5教育論 従来の教育観

四 従来の教育観

次に、従来の代表的な教育観の要点を紹介する。従来の教育観と統一教育論を比較することによって、統一教育論の歴史的な意義がさらに明瞭に示されるからである。

ギリシアの教育観(プラトンの教育観)

プラトン(Platōn, 427-347 B.C. )によれば、人間の魂には情欲的部分、気概的部分、理性的部分の三つの部分があるが、情欲的部分の徳を節制、気概的部分の徳を勇気、理性的部分の徳を知恵という。そして、この三つの徳を調和せしめるときに現れる徳を正義という。国家にはこの魂の三つの部分に対応する三つの階級がある。農・工・商の庶民は情欲的部分に対応する下級階級であり、軍人・官史は気概的部分に対応する中間階級であり、哲学者は理性的部分に対応する上層階級であるとされた。

善のイデアを認識した哲学者が国家を統治するとき、初めて理想国家が実現されるとプラトンは考えた。プラトンにおいて教育の目的は、人々をイデアの世界に導くことであった。それは少数の支配階級たる哲学者を養成する教育であった。理想的人間像は「愛智者(哲学者)」であり、同時に、心身が調和し、知恵、勇気、節制、正義の四徳を兼備した「調和的人間」であった。そして教育の究極的な目的は、善のイデアが実現した理想国家を実現することであった。

中世のキリスト教的教育観

ギリシア時代の教育が、社会に奉仕する善なる人間を目標としていたのに対して、中世のキリスト教社会においては、キリスト教を理想とする人間の育成を目標とした。神を愛し、神を敬い、隣人を愛する「宗教的人間」が理想的人間像であった。特に修道院において、そのような人間像を目指す厳格な教育がなされたが、それは純潔、清貧、服従を徳として、完全な霊的生活を営もうとする教育であった。すなわち、教育の目的はキリスト教的人間の育成であると同時に、来世の生活に対する準備であった。

ルネサンス時代の教育観

ルネサンス時代に入ると、服従や禁欲を徳とした神本主義の世界観を打ち破って、人間性の尊厳を重んずる人本主義の世界観が出現した。人本主義の教育観を代表するのがエラスムス(D. Erasmus, 1466-1515 )であった。教育の目的は、本性的に自由人である人間をして、その人間性の完全な発達を遂げさせるということであり、個性的な、豊かな教養を身につけさせることを説いた。そして文学、美術、科学などの人文的教養を強調した。また、中世において無視されていた体育にも関心をもつようになった。ルネサンス時代の理想的人間像は心身が調和的に発達した「万能の教養人」であった。エラスムスの人間本性への復帰の思想は、コメニウスやルソーへと引き継がれていった。

コメニウスの教育観

コメニウス(J.A. Comenius, 1592-1670 )において、人生の究極の理想は、神と一つになって来世において永遠の幸福を得ることであり、現世の生活はその準備であった。そのために人間は、 (1)すべての事物を知り、(2)事物および自己を統御することを知る者となり、(3)神の似姿にならなくてはならないとして、知的教育、道徳的教育、宗教的教育の三教育の必要性を説いた。「あらゆる人にあらゆることがらを教える」ことが、コメニウスの教育論の主題であり、この教育思想は汎知主義(pansophia )といわれた(1)。

コメニウスは、教育によって達成される素質は本来、人間に内在するものであり、この内在する素質すなわち「自然」を引き出すことが、教育の役割であると考えた。コメニウスはまた、教育は本来、父母が責任をもつべきものであるが、それができない場合、父母に代わって学校が必要になるといった。

コメニウスによれば、理想的人間像は神と自然と人間に関する真なる知識のすべてを知った「汎知人」であり、教育の目的はすべてを知った実践的なキリスト者を育成し、キリスト教による世界の平和統一を実現するということであった。

ルソーの教育観

啓蒙時代の人物であるルソー(J.J. Rousseau, 1712-78 )は『エミール』という教育小説を著し、「[人間は]万物をつくる者の手をはなれるとき、すべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる(2)」と述べて、子供を自然のままに教育することを主張した。人間は本来、内在する「自然の善性」をもっているから、それをそのままの姿で開発すべきであるというのである。人間の自然能力の開発に対して妨害となる要因——既成の体系的文化や道徳的・宗教的観念の注入——を除去しながら、人間を自然のままに成長させていくというのが、ルソーの主張する教育である。ところが現実の堕落した社会において、自然のままの人間は社会には適応できない。しかし、理想的な共和制社会では自然のままの人間と社会の中の市民は両立すると考えて、社会人教育の必要性も説いた。

ルソーの教育観における理想的人間像は「自然人」であり、教育の目的は自然人を育成し、自然人が市民となる理想的な共和制社会を実現することであった。ルソーの教育観は、カント、ペスタロッチ、ヘルバルト、デューイなど受け継がれていった。

カントの教育観

カント(I. Kant, 1724-1804 )は、「人間は教育されなくてはならない唯一の被造物である(3)」、「人間は、教育によってだけ人間になることができる(4)」といって、教育の重要性を説いた。教育の使命は、人間の自然的素質を調和的に発達せしめ、道徳律に従いつつ自由に行動しうる人間を養成することであった。そこにはルソーの影響があった。またカントは、教育は特定の社会に順応することを目標とするものではなくて、一般に人間そのものの完成を目標として、世界主義的でなくてはならないと主張した。

一方でカントは、人間の本性には根本悪があることを認めた。悪とは、道徳律を自己愛に従属させることによって成立するものであった。ゆえに内的な転換(回心)によって、道徳律を上位におかなくてはならないといい、義務がそうであることを命じているといった。道徳の尊重、科学への信頼、そして神への畏敬がカントの教育観・人間観の特徴であった。カントにおいて理想的人間像は「善なる人」であり、教育の目的は世界主義的な人間性の完成であり、究極的には国際的な永久平和の確立であった。

ペスタロッチの教育観

ペスタロッチ(J.H. Pestalozzi, 1741-1827 )は、ルソーの影響のもとに、「自然」に即した教育を主張し、人間に内在する高貴な素質である人間性を解放しようとした。単純なもの、純粋なものを基礎としながら、根本原理を直感することによって、人間は善の行いをするようになると彼は考えた。そして教育は家庭における母の愛から始まるとして、家庭教育が教育の基礎になると主張した。

ペスタロッチは人間性を構成するのに三つの根本力、すなわち精神力、心情力、技術力があるといい、それぞれ頭、心臓、手に相当すると考えた。そして精神力の教育が知識の教育であり、心情力の教育が道徳・宗教教育であり、技術力の教育が技術教育(体育を含む)であるとした。これらを統一する内的な力が愛である。愛は心情力の基本であり、道徳・宗教教育の推進力である。したがって道徳・宗教教育を中心として、この三つの教育は調和的に統一されると主張した(5)。

ペスタロッチの考えた理想的人間像は三つの根本となる力が調和的に発達した人間、すなわち「全人」であった。彼は愛と信仰を中心とした全人格的教育を主張したのである。教育の目的は、人間性を陶冶し、道徳的・宗教的な国家社会を建設することであった。

フレーベルの教育観

ペスタロッチを信奉し、ペスタロッチの人間教育を体系的に構成したのがフレーベル(F. Fröbel, 1782-1852 )であった。フレーベルによれば、自然と人間は神によって統一され、神の法則によって動いている。神性が万物の本性を形成しており、その本性を表現し、啓示し、発展させることが万物の使命である。したがって、人間は人間に内在する神性を生活の中に現さなくてはならないのであり、教育はそのような方向に導くものとなるのである。彼は、次のように述べている。「このような神的なものの表現こそ、まさにすべての教育、すべての生命の目的であると共に、努力の目標であり、同時に人間の唯一の使命なのである(6)」。

フレーベルは、特に幼児教育と家庭教育の重要性を強調した。幼児を自然のままに成長させる場所は家庭であり、教師は父母であるというのが、フレーベルの主張する教育の基本である。そしてペスタロッチと同様に、母の役割を強調した。また、家庭の教育を補うために幼稚園(Kindergarten )が必要であると主張し、幼稚園の創立者となった。

ルソーの唱えた善性をもつ「自然人」は、ペスタロッチに至ると高貴な人間性をもつ「全人」となったが、フレーベルにおいて、理想的人間像は「神性をもつ人間」となったのである。

ヘルバルトの教育観

ヘルバルト(J.F. Herbart, 1776-1841)は、教育学を科学的に体系化しようとしたが、その際、倫理学と心理学を基礎科学として取り入れようと試みた。すなわち倫理学を基礎として教育の目的を、心理学を基礎として教育の方法を打ち立てようとしたのである。

まずヘルバルトは、カントに倣って理想的人間像を「善なる人」とし、教育の目的を道徳的品性の陶冶であるとした。次に、心理学の立場から教育の方法を追求した。ヘルバルトは、人間の精神生活の基礎をなすものは「表 象」であり、表象の集合である「思想圏」(Gedankenkreis)を陶冶することによって、道徳的品性が陶冶されると考えた。つまり知識を教授し、それによって道徳的品性を形成しようとしたのである。

ヘルバルトは表象の形成にあたって、教えること、すなわち教授(Unterricht)の重要性を指摘し、教授の過程について説明した。ヘルバルトの理論をのちに修正したヘルバルト学派によれば、教授の過程は予備、提示、比較、総括、応用の五段階であった。

デューイの教育観

十九世紀の後半に、アメリカでは、行動を人生の中心におくプラグマティズムの人生観が生まれた。デューイ(J. Dewey, 1859-1952 )は、知性は行動に役立つ道具であり、思考は人間が環境を統御する努力の過程で発展すると主張し、道具主義( instrumentalism )を唱えた。

デューイは、「教育は成長することと全く一体のものであり、それはそれ自体を越えるいかなる目的ももたない(7)」といい、あらかじめ提示されるような教育の目的を否定し、成長としての教育を主張した。教育とは、生活上の通信(communication)による伝達(transmission)であり(8)、「経験を絶え間なく再組織(reorganization)ないし改造(reconstruction)することである(9)」という。そして伝達は、直接、成人(教師)から子供にというのではなくて、環境という媒介物を通してなされなくてはならないと言った。このような教育によって社会は発展していくのである。デューイが意図したのは、社会の改造を目指す実践的な技術教育であった。デューイの教育観における理想的人間像は「行動的人間」であった。

共産主義の教育観

マルクスやレーニンは、資本主義社会の教育を次のように鋭く批判している。マルクスによれば、ブルジョア社会の教育政策は愚民化政策であり(10)、教師たちは企業家の致富のために児童の頭脳を加工する生産労働者である(11)。レーニンによれば、資本主義教育は「ブルジョアジーの階級的な支配の道具(12)」であり、「ブルジョアジーのために従順ですばしこい従 僕、資本の意志の執行者、資本の奴隷(13)」を育てることを引き受けているのである。

そのような資本主義社会の教育に対してレーニンは、社会主義社会では「学校はプロレタリアートの独裁の道具とならなければならない(14)」と主張し、教師は労働者大衆に共産主義の精神を植えつける軍隊とならなければならないといった(15)。

共産主義教育の目的は、「国民教育基本法」(一九七三年)の前文に次のように示されている。「ソ連邦の国民教育の目的は、マルクス・レーニン主義の思想で育てられ、ソビエト法と社会主義秩序の尊重、労働に対する共産主義的態度の精神で育てられた、高い教養をもち、全面的に発達した共産主義社会の積極的な建設者の育成である(16)」。すなわち教育の目的は、共産主義社会の建設に献身的な人間を育成することである。そして理想的人間像は「全面的に発達した人間(17)」である。

それでは共産主義教育は、いかなる内容をもっているのであろうか。まず個別的な技術教育に反対し、総合技術教育(ポリテフニズム)を重視する。そして総合技術教育は労働と結びつけてなされなければならないと主張する。さらに社会主義社会では個人と集団に利害の対立はなく、また集団を離れた個人はありえないとして、集団主義教育の必要性を主張する。総合技術教育を体系化したのがクルプスカヤ(N.K. Krupskaya, 1869-1939)であり、集団主義教育を体系化したのがマカレンコ(A.S. Makarenko, 1888-1939)であった。

民主主義の教育観

民主主義の教育理念とは、民主主義思想に基づいた教育の考え方であるが、民主主義教育観の形成に対して、デューイの教育観が二十世紀の前半を通じて大きな役割を演じた。ここでは第二次世界大戦後の民主主義の教育理念を代表するものとして、「アメリカ教育使節団報告書」から引用することにする(18)。まず民主主義とは何かについて、次のように述べている。

民主主義とは、宗旨ではなく、人間の解放された力をあらゆる多様性の中で発揮できるようにするための有効な手段なのである。民主主義をもっとも良く理解するためには、それは、どんなに輝かしいものであれ、遥か彼方の目標としてではなく、現存するすべての自由の浸透的な精神としてとらえなければならない。責任は、この自由の本質をなすものである。義務は、権利が互いに相殺することを防ぐ。分かれたる権利についてであれ、背負われる義務についてであれ、平等な取り扱いの吟味は、民主主義の根本なのである(19)。

そして民主主義教育について次のように述べている。

民主主義の生活に適応した教育制度は、個人の価値と尊厳との認識をその基本とするであろう。それは、各人の能力と適性に応じて、教育の機会を与えるよう組織されるであろう。教授の内容および方法を通じて、それは、学問の自由、批判的に分析する能力の訓練を大切にするであろう。それは、異なった発達段階にある生徒の能力の範囲内で、事実的知識についての広範な討論を奨励するであろう。これらの目的は、学校の仕事があらかじめ規定された教科過程や、各教科についてただ一つだけ認められた教科書に限定されていたのでは、遂げられることはできない。民主主義における教育の成功は、画一性や標準化によって測られることはできないのである。教育は個人を、社会の責任ある、協力的な一員となるよう準備しなければならない(20)。

民主主義の教育理念はこのような民主主義の原理を遵守しながら、そして自らの人格完成を目指しながら、他人の人格を尊重し、自己の責任と義務を果たしたうえで、自己の権利を主張する市民、すなわち民主的市民を養成することである。そして教育の目的は、人格の完成をなさしめ、社会の責任ある成員を育成することであり、民主主義教育の理想的人間像は「尊厳なる個人」である。