1原相論 神性 ロゴス

(2) ロゴス

ロゴスとは何か

ロゴスとは、統一原理によれば言または理法を意味する(『原理講論』二六五頁)。ヨハネによる福音書には、神の言によって万物が創造されたことが次のように表現されている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネ一・一—三)。

統一思想から見れば、ロゴスを言というとき、それは神の思考、構想、計画を意味し、ロゴスを理法というとき、それは理性と法則を意味する。ここで理性とは、本性相内の内的性相の知的機能に属する理性を意味するのであるが、万物を創造したロゴスの一部である理性は、人間の理性とは次元が異なっている。人間の理性は自由性をもった知的能力であると同時に、概念化の能力または普遍的な真理追求の能力であるが、ロゴス内の理性は、ただ自由性をもった思考力であり、知的能力なのである。

そしてロゴスのもう一つの側面である法則は、自由性や目的性が排除された純粋な機械性、必然性だけをもつものである。法則は、時と場所を超越して、いつどこでも、たがわずに作用する規則的なものである。すなわち、機械装置である時計の時針や分針が、いつどこでも一定の時を刻むのと同様なものが法則の規則性、機械性なのである。

ロゴスとは理法である

理法とは、このような理性と法則の統一を意味する。ここでは主として、そのような理法としてのロゴスを扱う。それはそうすることによって、また一つの現実問題の解決の基準を立てるためである。現実問題とは、今日、社会の大混乱の原因となっている価値観の崩壊をいかに収拾するかという問題である。

『原理講論』には、ロゴスは神の対象であると同時に二性性相(ロゴスの二性性相)をもっているとされている(二六五頁)。これはロゴスが神の二性性相に似た一種の被造物であり新生体であることを意味するのであって、ロゴスは「性相と形状の合性体」と同様なものであると理解することができる。

しかし、ロゴスは神の言、構想であって、それによって万物が創造されたのであるから、ロゴスそれ自体が万物と全く同じ被造物ではありえない。神の二性性相に似た神の対象であるロゴスは思考の結果物である。すなわち、それは「完成された構想」を意味するものであり、神の心に描かれた一種の設計図である。われわれが建物を造るとき、まずその建物に対する詳細な設計図を作成するように、神が万物を創造されるときにも、まず万物一つ一つの創造に関する具体的な青写真または計画が作られるようになる。それがまさにロゴスなのである。

ところで設計図は建築物ではないとしても、それ自体は製作物すなわち結果物であることに違いない。同じように、ロゴスも構想であり設計図である以上、やはり結果物であり、新生体であり、一種の被造物なのである。被造物はすべて神の二性性相に似ている。それでは新生体としてのロゴスは、神のいかなる二性性相に似たのであろうか。それがまさに本性相内の内的性相と内的形状である。

言い換えれば、内的性相と内的形状が一定の目的を中心として統一されている状態がまさにロゴスの二性性相なのである。あたかも神において、本性相と本形状が中和(統一)をなす状態が神相であるのと同様である。ところでロゴスは言であると同時に理法でもある。それでは、ロゴスを理法として理解するとき、ロゴスの二性性相とは具体的にいかなるものであろうか。それはまさに理性と法則である。理性と法則の関係は内的性相と内的形状の関係と同じであって、内的性相と内的形状の関係は後述するように主体と対象の関係であるから、理性と法則の関係は主体と対象の関係になっている。

ロゴスは理性と法則の統一体

理性と法則の統一としてのロゴスによって万物が創造されたために、すべての被造物には理性的要素と法則的要素が統一的に含まれている。したがって万物が存在し、運動するとき、必ずこの両者が統一的に作用する。ただし低次元の万物であればあるほど、法則的要素がより多く作用し、高次元であればあるほど、理性的要素がより多く作用する。

最も低次元である鉱物においては、法則的要素だけで理性的要素は全くないようであり、最も高次元である人間においては、理性的要素だけで法則的要素は全くないようであるが、実際は両者共に理性的要素および法則的要素が統一的に作用しているのである。

したがって万物の存在と運動は、自由性と必然性の統一であり、目的性と機械性の統一である。すなわち必然性の中に自由性が作用し、機械性の中に目的性が作用するのである。ところで今まで、自由と必然の関係は二律背反の関係にあるように理解されてきた。それはあたかも解放と拘束が正反対の概念であるように、自由と必然も正反対の概念であるように感じられたからである。

しかし統一思想は、ロゴスの概念に関して、理性と法則を二律背反の関係とは見ないで、むしろ統一の関係と見るのである。比喩的に言えば、それは列車がレールの上を走ることと同じである。列車がレールの上を走るということは必ず守らなければならない規則(法則)であって、万一、レールから外れると、列車自体が破壊されるだけでなく、近隣の人々や建物に被害を与えるのである。ゆえに列車は必ずレールの上を走らなくてはならないのである。そのような観点から見て、列車の運行は順法的であり、必然的である。しかしいくらレールの上を走るといっても、速く走るか、ゆっくり走るかは機関車(機関士)の自由である。したがって列車の運行は全く必然的なもののように思われるが、実際は自由性と必然性の統一なのである。

もう一つの例を挙げて説明しよう。自動車の運転手は青信号の時には前進し、赤信号の時には停止するが、これは交通規則として誰もが守らなければならない必然性である。しかし、いったん青信号になったのちには、交通安全に支障にならない限り、速度は自由に調整することができる。したがって自動車の運転も自由性と必然性の統一なのである。

以上、列車の運行や自動車の運転において、自由性と必然性が統一の関係にあることを明らかにしたが、ロゴスにおける理性(自由性)と法則(必然性)も同様に統一の関係にあるのである。そのように、ロゴスの二性性相としての理性と法則は二律背反でなくて統一であることを知ることができる。

ロゴスが理性と法則の統一であるために、ロゴスを通じて創造された万物は、大きくは天体から小さくは原子に至るまで、すべて例外なく、理性と法則の統一的存在である。すなわち万物は、すべて理性と法則、自由性と必然性、目的性と機械性の統一によって存在し、運動し、発展しているのである。

この事実は今日の一部の科学者の見解とも一致している。例えば検流計(ポリグラフ)の付着実験による植物心理の確認(バクスター効果)や、ジャン・シャロン(Jean Charon, 1920-1998 )の複素相対論における電子や光子内の記憶と思考のメカニズムの確認、などがそうである。すなわち、植物にも心があり、電子にも思考のメカニズムがあるということは、すべての被造物の中に理性と法則、自由性と必然性が作用していることを示しているのである。

ロゴスそして自由と放縦

次は、ロゴスと関連して自由と放 縦の真の意味を明らかにする。自由と放縦に関する正しい認識によって、また一つの現実問題が解決されるからである。今日、自由の名のもとになされている様々な秩序破壊行為と、これに伴う社会混乱に対する効果的な対策は何かということが問題になっているが、この問題を解くためには、まず自由と放縦の真の意味が明らかにされなければならない。

『原理講論』には「原理を離れた自由はない」(一二五頁)、「責任のない自由はあり得ない」(一二五頁)、「実績のない自由はない」(一二六頁)と書かれている。これを言い換えれば、自由の条件は「原理内にあること」、「責任を負うこと」、「実績をあげること」の三つになる。ここで「原理を離れる」というのは、「原則すなわち法則を離れる」という意味であり、「責任を負う」とは、自身の責任分担の完遂を意味すると同時に、創造目的の完成を意味するのであり、「実績をあげる」とは、創造目的を完成し、善の結果をもたらすことを意味するのである(一二六頁)。ところで責任分担の完遂や、創造目的の完成や、善の結果をもたらすことは、すべて広い意味の原理的な行為であり、天道に従うことであり、法則(規範)に従うことなのである。

したがって自由に関する三つの要件、すなわち「原理内にあること」、「責任を負うこと」、「実績をあげること」は、一言で「自由とは原理内での自由である」と表現することができるのであり、結局、真の自由は法則性、必然性との統一においてのみ成立するという結論になる。ここで法則とは、自然においては自然法則であり、人間生活においては価値法則(規範)である。価値とか規範は秩序のもとにおいてのみ成立する。それゆえ規範を無視するとか、秩序を破壊する行為は、本然の世界では決して自由ではないのである。

自由とは、厳密な意味では選択の自由であるが、その選択は理性によってなされる。したがって、自由は理性から出発して実践に移るのである。そのとき、自由を実践しようとする心が生まれるが、それが自由意志であり、その意志によって自由が実践されれば、その実践行為が自由行動になる。これが『原理講論』(一二五頁)にある自由意志、自由行動の概念の内容である。

かくして理性の自由による選択や、自由意志や、自由行動はみな恣意的なものであってはならず、必ず原理内で、すなわち法則(価値法則)の枠の中で、必然性との統一のもとでなされなければならない。そのように自由は理性の自由であり、理性は法則との統一のもとでのみ作用するようになっている。したがって本然の自由は理法すなわちロゴスの中でのみ成立することができ、ロゴスを離れては存立することはできない。よく法則は自由を拘束するもののように考えられているが、それは法則と自由の原理的な意味を知らないことからくる錯覚なのである。

ところで、本然の法則や自由はみな愛の実現のためのものである。すなわち愛の中での法則であり自由である。真の愛は生命と喜びの源泉である。したがって本然の世界では、喜びの中で、法則に従いながら自由に行動するのである。それは、ロゴスが心情を土台として形成されるからである。

ロゴスを離れた恣意的な思考や恣意的な行動は似非自由であり、それはまさに放縦である。自由と放縦はその意味が全く異なる。自由は善の結果をもたらす建設的な概念であるが、放縦は悪の結果をもたらす破壊的な概念である。そのように自由と放縦は厳密に区別されるものであるが、よく混同されたり、錯覚されている。それは自由の真の根拠であるロゴスに関する理解がないからである。ロゴスの意味を正しく理解すれば、自由の真の意味を知るようになり、したがって自由の名のもとでのあらゆる放縦が避けられ、ついには社会混乱の収拾も可能になるであろう。このようにロゴスに関する理論も、現実問題解決のまた一つの基準になるのである。

ロゴスおよび心情と愛

終わりに、ロゴスと心情と愛の関係について述べる。すでに明らかにしたように、ロゴスは言または構想であると同時に理法である。ところで言(構想)と理法は別のものではない。言の中にその一部として理法が含まれているのである。あたかも生物を扱う生物学の中にその一分科として生理学が含まれているのと同じである。すなわち生物学は解剖学、生化学、生態学、発生学、分析学、生理学など、いろいろな分科に分類されるが、その中の一分科が生理学であるように、創造に関する神の無限なる量と種類を内容とする言の中の小さな一部分が理法なのであり、それは言の中の万物の相互作用または相互関係の基準に関する部分なのである。

言と理法は別個のものではないばかりでなく、言の土台となっている心情は、同時に理法の土台になっている。あたかも有機体の現象の研究が生物学のすべての分科に共通であるように、創造における神の心情が構想と理法の共通基盤となっているのである。

心情は愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動である。心情が創造において言と理法の土台となっているということは、被造物全体の構造、存在、変化、運動、発展など、すべての現象が、愛の衝動によって支えられていることを意味する。したがって自然法則であれ、価値法則であれ、必ずその背後に愛が作用しており、また作用しなければならない。一般的に自然法則は物理化学的な法則だけであると理解されているが、それは不完全な理解であって、必ずそこには、たとえそれぞれ次元は異なるとしても、愛が作用しているのである。人間相互間の価値法則(規範)には、愛がより顕著に作用しなければならないのは言うまでもない。

先にロゴスの解説において、主として理性と法則、したがって自由性と必然性に関して扱ったが、理法の作用においては、理法それ自体に劣らず愛が重要であり、愛は重要度において理法を凌 駕することさえあるのである。

愛のない理法だけの生活は、規律の中だけで生きる兵営のように、冷えやすく、中身のない粃のようにしおれやすいのである。温かい愛の中で守られる理法の生活においてのみ、初めて百花が咲き乱れ、蜂や蝶が群舞する春の園の平和が訪れてくるのである。このことは家庭に真の平和をもたらす真の方案は何かという、また一つの現実問題解決の基準になるのである。すなわち心情を土台とするロゴスの理論は、家庭に対する真の平和樹立の方案にもなるのである。