胞の中に封入されたと見る。その暗号がまさにDNA(デオキシリボ核酸)の遺伝情報であって、アデニン、グアニン、チミン、シトシンの四種類の塩基の一定の配列なのである。

創世記二章七節には、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」とある。万物に対しても同様に、「神は土で細胞を造り、生命を吹きいれられた。そこで細胞は生きた細胞となった」といえる。細胞に吹き入れられた宇宙意識が原意識であり生命である。すなわち、宇宙意識が細胞、組織に吹き入れられることにより、生物体は生きたものとなるのである。

原意識の機能

次は、原意識の機能について説明する。原意識の機能は多様である。すなわち遺伝情報(暗号)の解読と情報の指示事項の遂行、そして情報の伝達などが、その代表的なものである。これについて具体的に説明する。まず宇宙意識は細胞にしみ込んで原意識になると、そこに入っている細胞のDNAの遺伝情報(暗号)を解読する。そして原意識はその情報の指示に従って、細胞や組織を活動せしめるのである。そしてまた、生体の成長にしたがって、細胞や組織の増大、新器官の形成と成長、各細胞間および組織間の相互関係の形成などを実現するための機能を発揮する。

一方で、必要によって、各細胞や組織に新しく発生する情報を末 梢神経(求心神経)を通じて中枢神経に伝達し、中枢は再び末梢神経(遠心神経)を通じて細胞や組織に新しい指令(情報)を下すのであるが、そのとき、その情報を原意識が伝えるのである。そのように細胞や組織と中枢との間で情報を授受する伝達者の役割も、原意識が引き受けるようになるのである。それらが原意識の機能である。

そのような機能はみな、原意識(潜在意識)の感知性、覚知性、合目的性に基因する。そして、原意識がこのような機能を発揮する間に原映像や関係像が発達するようになるのである。

原意識像の形成

生物体の中の潜在意識すなわち原意識は、感知性をもっている。したがって原意識は、直感的に細胞や組織の構造、成分、特性などを感知する。さらに、細胞や組織の状況変化までも原意識は感知している。そのとき原意識が感知した内容、すなわち原意識に反映した映像が「原映像」である。原意識に原映像が生じるということを比喩的に表現すれば、物体が鏡に映ること、またはフィルムの露出によって物体がフィルムに映ることと同じであるといえる。

また原意識は、覚知性をもつ。それは感知した状態を持続すること、すなわち原映像を保持することであって、保持性ということもできる。

細胞、組織、器官などの体内の諸要素は、それぞれ個性真理体および連体として、内的または外的な授受作用を行うことによって、存在し、作用し、成長している。例えば、ある一つの細胞の場合、その細胞内の諸要素(核と細胞質)間に起きる授受作用が内的授受作用であり、その細胞と他の細胞との間に起きる授受作用が外的授受作用である。そのとき授受の関係が成立するが、それに必要ないろいろな条件を「関係形式」という。万物は例外なく、そのような条件を備えた状況のもとでのみ存在しうるために、この関係形式は「存在形式」ともいう。存在形式は、万物が存在する際に組み立てられた枠組みである。

この存在形式が原意識に反映されてできる映像のことを「関係像」あるいは「形式像」という。原意識は原映像と関係像(形式像)をもっているが、原映像と関係像を合わせたものを「原意識像」という。

思惟形式の形成

すでに述べたように、認識主体(人間)のもつ内容には、物質的内容(形状的内容)と心的内容(性相的内容)があるが、物質的内容は対象(事物)の属性と同じものであり、心的内容は原映像である。ここにおいて、物質的内容が心的内容の対応源となっているのである。ここで対応源とは、一対一の対応関係にある二要素の中で因果的関係にある要素をいう。それは例えば、物体と影のような関係と同じものである。物体が動けば影もそれにしたがって動き、物体が停止すれば影も停止する。そのとき、物体は影の対応源という。

体と心の関係において、体が健康であるとき、心が健全になり、体が弱いとき心も弱くなるとすれば、そのとき体は心の対応源となるのである。同様に、認識主体がもつ物質的形式(形状的形式)と心的形式(性相的形式)において、物質的形式は心的形式の対応源となるのである。ここで物質的形式は、まさに対象(事物)の存在形式である。

すでに述べたように、人間の体は万物の総合実体相であるため、万物の属性がそのまま体の属性となり、体の属性が原意識に反映されて原映像すなわち心的内容となるのである。そのように、万物の存在形式もそのまま体の存在形式となり、それが原意識に反映されて心的形式すなわち関係像となる。心的形式とは、まさに思惟形式である。つまり、思惟形式の根は存在形式である。したがって存在形式は、思惟形式の対応源となるのである。

細胞や組織における関係形式(存在形式)が原意識に反映して関係像となるが、原意識の関係像は一種の情報となって大脳中枢に伝達される。まず数多くの関係像は、末 梢神経を通って下位中枢を経たのち、大脳の上位中枢(皮質中枢)に集まる。その過程において、いろいろな関係像が整理され、分類されながら、思惟形式が確定され、皮質中枢に到達すると見るのである。すなわち、外界の存在形式に対応する心的形式としての思惟形式が心理の中に形成されるのである。

この思惟形式が人間が思考するときに、その思考が従うべき枠組みとなる。すなわち、人間の思考は思惟形式に従ってなされる。そのことを「思惟形式が思考を規定する」という。思惟形式は最も根本的、一般的な基本概念を意味する範 疇(カテゴリー)と同じものである。

存在形式と思惟形式

思惟形式の対応源が存在形式であるから、思惟形式を知るためには、まず存在形式を理解しなくてはならない。事物が存在するためには、個体と個体(または要素と要素)が関係を結ばなくてはならないが、その時の形式すなわち関係形式がとりもなおさず存在形式である。統一思想から見るとき、最も基本的な存在形式として次の十個がある。

① 存在と力……すべての個体が存在するとき、必ずそこには力が作用している。存在を離れた力はなく、力を離れた存在もない。神からの原力が万物に作用して万物を存在せしめているからである。② 性相と形状……すべての個体は内的な無形なる機能的要素と外的な有形なる質量、構造、形態から成っている。
③ 陽性と陰性……すべての個体は性相と形状の属性として陽性と陰性をもっている。陽性と陰性は、空間的にも時間的にも常に作用しており、陽陰の調和によって美が現れる。
④ 主体と対象……すべての個体は、自体内の相対的要素間において、あるいはその個体と他の個体との間において、主体と対象の関係を結んで授受作用を行いながら存在している。
⑤ 位置と定着……すべての個体は一定の位置に定着して存在している。すなわち各位置にはそこにふさわしい個体が定着している。⑥ 不変と変化……すべての個体は必ず変化する面と変化しない面をもっている。被造物はすべて自同的四位基台(静的四位基台)と発展的四位基台(動的四位基台)の統一をなしているからである。⑦ 作用と結果……すべての個体おいて、主体と対象の相対的要素が授受作用をすれば必ずそこに結果が現れる。すなわち授受作用によって合性体を成すか、新生体を生じる。
⑧ 時間と空間……すべての個体は時間と空間の中に存在する時空的存在である。存在するということは、四位基台(空間的基台)を形成し、正分合作用(時間的作用)を行うことを意味する。
⑨ 数と原則……すべての個体は数的存在であると同時に法則的存在である。すなわち、数は必ず法則または原則と一体になっている。
⑩ 有限と無限……すべての個体は有限的(瞬間的)でありながら、無限性(持続性)をもっている。

以上は統一原理の四位基台、授受作用、正分合作用を基盤として立てた、最も基本的な存在形式である。これは認識の対象である万物の存在形式であると同時に、認識の主体である人間の体の構成要素の存在形式なのである。

これらの存在形式に対応する心的な形式が思惟形式である。すなわち、①存在と力、②性相と形状、③陽性と陰性、④主体と対象、⑤位置と定着、⑥不変と変化、⑦作用と結果、⑧時間と空間、⑨数と原則、⑩有限と無限などが、そのまま思惟形式となるのである。存在形式は物質的な関係形式であるが、思惟形式は観念の関係の形式であり、基本的概念なのである。

もちろん、このほかにも存在形式や思惟形式はありえるが、ここに挙げたものは統一思想から見た最も基本的なものである。カントが主張したように、思惟形式は存在と無関係な状態にあるのではない。またマルクス主義が主張したように、外界の実在形式が反映して思惟形式となるのではさらにない。人間自身がもとより、外界の存在形式に対応した思惟形式を備えているのである。例えば人間自身、もとより時間性と空間性を備えた存在であるがゆえに、時間と空間の思惟形式をもっているのであり、もとより主体性と対象性を備えた存在であるがゆえに、主体と対象の思惟形式をもっているのである。そのように、十個の存在形式に正確に対応する思惟形式が人間の心に備わっているのである。