9認識論 カントの認識論の批判 

(一) カントの認識論の批判

先験的方法の批判

カントは、主体(主観)には先天的な思惟形式(カテゴリー)が備わっていると主張した。しかし、カントのいう思惟形式をよく検討してみれば、客観的な存在形式でもある。例えば客観世界のすべての事物は、時間と空間という形式の上で存在し、運動している。また科学者は、客観世界の時間と空間という形式の上で、一定の現象を人為的に起こすことができる。したがって、 時間と空間の形式は主観的であるだけでなく、客観的な形式でもあるのである。因果性の形式についても同様である。科学者は、自然界の現象の中から多くの因果関係を発見し、その因果関係に従って同様な現象を実際に起こすこともできる。これは、客観世界に実際に因果関係があることを示している。

またカントは、主観(主体)の形式と対象から来る内容が結合することによって、認識がなされるといったが、統一思想から見れば、主体(人間)も対象(万物)も、内容と形式を共にもっているのである。すなわち主体が備えているのは、カントのいう先天的な形式だけではなくて、内容と形式が統一された先在性の原型(複合原型)であり、また対象から来るのは、混沌とした感覚の多様ではなくて、存在形式によって秩序づけられている感性的内容なのである。

しかも主体(人間)と対象(万物)は相対的な関係にあって、相似性をなしている。したがって、主観が対象を構成することによって認識がなされるのではない。主体のもっている「内容と形式」(原型)が、対象のもっている「内容と形式」と授受作用によって照合され、判断されることによって、認識がなされるのである。

不可知論に対する批判

カントは、現象的世界における自然科学的な知識のみを真なる認識であるとして、物自体の世界(叡智界)は認識できないものと規定した。そうすることによって、感性界と叡智界を全く分離してしまった。それは、純粋理性と実践理性の分離を意味し、科学と宗教の分離を意味していた。

統一思想から見るとき、物自体は事物の性相であり、それに対して感性的内容は形状である。事物において性相と形状は統一されたものであり、しかも性相は形状を通じて表現されるから、われわれは形状を通してその事物の性相を知ることができるのである。

さらに統一思想によれば、人間は万物の主管主であり、万物は人間の喜びの対象として、人間に似せて創造されたものである。万物が人間に似せて造られたということは、構造や要素において人間と万物が似ていること、したがって内容と形式も似ていることを意味する。それゆえ認識において、主体(人間)のもつ「内容と形式」と、対象(万物)のもつ「内容と形式」は相似性をなしていて、互いに照合することができるのであり、しかもその内容(感性的内容)を通じて物自体すなわち対象の性相が表現されるから、主体は対象の形状(感性的内容と形式)のみならず、性相(物自体)までも完全に認識することができるのである。カントは、人間と万物の原理的な関係が分らなかったために、また人間が霊人体と肉身の統一体であることが分からなかったために、不可知論に陥ってしまったのである。