4価値論 新しい価値観の定立

2021年8月26日
七 新しい価値観の定立

すでに述べたように、新しい価値観とは絶対的な価値観をいう。価値観の崩壊していく今日、新しい価値観の定立が何よりも重要であるが、相対的価値観でもってこの崩壊現象を防ぐのは、ほとんど不可能である。したがって、それは絶対的価値観によらなければならない。絶対的価値観は、絶対者である神がいかなる属性をもっておられ、またいかなる目的(創造目的)と法則(ロゴス)でもって人間と宇宙を創造されたのかということを明らかにした基盤の上に立てられる価値観である。

神は愛を通じて喜びを得ようとして、愛の対象として人間を創造された。また人間を喜ばせるために、人間の愛の対象として万物を創造された。絶対的価値とは、このような神の愛(絶対的愛)を基盤として立てられた真善美の価値、すなわち絶対的真、絶対的善、絶対的美をいうのである。そのように新しい価値観は、絶対的愛を基盤として成立するのである。

ところで価値観の統一とは、価値(特に善の価値)の判断基準を一致させることである。そのためには、すべての宗教の徳目が絶対的価値の様々な表現形態であること、したがって、すべての徳目は絶対的愛を実現するためにあるという事実を明らかにする必要があるのである。

このような観点から見るとき、新しい価値観は従来のキリスト教、儒教、仏教、イスラム教などの価値観を完全に否定して、全く新しく立てられるのではないのである。従来の価値観の基盤が崩れたのだから、二度と崩れない確固たるものとして立て直し、従来の価値観を蘇生させることができるものとして立てられるのが新しい価値観である。そのような新しい価値観の絶対性を保証するために、次のような神学的、哲学的、歴史的根拠を提示する。

神学的根拠の提示

神学的根拠の問題とは、宇宙の絶対者、すなわちキリスト教の「神」、儒教の「天」、仏教の「真如」、イスラム教の「アッラー」などが、実際に存在するのかどうか、そしてその相互の関係はどうなのかという問題である。

そのような問題が解決するためには、絶対者なる神が、なぜ人間と宇宙を創造されたかという、従来の宗教において明らかにされていない未解決の問題がまず解明されなくてはならない。原相論ですでに明らかにしたように、それはまさに神が心情の神だからである。心情とは「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」である。その衝動のために、神は愛の対象として人間を造り、人間の住む環境として宇宙を造られたのである。すなわち神を心情の神として規定することによって、神の宇宙創造に対する必然的な理由が合理的に説明されるのである。それだけでなく、神が存在する事実を確認する重要な根拠となるのである。

ところで神は人間が神の姿に似るように成長することを願われた。そのとき、神の喜びが最高に実現されるからである。そのために神は人間に三大祝福を与えられた。すなわち人間が人格を完成し、家庭を完成し、主管性を完成するようにせしめられたのである。したがって、神の創造目的は人間が三大祝福を完成することによって成就するのである。このような観点から見るとき、すべての宗教の徳目は三大祝福を完成し神の創造目的を実現するというところに、その趣旨があることが分かるのである。

哲学的根拠の提示

キリスト教や儒教、仏教、イスラム教などの従来の価値観は、紀元前六世紀ごろから紀元七世紀にかけて現れたものである。当時、国民は君主の命令を無条件に受け入れなければならなかった。生きるためには、その道しかなかったのである。それに当時の人々には理論的に批判する能力はほとんどなかったために、権威の前に無条件に従順するのは当然であった。したがって孔子、釈迦、イエス、マホメットなどの権威ある人たちの教えに対しても、人々は無条件に従うという社会であった。だから、その時代の価値観を現代の合理的、論理的な思考方式をもった人々にそのまま適用することには無理がある。そこで現代の知識人たちが受け入れることのできる合理的な説明方式でもって、それらの価値観を現代人に伝える必要があるのである。

それでは、現代の人々に受け入れられる方式とはいかなるものであろうか。それは自然科学的な方法である。倫理的徳目であっても、それが科学的な法則によって裏づけられるとしたら、そのような徳目は現代の知識人たちに容易に受け入れられるのである。

自然を研究して、そこから価値観や人生観を発見するということは、古代ギリシアや東洋においても、よく行われてきたことであった。例えば朱子は、自然法則はそのまま人間社会において倫理法則になるといい、自然法則と倫理法則の対応性を主張した。現代に至ってはマルクス主義者たちが、自然法則を間違ってとらえているとはいえ、やはり自然法則と社会法則(社会生活の規範)の同一性を強調しながら、自然も社会も弁証法に従って発展していると主張したのであった。

そこで新しい価値観を立てるにあたって、自然や宇宙の観察を通じて、そこに作用している根本的な法則を見いだしたのちに、そこから価値観を導き出すという方法を用いることが必要である。そして宇宙を貫いている法則すなわち天道が、人倫道徳の基準となることを明らかにするのである。これがすなわち哲学的根拠の提示である。

ここに自然法則と倫理法則は、果たして対応するのか、すなわち自然法則をそのまま倫理法則に適用できるのかという問題が提起される。統一思想によれば、すべての存在は性相と形状の両側面を統一的に備えている。したがって性相面の法則である倫理法則と、形状面の法則である自然法則には対応関係があるという結論が自動的に導かれるのである。

ここで重要なことは、いかにして自然を正しく理解するかということである。すでに存在論において指摘したように、マルクス主義弁証法は対立物の闘争によって自然は発展していると、自然を誤って把握した。したがって、そのような自然に対する誤った把握の上に立てられた闘争的な人間像は誤った人間像となったのである。

統一思想から見れば、宇宙(自然)に作用している根本法則は弁証法ではなく授受法(授受作用の法則)である。そして存在論で述べたように、授受法には次のような特徴がある。すなわち、相対性、目的性と中心性、調和性、秩序性と位置性、個別性と関係性、自己同一性と発展性、円環運動性などである。そこで宇宙の法則に基づいて、新しい価値観(統一価値観)を論じていくことにする。

宇宙には縦的な秩序と横的な秩序がある。月は地球を中心として回り、地球は太陽を中心として回り、太陽系は銀河系の中心核を中心として回り、銀河系は宇宙の中心を中心として回っている。これが宇宙における縦的な秩序である。一方、太陽を中心として、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星が一定の軌道を描いて回っている。これが宇宙における横的な秩序体系の一つである。これらはみな調和的な秩序体系であって、矛盾とか闘争は全く見られない。この宇宙の秩序体系を縮小したものが家庭秩序である。したがって、家庭にも縦的秩序と横的秩序が成立する。

家庭の縦的秩序から縦的価値観が成立する。家庭において、父母は子女に慈愛を施し、子女は父母に孝行する。これが家庭における縦的価値観である。これを社会、国家に適用すれば、いろいろな縦的価値観が出てくる。君主の国民や臣下に対する矜恤や善政、国民や臣下の君主に対する忠誠、師の弟子に対する師道、弟子の師に対する尊敬と服従、年長者の年少者に対する愛護、年少者の年長者に対する尊敬、上官の部下に対する権威と命令、部下の上官に対する服従などがそうである。

家庭の横的秩序において横的価値観が成立する。家庭において、夫婦には和愛があり、兄弟姉妹には友愛がある。そしてこれが同僚、隣人、同胞、社会、人類などに対する価値観として拡大し、展開される。したがって和解、寛容、義理、信義、礼儀、謙譲、憐憫、協助、奉仕、同情などの徳目が横的価値観として成立するようになるのである。

このような縦的および横的な価値がよく守られれば、社会は平和を保ち健全に発展するが、そうでなければ社会は混乱に陥る。このような価値観は共産主義者たちがいうように、封建社会の遺物や残滓では決してなく、人間が永遠に守らなければならない普遍的な人間行為の規範なのである。なぜならば、宇宙の法則が永遠であるように、人間社会の法則も宇宙の法則に対応して永遠だからである。

さらに宇宙の法則には個別性の法則があるが、これに対応しているのが個人的価値観である。宇宙のすべての個体は、それぞれの特性をもちながら、宇宙の秩序に参加している。だから人間社会においても、各人は個有の人格を形成しながら、相互に関係を結んでいるのである。個人的価値観には、純粋、正直、正義、節制、勇気、知恵、克己、忍耐、自立、自助、自主、公正、勤勉、浄潔などがある。これらはみな個人として、自己を修養するための徳目である。

ところで、このような縦的価値観、横的価値観、個人的価値観は、徳目としては特別に新しいものではなく、孔子、釈迦、イエス、マホメットなどが、すでに教えていたものである。ただ従来の価値観は、哲学的根拠が漠然としていたために、今日に至り、説得力を失ってしまったのである。そこで、ここに確固たる哲学的根拠を提示して、伝統的な価値観を蘇生できるようにするのである。

歴史的根拠の提示

新しい価値観は歴史的に実証されうるであろうか。共産主義は、自然現象が闘争によって発展しているように、人類歴史もやはり闘争(階級闘争)によって発展してきたと主張している。しかし「歴史論」において説明するように、歴史は決して闘争によって発展したのではない。歴史の発展はあくまでも主体と対象(指導者と大衆)の調和的な授受作用によってなされたのである。

歴史上に闘争があったのは事実であるが、それは階級闘争ではなかった。より善なる勢力と、より悪なる勢力との戦いであった。価値観という観点から見るとき、それは価値観と価値観の戦いであったといえる。すなわち、天道に近い側(善の側)の価値観と天道から遠い側(悪の側)の戦いであった。そして一時的には善の側が悪の側に敗れる場合もあったが、結局は、天道に近い善の側が勝ったのである。孟子も、そのことを「天に順う者は存し、天に逆らう者は亡びる」といった。ところで善悪の闘争は歴史を発展させるものではなくて、歴史をより善の方向に転換させるためのものであった(第八章「歴史論」を参照)。

歴史を顧みれば、国家の主権は興亡を繰り返したのに対して、善を標榜する宗教は継続して今日まで存続してきた。また聖人や義人たちが、たとえ悪の勢力によって犠牲になった場合が多かったとしても、聖人や義人たちの教えと業績は後世の人々の教訓と亀鑑となったのである。そのような歴史的事実は、天道がそのまま歴史に作用してきたことを証明しているのである。すなわち、いかなる主権者であっても、天道を拒否することができないのであり、天道を拒否すれば悲運に見舞われるという事実を知るようになるのである。

それからもう一つの歴史の法則は、歴史の出発点にすでに目標が立てられていたということである。宇宙は目的(創造目的)を中心として、理法(ロゴス)に従って創造された。生物の成長を見ても、種子(あるいは卵)の中に、すでに理法が内在しており、その理法に従って種子は成長する。それと同様に、民族の歴史、人類の歴史においても、やはり出発点に一定の理念があり、それを目指して歴史は発展してきたのである。すなわち歴史が到達すべき目標が、歴史の出発点にすでにあったのである。それが神話や伝説などに象徴的に表された人類や民族の理想、建国の理想であった。

人間始祖の堕落によって人類歴史は罪悪歴史として出発したが、神は復帰すべき創造理想の世界像を、象徴と比喩を含んだ一種の神話形式で人間に知らされたのであった。創世記のエデンの園の出来事や、イザヤ書や黙示録の中の予言的な記録、そして韓民族の檀君神話などがその例である。およそ今日までの民族の理想、人類の理想とは、善なる明るい平和な世界であり、幸福な世界の実現であった。それがすなわち天道にかなった世界である。そのように歴史の出発点にすでに歴史の目標が立てられていたことを、神は神話や予言によって教えてくださったのであった。したがって歴史が目標としている未来の世界は、天道にかなった世界であり、価値観の確立した世界なのである。