4価値論 価値の決定と価値基準

五 現実的価値の決定と価値基準

価値の決定
価値は、主体である人間と対象である万物との相対的関係において、つまり授受作用によって決定または評価されるのであるが、対象の備えるべき条件(対象的条件)は、すでに述べたように、創造目的を中心とした相対的要素相互間の調和である。一方、主体にも備えなければならない条件(主体的条件)がある。まず主体が、価値追求欲と対象への関心をもつことが価値決定の前提条件となっている。そして価値の決定を左右するのが、主観的要因として、主体のもっている思想、趣味、個性、教養、人生観、歴史観、世界観などである。主体のもつべきこのような関心、価値追求欲、および主観的要素が主体的条件である。現実的価値は、この主体的条件と対象的条件の相対関係において決定されるのである(図4—1)。

すなわち主体的条件と対象的条件が成立するとき、そこに授受作用が行われ、具体的な価値が決定される。具体的な価値が決定されるとは、価値の量と質が決定されるという意味である。価値の量とは、花の場合、「とても美しい」とか「あまり美しくない」というような、価値評価の量的な側面をいう。また価値には質的な側面もある。例えば、芸術論で述べるように、美には、優雅美とか、畏敬美、荘厳美、滑稽美などいろいろなニュアンスの美があるが、それが質的な側面から見た美の価値である。

主観作用
すでに述べたように、価値を決定するのに主観的要因が大きく作用する。すなわち主体の思想、世界観、趣味、個性、教養などの主体的条件が対象に反映されて(対象的条件につけ加えられて)、主体だけが感じる特有な現実的価値が決定されるのである。

例えば同じ月を見ても、ある人には悲しく見え、またある人には美しく見えることがある。また同じ人が見ても、悲しい時に見れば月も悲しく見え、気分が良い時に見れば月も美しく見える。主体の心のもち方によって美に差異が生ずるのである。それは美に関してだけでなく、善や真の価値に関しても同様である。そしてそれは商品価値に関しても言えることである。そのように主観が対象に反映することによって、量的にも質的にも価値の差異が生ずるのであるが、そのような主体的条件の作用を「主観作用」という。つまり主体の主観が対象に反映される作用である。

これは美学におけるリップス(T. Lipps, 1851-1914)の「感情移入」に相当する。感情移入とは、自然風景を見るときや芸術作品を鑑賞するとき、自己の感情や構想を対象に投射し、それを鑑賞することをいう。このような主観作用の例を二三挙げてみよう。まず文先生のみ言の中から例を挙げよう。

神の子があなたにハンカチーフを与えたと考えてみよう。そのハンカチーフは金よりも価値が多く、生命よりも価値が多い。またその他のどのようなものよりも価値が大きい。もしもあなたが本当に神の子であるならば、あなたがどのようにみすぼらしい所に住んでいようとも、そこは宮殿である。その時は衣服は問題ではない。われわれの寝ているその場所も問題ではない。なぜならば、われわれはすでに富者となっているからである。われわれは神の王子たちである。

このみ言は、心の中で神の子であるという自覚をもつならば、粗末な小屋も、そのまま宮殿のように立派に見えるという意味であり、主観作用の適切な例である。聖書には「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七・二一)という聖句があるが、これもまた主観作用の例である。また仏教には三界唯心所現という言葉がある。これは三界、すなわち世界全体のあらゆる現象は、心の現れ出たものであるという意味である。これも主観作用の例である。

価値の基準
① 相対的基準
主観作用のために、価値の決定(評価)は人によって異なるものとして現れる。しかし主体的条件に共通性が多い時には、価値評価にも一致点が多くなり、同じ宗教や同じ思想をもつ人たちの間での価値評価の結果はほとんど一致する。例えば儒教の徳目である「父母への孝行」は、儒教社会ではいつも一致した評価であり、普遍的な善である。

このことは宗教や思想が同じ社会では、価値観の統一が可能であることを意味する。ローマの平和(Pax Romana)の時代には、ストア哲学が一般化したために、克己的精神と世界市民主義が支配的な統一的な価値観であった。また中国の唐の時代や韓半島の統一新羅の時代には、仏教が国教であったために仏教的な道徳が中心的な価値観であった。またキリスト教国家であるアメリカ合衆国においては、キリスト教(新教)の道徳観が国民の統一的な価値観となっているのである。

ところが互いに異なる宗教や異なる文化の背景をもつ社会の間には、価値観の差異が現れる。例えばヒンドゥー教では、牛肉を食べることは禁じられているが、イスラム教では豚肉を食べることが禁じられている。また共産主義のいう平和観と自由主義世界のいう平和観は、その概念が全く違っていた。

そのように共通の宗教や思想をもっている地域や社会における価値観は、国民の間でほとんど一致しているが、宗教や思想が異なるときには、価値観は一致しなくなる場合があり、そのとき価値観の一致は一定の範囲にとどまる。そして共通の価値評価の基準が一定の範囲に限られるとき、そのような価値評価の基準を相対的基準というのである。

② 絶対的基準
価値の相対的基準でもっては全人類の価値観を統一することはできない。価値観の相違による対立や闘争をなくすことはできないからである。したがって全人類の真の平和が定着するためには、宗教的な差異、文化的な差異、思想的な差異、民族的な差異などを克服することのできる評価基準、すなわち全人類に共通な価値評価の基準が立てられなくてはならない。そのような価値評価の基準が絶対的基準である。

それでは、そのような絶対的基準はいかにして立てることができるであろうか。そのためにはすべての宗教、すべての文化、すべての思想、すべての民族などを存在せしめた根源者が一つであることを明らかにし、その根源者に由来するいろいろな共通性を発見すればよい。存在論で述べたように、宇宙万物は千態万象であるが、一定の法則によって秩序整然と運行しており、またすべての万物は共通した属性をもっている。それは宇宙万物が神に似せて造られているからである。地球上の数多くの宗教、文化、思想、民族は、それぞれ価値観が異なっているのが普通であるとしても、それらを生じせしめた根源者は一つしかないとすれば、そこには根源者に由来する共通性が必ずあるはずである。

今日まで数多くの宗教が現れたが、決して、それぞれの教祖たちが自分勝手に宗教をつくりあげたのではなかった。神は最終的に全人類を救うために、一定の時代に、一定の地域に、一定の教祖を立てて、まずもって、その時代、その地域の人々を善なる方向へ導こうとされたのである。すなわち神は時や場所によって、言語、習慣、環境の異なる人々に対して、その時代、その地域に適した宗教を立てて救いの摂理を展開されたのである。

そこで各宗教の共通性を発見するためには、すべての宗教を立てた根源者がまさに唯一の神であることを明らかにしなければならない。宇宙万物の根源者をユダヤ教ではヤーウェ、イスラム教ではアッラー、ヒンドゥー教ではブラフマン、仏教では真如、儒教では天といっているが、これはキリスト教でいう神と同一の存在である。ところがこれらの各宗教は、根源者の属性について明らかにしていない。例えば儒教では天が具体的にいかなるものであるか、明らかにできていないし、仏教における真如においても、ヒンドゥー教のブラフマンにおいてもそうである。またキリスト教の神にしても、ユダヤ教のヤーウェ、イスラム教のアッラーにおいても、同様である。

そればかりでなく、これらの各宗教の根源者がなぜ人間と宇宙を創造されたのか明らかにされていないし、悲惨な人類社会をなぜ一日も早く、一時に救うことができなかったのかということも明らかにされていない。そのように各宗教の根源者はベールに包まれていて、漠然と認識されてきたのである。そして各宗教の根源者に関する説明はその根源者の一面だけをとらえたにすぎなかったために、各宗教の根源者が互いに異なるように見えたのである。

これらの各宗教の根源者が、結局は同一なる存在であることを証明するためには、その根源者がいかなる方か、正確に知らなくてはならない。すなわち神の属性、創造目的、宇宙創造の法則(ロゴス)などを正しく理解しなくてはならない。そうすれば、各宗教は同一なる神によって立てられた兄弟の宗教であることが分かるようになる。そして長い間の対立と闘争の関係を清算して、互いに和解し、愛し合うようになるのである。結局、神がいかなる方かを正確に知ることが、問題解決の鍵となるのである。文化、思想、民族に関しても同様である。すべての文化、思想、民族を発生せしめた根源者が同一の存在であることが分かれば、文化の共通性、思想の共通性、民族の共通性なども明らかになってくるのである。

それでは価値評価の絶対的基準となりうる共通性とは、具体的にいかなるものであろうか。それがすなわち神の真の愛(絶対的愛)と神の真の真理(絶対的真理)である。神は愛を通じて喜びを得るために人間を創造されたのである。そのような神の愛は、キリスト教のアガペー、仏教の慈悲、儒教の仁、イスラム教の慈愛などとして表現される。結局、すべての宗教の愛の教えは一なる神の愛に由来するのである。神の愛は人間において、家庭を通じて、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛という三対象の愛として現れる(子女の愛を子女の父母に対する愛と子女相互間の愛に分けると四対象の愛になる)。キリスト教の隣人愛の実践、仏教の慈悲の実践、儒教における仁の実践、イスラム教における慈愛の実践などは、みなこの三対象の愛の実現であったのである。

そして永遠性をもつ神が宇宙を創造されたために、宇宙の運行を支配する真理(理法)は永遠普遍である。宇宙における共通な普遍的事実とは、宇宙のすべての存在者は、自分のために存在しているのではなく、他のため、全体のため、そして神のために存在しているということである。すなわち「ために生きる存在」であるということである。したがって普遍的な善悪の基準は、他人(人類)のために生きるか、自己中心的に生きるかということである。

③ 絶対的基準と人間の個性
このようにして神の真の愛と真の真理によって、価値決定の絶対的基準が立てられ、世界万民の価値判断(決定)が一致するようになる。それではそのとき人間の個性はどうなるのであろうか。価値判断は個人の主観的な要因によってなされるのだから、個性によって価値評価に必ず差異が生じるはずなのに、ここに絶対的基準のもとに価値評価が一致するとすれば、個人の個性は無視されるのではないかという疑問が生じるであろう。しかし、絶対的基準において価値判断が一致化されるとしても、個性が無視されるとか、なくなるのではなく、そのまま生かされるのである。

人間は個性真理体であるために、神の普遍相(共通性)と個別相(特殊性)に似ており、また連体であるために、全体目的と個体目的をもっている。したがって、価値評価の絶対的基準は普遍相(性相、生心、心情、ロゴス)と全体目的に基づいた評価基準であり、主観作用は個別相および個体目的に基づいた評価基準なのである。

したがって、いくら絶対的基準によって絶対的価値が決められるとしても、主観作用による個人差は当然あるのである。言い換えれば、絶対価値とは個人差を含んだ普遍価値である。それは、あたかも個性真理体が個別相を含んだ普遍相をもつ個体であるのと同じである。そして全体目的を優先させながら個体目的を追求し、普遍相をもちながら個別相を現すのが人間である。

絶対的基準における価値評価においても、このような人間の個性に基づいた主観作用を免れることはできない。しかし、あくまでも共通性を基盤としての差異性である。そして、そこには差異性による価値観の混乱はありえない。なぜならば、その時の差異は質的な差異ではなく量的な差異だからである。

例えば善の判断の場合、「貧しい人を助ける」というのは、宗教や思想を問わず善として判断される。それを悪と判断(質的判断)する人は理想世界にはありえない。しかし判断する人によっては、その善が「大いに善である」、「中程度の善である」、「普通の善である」などのように、量的な評価の差異がありうるのである。美や真の判断においても同じである。

価値評価の絶対的基準とは、要するに質的判断の一致をいうのである。ところが堕落社会は利己主義の社会であるために、質的判断の差異すら生じるようになり、その結果、しばしば価値観に混乱が生じるのである。

ここに、新しい価値観の定立ならびに価値観の統一が可能になる。すなわち価値観の個別性を生かしながら、価値評価の基準を絶対的愛と絶対真理を中心として一致化させるのである。新しい価値観とは、そのような神の絶対的愛と絶対的真理を基盤とした価値観である。この新しい価値観における価値がまさに絶対的価値である(5)。そのような絶対的価値をもって、すべての価値観を和合し、調和せしめることができる。それがまさに価値観の統一である。このような価値観の統一には、神の属性、創造目的、心情、愛、ロゴスなどに関する正確な理解が前提にされなければならない。宗教統一、思想統一は、そのような価値観の統一をもって可能になるのである。