8歴史論 歴史の変遷

四 歴史の変遷

以上、列挙した創造の法則と復帰の法則は、みな歴史の変遷に作用した法則であるが、中でも特に重要なものは、授受作用の法則、相克の法則、蕩減の法則、分立の法則である。そのうち授受作用の法則は歴史の変遷における「発展の法則」となり、他の三つは合わせて「転換の法則」となる(「転換の法則」は「善悪闘争の法則」ともいう)。

歴史が授受作用によって発展してきたことは、すでに説明したとおりである。すなわち精神と物質、人間と環境(自然、社会)、政府と国民、団体と団体、個人と個人、人間と機械などの、様々な主体と対象の間の授受作用が円満になされることによって、政治、経済、社会、文化など、あらゆる分野の発展がなされてきたのである。

発展とは、成長、発育、向上などをいう。また新しい質の出現のことをいう。これらはみな不可逆的な前進運動である。それは主体と対象の相対要素が共通目的を中心として調和的な授受作用を行う時に現れる現象である。それに対して、闘争は互いに目的が異なり、利害が異なる主体と主体の間に生ずるものである。闘争が行われる時は、発展は停止するか、またはかえって後退するのである。したがって、歴史上に現れたいかなる種類の発展も、例外なく、授受作用によってなされたのである。

主体と主体は相克の法則に従って対立し、闘争するが、歴史上における主体と主体の相克とは、指導者と指導者の対立をいうのである。例えばフランス革命の際の中産市民層(ブルジョアジー)の指導者たちとルイ十六世を中心とした王党派貴族たち、すなわち新しい指導者たちと古い指導者たちの闘争がその例である。両者は分立の法則に従って、相対的に善の側の立場(神の摂理にかなう立場)と悪の側の立場(神の摂理を妨害する立場)に分けられたのである。そして各々の主体が、対象であるところの大衆を互いに自身の方へ引きつけることによって(その時、大衆は二分される)、善の側の陣営と悪の側の陣営を形成して闘ったのである。指導者のうち、どちらが善でどちらが悪の立場であるかは、いかに神の摂理に寄与しているかによって決定される。大体において、古い社会の指導者は自己中心的に傾いて専制的支配をこととしたのであり、したがって神の摂理を妨害する悪の方へ傾くようになったのである。その時、神は摂理の進行に役に立つような新しい指導者を善の立場に立て、彼を通じて摂理されたのである。

善悪の闘争において、善の側が勝てば歴史の進む方向はより善の方向へ転換する。その後、歴史が一定の新しい段階に達すれば、それまでの指導者は悪の側に傾くようになる。そこにより善なる指導者が現れる。そして再び善悪の闘争が行われる。ここで善の側が勝てば、歴史の方向はさらに善なる方向に転換するのである。そうして、ついには完全なる善の段階、すなわち創造理想世界が実現する段階に到達するようになる。そのとき、初めて善悪の闘争は終わりを告げる。そのように、闘争は決して発展をもたらすものではなくて、ただ歴史発展の方向を転換させる役割を果たすだけである。

善の側の主体と悪の側の主体の闘争において、悪の側が強力である場合、神は蕩減の法則を通じて悪の側を屈伏させたのであった。すなわち善の側の指導者をして悪の側の勢力の迫害や攻撃を受けながら、苦難と逆境の道を歩むようにせしめて、それを条件として悪の側の指導者を自然屈伏させたのである。万一、それでも悪の側の指導者が屈伏しない時は善側の指導者の受難を条件として、すべての民衆を感化せしめて、悪の指導者を孤立させたのである。そのようにすれば、悪の側の指導者たちも、結局は屈伏せざるをえなくなるのである。これが善悪闘争の法則の内容である。したがってこの法則を「打たれて奪う法則」または「打たれて奪う戦術」とも呼ぶ。今日まで宗教が迫害を受けながら全世界に伝播していったのは、まさにこの法則によるものであった。

善悪の闘争において、善の側の責任分担が十分に果たされず悪の側が勝利を収める場合、もちろん歴史は善なる方向に転換されず、そのまま延長する。しかし、そのような場合、ある一定の期間が経過すれば、神は再びより善なる指導者を立てて悪の側を屈伏せしめられる。したがって結局は善の側に転換するように、神が背後から絶えず歴史を導かれたのである。それゆえ、今日までの人類歴史は階級闘争によって発展してきたのではなく、善悪闘争によって変遷してきたのである。

そのようにして、歴史は主体と対象の授受作用によって発展してきたのであり、善悪の闘争によって方向を転換してきたのである。すなわち発展と転換の過程を反復しながら、歴史は変遷してきたのである。歴史変遷の過程を図に表せば図8—1のようになる。

以上で歴史は二つの方向に向かって変遷してきたことが分かる。一つは発展(前進)の方向であり、他の一つは復帰(転換)の方向である。発展とは、科学や経済や文化が発展することを意味し、復帰とは、失った創造理想世界——愛と平和の世界——を回復することを意味する。このように歴史に二つの方向が生じたのは、人類歴史が再創造歴史であると同時に復帰摂理歴史であるからである。未来世界は高度に発達した科学文明の世界であると同時に高度の倫理社会であるが、科学文明の世界は発展によって達成され、倫理社会は復帰によって達成されるのである。

復帰は善悪闘争によってなされるが、それは必ずしも武力的な闘争を意味するのではない。悪の側が善の側に従順に屈伏すれば、平和的な転換がなされることも可能なのである。実際に、善悪の闘争を終結させる最後の闘争、すなわちメシヤが直接サタンを屈伏させる闘争は、名前が闘争であるだけで、本当は真の愛をもって平和的にサタンを屈伏させるのである。このように歴史は発展と復帰という二つの方向を目指して螺旋形を描きながら変遷してきたのであるが、発展は永遠に継続するのに対して、復帰は創造理想世界(善の世界)が回復すればそれで終わるのであり、その後は平和と真の愛の理想世界が永遠に継続するようになるのである。