3本性論 神相的存在 個性体

2020年6月30日
(三)個性体

神は宇宙の創造において、まず完成した人間の姿を構想され、それを標準として実体対象として被造世界を展開された。したがって被造万物は原因者である神の原相に象徴的に似た個性体であり、人間は原相に形象的に似た個性体である。個性体とは、原相の個別相に似た個性真理体という意味である。

個性真理体は普遍相と個別相をもつ個体であるが、個別相に重点を置いて扱うときの個性真理体を個性体というのである。個性体としての人間の個別相は、動物や植物とは違って、個人ごとにその個別相が顕著であり、顔や性格などが人によって異なるのはそのためである。したがって動物や植物においては種類別の個別相であるが、人間においては個人別の個別相である。

そのように神が、人間に個人ごとに独特な個別相を与えたのは、人間一人一人から特有の刺激的な喜びを得るためであった。したがって人間は、特有の個性をもって神に最高の喜びを返す最高の価値をもつ存在である。そのような個別相も人間の本性の一つである。ところでこのような個別相は、次のような三つの側面において、人間の特性として現れる。

第一の特性は、容貌上の特性である。世界に六十億の人間がいても、同じ容貌や体格をもつ人は一人もいない。第二の特性は、行動上の特性である。人間の行動の様式は一人一人みな異なっている。行動は心の直接の現れであるから、容貌を形状の特性とすれば、行動は性相の特性の現れであるということができる。第三の特性は、創作上の特性である。芸術の創作だけでなく、創造性を発揮するすべての活動はみな創作の概念に含まれる。そういう意味で、創造性を発揮して一日を生きたとすれば、その一日の生活の足跡は一つの作品となるのである。このような意味の創作もまた人によって異なるのである。そればかりでなく人間の一生の足跡も、一つの作品(生の作品)なのである。

したがって神は、本性的な人間の一人一人の容貌を見て喜ばれ、行動を見て喜ばれ、また作品を見て喜ばれるのである。神が個々の人間を見て喜ばれるということは、個々の人間が容貌や行動や創作でもって、神に固有の美を返すことを意味する。それが個性美である。したがって個性美とは、容貌上の個性美であり、行動上の個性美であり、創作上の個性美である。

父母が子女を見るとき、特性においてどの子も美しく愛らしいと思う。子女は父母の表現体であるからである。同様に、神が人間に対するとき、その人間の容貌、行動、創作活動において、美しさを感じて喜ばれるのである。そのような人間の個性は、神から来たもの、すなわち神来性のものであるために尊いのである。人間が人間の個性を尊く思い、相互に尊重しなければならない理由はまさにその点にあるのである。

ところが人間の堕落によって、今日まで人間の個性は無視され、人権が蹂 躙される場合が多かった。特に独裁社会においては、なおさらそうであった。共産主義社会がその顕著な例であった。共産主義は唯物論を根拠として、人間の個性を環境の産物と見て軽視したのである。人道主義は人間の個性の尊重を主張した。しかし、なぜ人間の個性が尊重されなければならないのかということに対して、人道主義には哲学的な答えがないために、哲学をもつ共産主義の批判に耐えることができなかった。それに対して統一思想は、人間の個性は偶然的なものでもなく、環境の産物でもなく、神の個別相に由来するもの、すなわち神来性であるから、尊貴なものであるという確固たる神学的・哲学的根拠を提示しているのである。