2存在論 個性真理体 性相と形状

2020年6月30日
一 個性真理体
(一) 性相と形状

すべての被造物は、何よりもまず原相に似た属性として性相と形状の二側面をもっている。性相は機能、性質などの見えない無形的な側面であり、形状は質料、構造、形態などの有形的な側面である。

まず鉱物においては、性相は物理化学的作用性であり、形状は原子や分子によって構成された物質の構造、形態などである。

植物には、植物特有の性相と形状がある。植物の性相は生命であり、形状は細胞および細胞によって構成される組織、構造、すなわち植物の形体である。生命は形体の中に潜在する意識であり、目的性と方向性をもっている。そして生命の機能は、植物の形体を制御しつつ成長させていく能力、すなわち自律性である。植物はこのような植物特有の性相と形状をもちながら、同時に鉱物次元の性相的要素と形状的要素をも含んでいる。つまり植物は、鉱物質をその中に含んでいるのである。

動物においては、植物よりもさらに次元の高い動物に特有な性相と形状がある。動物の性相とは本能をいう。そして動物の形状とは、感覚器官や神経を含む構造や形態などである。動物もやはり鉱物質をもっているのであって、鉱物次元の性相と形状を含んでいる。さらに植物次元の性相と形状をも含んでいる。動物の細胞や組織は、みなこの植物次元で作用しているのである。

人間は、霊人体と肉身からなる二重的存在である。したがって人間は、動物よりもさらに次元の高い、特有の性相と形状をもっている。人間に特有な性相とは、霊人体の心である生心であり、特有な形状とは霊人体の体である霊体である。そして人間の肉身においては、性相は肉心であり形状は肉体である。

人間の肉体の中には鉱物質が含まれている。したがって人間は、鉱物次元の性相と形状をもっている。また人間は、細胞や組織からできており、植物次元の性相と形状をもっている。また動物と同じように、人間は感覚器官や神経を含んだ構造と形態をもっており、動物次元の性相と形状をもっているのである。人間の中にある動物次元の性相、すなわち本能的な心を肉心という。こうして人間の心は本能としての肉心と、霊人体の心である生心から構成されているのである。ここで肉心の機能は衣食住や性の生活を追求し、生心の機能は真善美と愛の価値を追求する。生心と肉心が合性一体化したものが、まさに人間の本然の心(本心)である。

ここで人間の霊人体について説明する。肉身は万物と同じ要素からできており、一定の期間中にだけ生存する。一方、霊人体は肉身と変わりない姿をしているが、肉眼では見ることのできない霊的要素からできていて、永遠に生存する。肉身が死ぬとき、あたかも古くなった衣服を脱ぎ捨てるように、霊人体は肉身を脱ぎ捨てて、霊界において永遠に生きるのである。霊人体も性相と形状の二性性相になっているが、霊人体の性相が生心であり、形状が霊体である。霊人体の感性は肉身生活の中で、肉身との相対関係において発達する。

すなわち霊人体の感性は肉身を土台として成長する。したがって人間が地上で神の愛を実践して他界すれば、霊人体は充満した愛の中で永遠に喜びの生活を営むようになる。逆に地上で悪なる生活を営むならば、死後、悪なる霊界にとどまるようになり、苦しみの生活を送るようになるのである。

人間は鉱物、植物、動物の性相と形状をみなもっている。そしてその上に、さらに次元の高い性相と形状、すなわち霊人体の性相と形状をもっている。そのように人間は万物の要素をみな総合的にもっているために、人間は万物の総合実体相または小宇宙であるという。以上説明したことにより、鉱物、植物、動物、人間と存在者の格位が高まるにつれて、性相と形状の内容が階層的に増大していくことが分かる。これを「存在者における性相と形状の階層的構造」といい、図で表せば図2—1のようになる。

ここで留意すべきことは、神の宇宙創造において、鉱物、植物、動物、人間の順序で創造するとき、新しい次元の特有な性相と形状を前段階の被造物に加えながら創造を継続し、最後に最高の次元の人間の性相と形状を造ったのではないということである。神は創造に際して、心の中にまず性相と形状の統一体である人間を構想された。その人間の性相と形状から、次々に一定の要素を捨 象し、次元を低めながら、動物、植物、鉱物を構想されたのである。しかし時間と空間内における実際の創造は、その逆の方向に、鉱物から始まって、植物、動物、人間の順序で行われたのである。これを結果的に見るとき、人間の性相と形状は、鉱物、植物、動物のそれぞれ特有な性相と形状が積み重なってできたように見えるのである。人間の性相と形状が階層的構造を成しているということは、次のような重要な事実を暗示している。

第一に、人間の性相は階層性をもちながら、同時に連続性をもっているということである。すなわち人間の心は生心と肉心から成っているが、生心と肉心には互いに連なっている。したがって生心によって肉心をコントロールすることができるのである。また人間の心は、生命とも連なっている。通常、心は自律神経をコントロールすることはできないが、訓練によってそれが可能となることが知られている。例えばヨガの行者は、瞑想によって心臓の鼓動を自由に変化させたり、時には止めることさえできるのである。そして心は、体内の鉱物質の性相とも通じているのである。

人間の心はまた、対内的だけでなく対外的にも、他の動物や植物の性相とも通じ合っている。例えば人間は念力によって、物理的手段を用いることなく、動物や植物はもちろん鉱物にまでその影響を及ぼすことができるということも、明らかにされている。動物、植物、鉱物が人間の心に反応するということも知られている。植物の場合、アメリカの嘘発見器の検査官であるクリーブ・バクスターが確認した「バクスター効果」がその一つの例である。そして、鉱物や素粒子も自体内に思考力をもっているのではないかという推測までなされているのである。

第二に、人間の性相と形状の階層的構造は、生命の問題に関して重要な事実を示唆している。今日まで、無神論者と有神論者は神の実在に関して絶えず論争を続けてきた。その度ごとに、有神論者たちは「神なしに生命が造られることはない。神だけが生命を造ることができる」と言って無神論を制圧してきたのである。いくら自然科学が発達しても、生命の起源に関する限り、自然科学は合理的な論証を提示することはできなかった。そして長い間、生命の起源の問題は有神論が成立しうる唯一のよりどころであった。ところが今日、その唯一の拠点が無神論によって破壊されている。科学者が生命を造りうる段階に至ったと主張するようになったからである。

では、果たして科学者は生命を造ることができるのであろうか。今日の生物学によれば、細胞の染色体に含まれるDNA(デオキシリボ核酸)はアデニン、グアニン、シトシン、チミンという四種類の塩基を含んでいるが、この四種類の塩基の配列が生物の設計図というべき遺伝情報になっている。この遺伝情報に基づいて生物の構造や機能が決定されているのである。結局、DNAによって生命体が造られているという結論になる。そして今日、科学者がDNAを合成しうるという段階にまで至った。したがって唯物論者たちは、生命現象を説明するのに神の存在は全く必要ないと主張する。結局、神はもとより存在しないというのである。

ところで科学者がDNAを合成するということは、果たして生命を造ることを意味するのであろうか。統一思想から見れば、科学者がいくらDNAを合成したとしても、それは生命体の形状面を造ったにすぎない。生命のより根本的な要素は生命体の性相である。したがって科学者が造りえるのは、生命それ自体ではなく、生命を担うところの担荷体にすぎないのである。人間においても、形状である肉身は性相である霊人体を担っているのであって、肉身は父母に由来するが、霊人体は神に由来するのである。同様に、DNAが科学者に由来しうるとしても(すなわち科学者がDNAを造ったとしても)、生命それ自体は神に由来するのである。

ラジオと音声について考えてみよう。ラジオは放送局から来る電波を捕らえて音波に変化させる装置にすぎない。したがって科学者がラジオを造ったとしても、科学者が音声を造ったわけではない。音声は放送局から電波に乗ってくるものだからである。それと同じように、たとえ科学者がDNAを造ったとしても、それは生命を宿す装置を造ったにすぎないのであって、生命そのものを造ったとはいえないのである。

宇宙は生命が充満している生命の場であるが、それは神の性相に由来するものである。そこで生命を捕らえる装置さえあれば、生命がそこに現れるのである。その装置にあたるのがDNAという特殊な分子なのである。「性相と形状の階層的構造」から、そのような結論が導かれるのである。