5教育論 規範教育

(二) 規範教育

家庭完成のための教育

家庭完成のための教育とは、一人の男性と一人の女性が夫婦となったとき、神の陽陰の調和に似るようにするための教育であり、本然の夫婦となれる資格を備えるための教育である。人間堕落が規範(神の戒め)を守らなかったことにあったので、この教育はまず神の戒めを守るようにするための規範教育である。規範教育は夫婦となって家庭を形成する資格を備えるための教育である。男性は夫としての道理を、女性は妻としての道理を身につけなければならない。また家庭における父母と子女の本然のあり方や兄弟姉妹のあり方も、規範教育に含まれる。

規範教育において、特に重要なのは、性の神聖性、神秘性について教えることである。性は結婚を通じて初めて体験するものであって、それまでは決して冒してはならないのである。聖書によれば、神はアダムとエバに「善悪を知る木からは取って食べてはならない」(創世記二・一七)といわれた。善悪の果はエバの性的愛(『原理講論』一〇三頁)を意味するために、「善悪の果を取って食べてはならない」ということは、性(性の器官)は神聖なものであって、性の領域を汚すことによって、性を冒してはいけないということを意味する。

この戒めはアダムとエバだけのものではなくて、現在も有効であり、未来にも有効な永遠なる天の至上命令である。これはまた男女が結婚したあとにも、他の異性と脱線行為をすることは決して許されないという至上命令でもある。したがって規範教育とは、神の戒めを守りながら神の陽陰の調和に似るようにするための教育、すなわち夫婦の資格を備えるための資格教育なのである。

理法的存在になるための教育

人間はロゴス(理法)によって創造されたために、規範教育はまた人間がロゴス的存在、理法的存在になるように、すなわち天道に従うようにするための教育であり、理法教育ともいう。天道とは、宇宙を貫いて作用している法則であって、授受作用の法則のことをいう。天道から自然法則と価値法則が導かれるが、そのうち価値法則が規範となるものである。宇宙に縦的秩序と横的秩序があるように、家庭にも縦的秩序と横的秩序がある。したがって家庭にはこの二つの秩序に対応する価値観、すなわち縦的価値観と横的価値観が成立する。そのほかにも個人的価値観がある。それらについては、すでに価値論において述べた。

規範教育は、心情教育と並行して行われなくてはならない。規範教育そのものは義務だけを強要しがちだからである。規範とは、「……してはならない」とか、「……しなければならない」という形式で行為を規定するものであるために、そこに愛がなければ、その規範は形式化され律法的なものになりやすい。したがって、規範教育は愛の雰囲気の中で実施されなければならないのである。

規範のない盲目的な愛のことを一般的に溺愛という。そのような愛で子供に対すれば、子供は結局、分別力がなくなり父母や教師を軽視するようになる。父母の愛や教師の愛には、どことなく権威がなくてはならない。そのような愛はロゴスにかなった愛でなくてはならないのである。一方、愛は少なく、規範だけを強調すれば、子供は拘束感を感じて親や教師に反発するようになる。愛は規範の下にあるのではなく、上になければならないのである。したがって子供がたとえ規範を一、二度守らなかったとしても、温かい愛をもって許してやらなければならないのである。

愛はすべてを許し受け入れようとするが、規範は厳しく規制しようとする。愛は円満で丸いが規範は直線的である。人間において、愛と規範は統一されなくてはならない。愛は円満であり、規範は直線的であるから、愛と規範の統一された人間は、円と直線を統一したような人格者となる。すなわち人格者とは、最も円満でありながら厳しい面を統一的に備えた人をいうのである。このような人格をもつ人は、ある時にはとても優しく、またある時には非常に厳しくというように、時と場所に応じて、いつでもふさわしい態度を取ることができるのである。

それゆえ規範教育は心情教育と統一されなければならない。すなわち家庭と学校において、愛の雰囲気の中で子供の規範教育が実施されなければならない。規範のために愛が冷えればその規範は形式化してしまうからである。