7芸術論 社会主義リアリズムに対する批判

(二) 社会主義リアリズムに対する批判

「文学は党のものとならなければならない」というレーニンの言葉、「作家は人間精神の技師」であるというスターリンの言葉、「作家は社会主義の助産婦であり、資本主義の墓掘人である」というゴーリキーの言葉のように、芸術家や作家には党の命令への絶対服従のみが要求され、芸術家や作家の個性や自由は完全に無視されるようになった。その結果、革命以後、共産主義体制が崩壊するまで、ソ連では芸術家・作家たちは監視と抑圧の中で生きてきた。そして特にスターリンが社会主義リアリズムを推進した三十年代の後半には、多くの芸術家や作家が異端のレッテルをはられて逮捕され、粛清されたのであった(23)。スターリンの死後も社会主義リアリズムは相当な期間、芸術理論として君臨し続けたのであり、その間、多くの芸術家・作家たちが反体制に回ることになった。

社会主義リアリズムを批判した美術評論家リードは「社会主義リアリズムは、知的または独断的な目的を芸術にいたずらに押し込めようとする企画にすぎない(24)」といった。

スターリン賞を受賞したが、のちにスターリンを批判したソ連の作家イリヤ・エーレンブルグ(I. Ehrenburg, 1891-1967 )は、「紡績工場の女織工を描いた本の中で描写されているのは人間ではなく機械であり、人間の感情でなく生産過程にすぎない(25)」といって、社会主義リアリズムにおいて描かれる人間像を批判した。

韓国の芸術評論家、趙要翰も、社会主義リアリズムにおける人間像を次のように批判した。

彼等[ソ連の作家]が描写した農民と労働者達は、皆同じく一抹の不安もうかがいみることのできない、たぐいまれな主人公達であった。それは無葛藤の理論が流布されたからなおさらであった。すなわち人間的な深い苦悶と関連がないかのように見える。自己の独特な生活のない主人公達であった。……ゆえにそこには人間の内的世界が表現できるはずがない(26)。

一九八六年四月、ソ連・ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所で爆発事故が起きた。それに関連してゴルバチョフは、チェルノブイリ原発の惨事の原因はソ連の官僚主義に責任があることを確認して、「これは悲劇である。惨事も問題であるが、われわれの社会に官僚主義がこのように根を深く下していることを確認することがより悲しいことである」と嘆き、党と政府の次元で試みて失敗した官僚主義の清算の努力を作家たちに訴えるに至ったのである。ゴルバチョフは一九八六年六月末の第八回ソ連作家同盟全国大会に臨んで、「官吏たちの偽善を風刺したゴーリキーに見ならって、作家の皆さんは官吏たちに対してもっと批判的な文を書いてくれ」と訴えた。すると一部の作家たちは、「それならば文学作品の事前検閲を廃止せよ」と要求した。ソ連の芸術家・作家たちは、長い間、社会主義リアリズムの名のもとに自由を奪われていたからであった。

中共では、毛沢東の文化大革命の前に、百家争鳴政策の一環として、一時文化人たちに自由が与えられたことがあったが、その時、文化人たちの大部分は社会主義政策を批判した。その後、鄧小平が実権を握ると、実用主義を採用し、文化人たちに少しずつ自由を許し始めた。すると中共の著名な理論家王 若 水は、社会主義にも資本主義と同じく、人間の疎外があることを暴露した。

このように、プロレタリア革命のための芸術、そして党の方針に順応した芸術としての社会主義リアリズムが完全に偽りの芸術であったことが分かるのである。